『イージス艦長、終戦直後の新宿闇市でヤクザになる。最先端の軍事ロジスティクスと情報戦で極道組織を改革したら、GHQからも恐れられる最強組になりました』

月神世一

第1話

『合理主義者、混沌(カオス)に目覚める』

西暦2025年、横須賀。

海上自衛隊 開発隊群 艦艇開発隊。

坂上真一(さかがみしんいち)、50歳、一等海佐。

彼の世界は、数字と仕様(スペック)と締切(デッドライン)で構築されていた。

「……非合理的だ」

坂上の低い呟きが、静かな執務室に響く。

目の前のモニターに映るのは、「次期護衛艦(DDX)統合戦闘システム 要求仕様書(第4.2改)」。赤字で無数の修正要求が差し戻されている。現場の要求、技術部の限界、そして何より財務省の予算枠。全てが矛盾し、妥協の産物となり果てたこのA4一枚に、彼は日本の国防の歪みを見ていた。

チッ、と小さく舌打ちし、彼は傍らのタンブラーを傾ける。中身はとうに空だ。

(コーヒーが切れた)

時刻は12時30分。昼休みだ。

彼は思考を中断し、制服の内ポケットから銀紙に包まれたコーヒーキャンディを一粒取り出し、口に放り込む。苦味が脳を刺激する。

昼食は、デスクの引き出しに常備しているカロリーバーと、自販機で買ったブラックコーヒー(無糖)。食事は「栄養補給」であり、「作業」である。5分とかけずに胃に流し込むと、彼は執務室の隅にある仮眠用リクライニングチェアを倒した。

(20分。最適解だ)

連日の激務で、脳がリソース不足を訴えている。完璧な論理(ロジック)を再構築するためには、強制的な再起動(リブート)が必要だった。

彼はタイマーをセットし、深く息を吐きながら目を閉じた。

室内の空調音、サーバーの低いハミング、そして微かなコーヒーの残り香。それが、坂上真一の世界の音と匂いだった。

次に目を開けた時、世界は反転していた。

「――どけ! 邪魔だコラァ!」

「そこの兵隊さん! ジャガイモ安いよ!」

耳をつんざく怒号と、甲高い呼び込みの声。

空調音は消え、代わりに人々の途方もない雑踏音が脳を揺さぶる。

(……なんだ?)

坂上は目を開けた。

蛍光灯の白い光ではない。目に突き刺さるような、煤(すす)けた西日だ。

そして、匂い。

コーヒーの香りなど欠片もない。鼻を突くのは、焦げ臭い煙の匂い、何かが腐敗した酸っぱい匂い、安物のアルコール(カストリか?)の匂い、そして、おびただしい数の人間の汗と垢の匂い。

(……状況を整理しろ)

坂上は、50年の人生で培った危機対応プロトコルを起動しようとした。だが、体が言うことを聞かない。

彼はリクライニングチェアに寝ていたはずだった。

なのに今、自分は湿った土の上に尻もちをついている。

「……ッ!」

慌てて立ち上がると、視界が定まった。

そこは、彼の知る「日本」ではなかった。

見渡す限り、焼け野原に建てられたバラック(掘っ建て小屋)が、雑然と、しかし凄まじい熱量を持ってひしめき合っている。

泥濘(ぬかるみ)の道。着物や、ボロボロの国民服、復員服を着た人々が、ぶつかり合いながら何かを奪い合うように行き交っている。

「新宿……?」

遠くに見えるのは、焼け落ちた百貨店の残骸と、かろうじて原形を留めた駅舎。

彼の知る、清潔で未来的な新宿ではない。

(拉致か? 大規模な演習か? いや、この匂いと空気、セットで再現できるものか……)

混乱する思考の中、彼は自分の「違和感」に気づいた。

着ているものが違う。

いつも寸分の狂いもなく着こなしている海自の制服ではない。ザラザラした感触の、薄汚れた開襟シャツ。ダブダブのズボン。そして、足元は革靴ではなく、素足に下駄。

(……誰だ、これは)

彼は道端の水たまりに顔を近づけた。

そこに映っていたのは、坂上真一だった。

だが、50歳の彼ではない。日に焼け、精悍(せいかん)だが無軌道な光を宿した、20歳前後の「自分」。

「馬鹿な……」

その時、背中にズキリ、と奇妙な痛みが走った。

いや、痛みではない。まるで分厚い何かが張り付いているような、皮膚呼吸を妨げられるような圧迫感。

彼は、水たまりに映る自分に背を向けようとした。だが、それより早く、背後から声がかかった。

「おい、坂上。特攻崩れが何を呆(ほう)けてやがる」

反射的に振り返る。

立っていたのは、柄の悪い男が三人。明らかに「カタギ」ではない目をしている。

(坂上? 俺を知っているのか? 特攻崩れ……?)

祖父の話が脳裏をよぎる。特攻で死んだ祖父。

「……誰だ、貴様ら」

坂上(50歳)は、艦長としての威厳で問い返した。

男たちは一瞬きょとんとし、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。

「貴様ら、だとよ! こいつ、戦争ボケがまだ抜けねえのか?」

「おい坂上、シノギはどうした。今日は早乙女組の集金日だろうが」

シノギ。極道(ヤクザ)の隠語だ。

脳が情報を高速で処理していく。この若い肉体。特攻崩れ。新宿。ヤクザ。

そして、背中の違和感。

坂上は、自らのシャツの襟を掴み、力任せに引きちぎった。

水たまりに、上半身を映す。

日に焼けた若い背中。そこに、鮮やかな墨(すみ)で、憤怒の形相をした「仁王」が彫り込まれていた。

「俺は……」

愕然とする坂上の前で、男たちが下卑た笑いを浮かべる。

「いいモン背負ってんなァ、坂上。だが、組(ウチ)を裏切るなら、その皮、剥がすことになるぜ」

男の一人が、懐からドス(短刀)を抜いた。闇市の人混みが、さっと遠巻きになる。

(……マズい)

50歳の頭脳は瞬時に「脅威レベル」を判定する。

相手は三人、武装あり。こちらは丸腰。状況は圧倒的に不利。交渉か、逃走か。

彼が最適解を導き出す前に、男たちが動いた。

「死ねや、裏切り者!」

ドスが、坂上の腹を狙って突き出される。

(……これまでか)

海自一佐、坂上真一。彼の合理的な人生は、非合理的な状況下で、非合理的な暴力によって終わるのか。

その、刹那。

「――そこまでにしな!」

甲高い、しかし芯の通った女の声が響いた。

男たちの動きが止まる。

坂上が声のした方を見ると、人混みをかき分けて、一人の若い女が立っていた。

坂上と同じ、20歳そこそこ。モンペ姿だが、その佇まいは異様

に堂々としている。

「なんだァ、早乙女組の姐(ねえ)さんか」

ドスを持った男が、嘲るように言った。

「焼肉屋の店番はどうした? こんな所で油売ってると、GHQ(ジーエイチキュー)に店ごと潰されるぜ」

「早乙女……組?」

坂上の口から、無意識に言葉が漏れる。

女――早乙女蘭(さおとめらん)は、男たちをキッと睨みつけた。

「アンタらこそ、白昼堂々こんな所で騒ぎを起こして、MP(憲兵)呼ばれたいの? 治安を乱すなって、本部(ウエ)からも通達が出てるだろうに」

「チッ……」

男たちは顔を見合わせる。「GHQ」や「MP」という単語に、明らかに怯(ひる)んでいる。

「……覚えとけよ、坂上」

捨て台詞を吐き、男たちは雑踏に消えていった。

静寂が戻る。いや、雑踏の騒音は変わらないが、坂上の周囲だけ時間が止まったようだった。

彼は、目の前の「早乙女蘭」と名乗った女を観察した。

(彼女が、ここの「秩序(オーダー)」か。いや、秩序を維持しようとしている脆弱な勢力、か)

「……助かった」

坂上は、50歳の落ち着きで、短く礼を言った。

「…………」

蘭は、そんな坂上を、怪訝(けげん)な顔でじっと見つめている。

やがて、彼女はため息をついた。

「アンタ、さっきからどうしたんだい」

「……どうした、とは?」

「いつもの『死んでやる』って目じゃなくて……まるで、何かに憑かれたみたいにキョロキョロして。挙句の果てに自分の服引き裂いて……」

蘭は呆れたように言い、それから、ふと真顔になった。

「……腹、減ってるのかい?」

「え?」

「ウチに来な。とりあえず、熱い茶漬けでも食いなよ」

蘭はそう言うと、踵(きびす)を返して歩き出した。

「うちは焼肉屋だけど……今のアンタにゃ、肉は重すぎるだろ」

坂上真一は、自分の背中に彫られた仁王の感触を確かめながら、その背中を追った。

昭和21年、敗戦直後の東京・新宿。

彼の「非合理」で、「理解不能」な第二の人生が、今、始まった。

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