13章 古き英雄譚は遠き日の記憶の扉をそっと叩く
第30話
セリカは「勇者リウス物語」を読んだからか、ふと本の頁を撫でる指先に、幼い頃の記憶がよみがえるのを感じた。
“セリカリーナお嬢様”と呼ばれていた頃。
幼い頃の私は小さな背中で、いつも背筋だけは大人に負けまいと張っていた。
部屋には、その分野ごとに“専門”を名乗る大人たちが家庭教師として日替わりで訪れた。
算術の師、礼法の師、剣術の師――そして歴史学を教えてくれたインテグラ先生。
授業が終わると、先生たちは父に彼女の成績と態度を報告した。
父は深く頷き、時折ほんの少し目尻を和らげる。その瞬間だけ、屋敷の空気が春のように緩む気がした。
幼い私にとって、厳しい父から褒められることは、世界そのものに肯定のハンコを押されるようなものだった。
「これでいいのだ」と、胸の奥で静かに何かが形を持つ。あの頃の私は、ただその感覚が欲しくて勉強机に向かっていたように思う。
そんなある日の歴史学の講義で、インテグラ先生は重厚な革装丁の本を抱えてやって来た。古い紙の香りがわずかに鼻腔をくすぐる、厚みのある一冊だった。
「セリカリーナお嬢様、今日はこれを読みましょう。“勇者リウス物語”。史実を下敷きにした物語です。地名も出来事も、学ぶ価値がある一冊ですよ」
そう言って微笑んだ先生の顔は、学者としての誇りと、少女に物語を聴かせる楽しみをこっそり忍ばせていて、私はその横顔が妙に好きだった。
先生は“勇者リウス物語”がどれほど広く読まれ、どれほど多くの子供たちが勇者リウスに憧れて育つのかを、熱を込めて語ってくれた。
けれど私はと言えば、読み進められる頁の向こうで展開される壮大な勇者譚よりも、まず「これはよく整った話だ」と、冷静に構造を理解してしまう自分がいた。
それでも――未知の土地の描写や、勇者リウスと仲間たちの珍道中には確かに胸を動かされ、どこか遠い国の空気を吸い込むような気持ちにもなったのだから、面白かったのは確かだ。
そして授業の最後、先生はふっと視線を遠くへ放り、ぽつりと言った。
「……この物語には、何かが欠けている気がするのです」
「欠けてる……?」
私は思わず聞き返していた。
「ええ。なにかが欠け落ちているみたいな――そんな違和感。それが何なのか、まだ言葉にできませんが……。いつかは物語に登場する土地を巡ろうと思っています。そうすれば、手がかりが見つかるかもしれませんね」
先生の声は雨上がりの風のように静かで、それでいて確かな熱を帯びていた。
あの時、よく分からないながらも、その熱だけは覚えている。
――そして今。
セリカはその時の先生の横顔を思い出していた。
「……インテグラ先生、あれから物語に登場した土地を巡ったりしたのかしら」
あの願いを本気で叶えようとして、今頃、どこかの荒野か、あるいは古い遺跡の片隅で、相変わらず静かに頁をめくっているのかもしれない。
勇者リウス物語。
史実と物語の隙間に潜む“欠けた要素”。
ステラが続きをせがむ声を聞くたびに、セリカの胸の奥で、あの頃引っ掛かったままの棘のような違和感がざわめく。
先生が言っていた“欠けた何か”――それが何なのかは解らない。
「……もし、また先生に会える機会があるのなら、ステラに、あの授業を受けさせたいな。きっと、私が読み聞かせるよりも、面白く興味を持って先生の言葉に耳を傾けて……あの頃の私みたいに、世界を少しだけ広げてくれるかしら」
セリカはぽつりと笑みを漏らした。
久しく会っていない先生の顔が、淡い霧のように脳裏に浮かぶ。
けれど、この辺境で、没落した身の自分が、再び先生と言葉を交わせる日は来ないのだろうと、セリカは小さく息を吐いた。
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