第16話

 アルトとセリカは、ああでもないこうでもないと頭を悩ませている間に、夜が訪れていた。


 焚き火の赤が石壁をゆるやかに染め、外では虫の声が細く糸のように流れている。

 乾いた風の匂いと、薪の焦げる匂いが入り混じるその夜、ステラは小さな足音を忍ばせて家を抜け出した。


 用を足すために外へ出た――ただそれだけのこと。


 家の中には便所がなく、臭気を避けるために少し離れた場所に穴を設けている。


 星降の日から数日が経つというのに、空はなお、その名残を惜しむかのように光を散らしていた。無数の星が瞬き、天の川がかすかな白煙のように夜空を横切っている。


 そのとき――視界の端に、ひとつの光が揺れた。


 青白い、月光を閉じ込めたような小さな球体。

 風に運ばれ、ふわりふわりと漂っている。



 ステラは思わず足を止めた。焚き火でも、灯火でもない。光の玉。

 警戒のかけらもなく近づくと、手を伸ばし、人差し指でそっと突く。


「おおっ!」


 光の玉がふるりと震えた。


『なんじゃ……童よ。わたしの姿が、見えるのですか?』


 それは、、水の底から響くような声だった。

 ステラは小さく頷く。


「うん。あなたは誰ですか? ここで何をしているのですか?」


 光の玉は彼女の周囲を円を描くように回った。まるで彼女の姿をなぞるかのように、ゆるやかに漂う。


『久しい……その立ち振る舞い、その声の響き、なぜか懐かしい……まるで――』


 言葉が途中で止まる。

 青白い光はステラの顔の前に浮かび、その瞳を覗き込むように静止した。

 そこには遠い記憶の残影がよぎっていた。はるか昔、かつて共に旅した“誰か”の影を、光の中は確かに見たのだ。


『わたしは……人から“水の精霊”と呼ばれる存在。ここは魔素が濃く、溢れる場所。それ故、引き寄せられたようです……』


「水の精霊? 幽霊おばけですか?」


『ふふ……人によっては、同じものと呼ぶかもしれませんね』


「そんな、水の精霊さんは、なんなのですか?」


『なにかと訊ねられても、うまく答えられん。そうさね。水を司る……水を自由に扱えるだけの存在よ』


「水を!? そうしまたら、お願いがあります」


『お願い?』


「今、わたしがお世話になっている人が、水が欲しくて、地面を掘っているけど、水が湧いてこなくて、困っているのです」


 月明かりに照らされた地には、あちらこちらに深い穴が穿たれている。アルトのゴーレムたちが必死に掘った痕跡だ。

 ステラはその穴を見つめながら、胸の前で小さく手を合わせた。


「それで、水を出してくれません?」


『なるほど……』


 精霊はしばし黙した。人間の願いなど、応じる義理もない。だが、目の前の少女から漂う何か――懐かしさにも似た波動が、その心を揺らした。

 まるで、はるか昔よりこの願いのために呼ばれていたかのように。


『わかりました。私が応えられる範囲で、あなたの願いを叶えてみましょう』


 青白い光が高く舞い上がり、やがて眩い輝きに変わる。風が一瞬止み、夜気が震えた。

 そして――掘り返された乾いた一つの穴の底から、泡のような音が立ちのぼる。次の瞬間、透明な水が、地の底から溢れるように湧き上がった。


 ステラは息を呑んだ。冷たい滴が頬に落ち、涙と見まがうように伝う。


「すごい! すごい! 水が出た!」


 精霊は優しく光を揺らし、少女の頭上に浮かんだ。


『もしまた、わたしの力が必要なときは――わたしの名を……この名を呼びなさい。“アクア”と』


 その言葉とともに、光は霧のようにほどけ、湧き上がる水の中に溶けていった。

 残されたのは、星明かりと、水のせせらぎだけ。


 夜が明ける。

 朝の光が地平を染めるころ、アルトとセリカは奇跡を目の当たりにした。


「セリカさん。見てください。水が……」


「……ええ。間違いなく湧いているわね」


 掘り返された地面の底に、静かに鏡のような水面が生まれていた。朝の光を受けてわずかに揺らぎ、底知れぬ透明の青が、辺境の乾いた大地にありえぬほどの潤いをもたらしている。

 ステラは膝をつき、ためらいもなく両手を差し入れる。掌に受けた水はひんやりと指の間を滑り、唇を寄せて一口――ごくり、と喉が鳴る。


「あっ、ステラ。およしなさい。生水はそのままですと危ないですわよ!」


 だが少女は気にも留めず、鳴らして飲み干した。


「ぷはっー!  セリカーさん、アルトーさん。すっごく美味しいよ、このお水!」


 陽光を反射して水面がきらめく。

 アルトとセリカは思わず顔を見合わせる。無言のまま、しかし、互いの瞳に同じ感情が宿っていた――安堵と、少しの驚き、そして純粋な歓び。


 「よしっ」と、アルトは笑い、覚悟を決めたように両手を水へと差し入れた。掬い上げた水は清涼な光を帯び、唇に触れると、まるで大地の奥深くから蘇った命の雫のように全身へ沁み渡る。


「本当だ! すっごく美味しいですよ。セリカさんも飲んでみてくださいよ」


 満面の笑みを浮かべる二人に、セリカはあきれたように肩を竦める。


「私は、ちゃんと煮沸して飲みますわ。……まったく、二人とも後でお腹を壊しても知りまらんからね」


 セリカは口を尖らせつつも、二人の無邪気な笑顔に小さく息を漏らしつ、微笑ましく眺めていたのであった


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