6章 星の降る夜、願いを託したその先で、記憶を失いし少女と出会い、奇妙な共同生活が始まる

第13話

 村には宿屋と呼べるような施設は一軒もなかった。

 旅人など年に何度も訪れぬこの辺境では、それはもはや不便でも異常でもなく、ただ世界の理の一部として受け入れられている事実だった。


 アルトたちは前に訪れたときと同じように、村長の使っていない部屋を快く貸してもらった。

 煤けた板壁には、長い年月を生き抜いた木の呼吸が滲み、乾いた藁と獣毛の匂いが染みついている。

 寝床と呼ぶにはあまりに質素な、馬小屋に似たその部屋でさえも、雨風を凌ぎ、冷たい地面を背に眠る夜に比べれば、これ以上ないほどの贅沢に思えた。


 その夜、アルトとセリカは、久しぶりに深く眠った。

 遠くで風が壁を撫で、炉の残り火がかすかに赤く揺れていた。


「今度、ラパンに寝具を頼もう」


 翌朝、淡い朝靄の中で、アルトはまるで夢の続きのように呟いた。


 帰還の支度を整え、ラパンとの物々交換で手に入れた荷を馬の背に積むと、彼はいつものように護衛用のゴーレムを作ろうとした。

 だが、土を掬い上げた瞬間、手が止まる。


「あっ……しまったな……」


 掌に伝わる感触が違っていた。

 この村の土には、イーヴェル辺境のように濃い魔素が含まれていない。

 まるで生命の芯が抜け落ちたように、乾ききった砂の粒子が指の隙間からさらさらと零れ落ちていく。


「この土や砂でゴーレムを作ったとしたら、ポンコツなゴーレムになってしまう……」


 そう呟いたアルトの言葉に、セリカが眉をひそめる。


「つまり、護衛ゴーレムなしで帰るしかないってこと?」


「……いや、まあそうだけど。代わりに、魔獣避けくらいはした方がいかも。たしか、最初ここに来た時に……」


 二人は再び雑貨屋に訪れて、ツケで“魔獣避けの匂い袋”を手に入れた。

 乾燥させた香草と薬石を混ぜ合わせたそれは、ここいらの魔獣が本能的に嫌う刺激臭を放つ。


「匂いはきついが、効き目は保証するよ」


 老店主がそう笑うと、セリカは鼻をつまみながら訝しげに小さく肩をすくめた。



 * * *



 だが、その効果は確かだった。

 帰り道では魔獣に出くわすこともなく、風が草を撫でる音だけが夜を満たしていた。


 やがて、陽が沈み、空は群青に溶けてゆく。

 野営の夜。焚き火の火が乾いた枝を焼き、ぱちりと小さな破裂音を上げる。


 夜空の果てに――無数の光の粒が、まるで天が大地に贈る祈りのように、静かに降り始めていた。


「……これが、“星降”?」


 セリカが呟く。

 夜空の果てから、幾千もの光が降り注いでいた。

 尾を引いて流れる星々が、ひとつ落ちるたびに空気が静かに震える。まるで世界そのものが息を潜め、星々の囁きを聴いているようだった。


「すごいな。まるで異世界みたいだ」


「イセカイ?」


「あ、いや。なんでもない」


 軽く手を振るアルト。

 その言葉の意味を詮索する気はなかったが、セリカは彼を横目で見る。

 時々、理解不能な言葉を口走るのは学院で“変人先輩”と評されていた所以を納得する。


 それにしても、とセリカは思う。

 かつて王族の婚約者として玉座の間も歩いたこともある自分が、いまは辺境の夜風に晒されながら、流星の雨を眺めながら、焼けた芋をかじっている――。

 その見窄らしさに、あまりの落差に、胸の奥で小さく笑いが零れてしまう。


「しかし、願いを叶え放題だな」


 ぽつりとアルトが言った。

 セリカは、芋を手にしたまま首を傾げる。


「え? なんですの、それ?」


「言わないか? 流れ星が流れている間に3回お願いごとをすれば、その願いが叶うって」


「いいえ、初耳ですわ」


「あっ、そうなの……。そうか、こっちではそういう文化とかが無いのか……」


 流れゆく星に願いを託せば叶う――そんなもの、子供の戯れ言にすぎないと、セリカはひとつ小さく息を吐いた。

 だが、燃え落ちる星々の光があまりにも美しく、もしもその輝きがほんの一瞬でも誰かの想いを運ぶのならと、心のどこかで信じてみたくなった。だから彼女は、誰にも聞かれぬように唇を結び、そっと胸の奥に秘めた願いを――ただ一つ、夜空へと放った。


 星々の雨が次第に細くなり、夜が再び静寂に包まれかけたその時、ひときわ眩い閃光が天を裂いた。

 白銀の尾を引いた一条の流星が、まるで意志を持つかのように、一直線にイーヴェル辺境の方角へと墜ちていく。


 空気が一瞬震え、時間差で大地が低く唸った。


 夜はそのまま静まり返り、何事もなかったかのように星々は瞬き続けた。


 翌朝。灰色の空。湿った土の匂い。

 二人がイーヴェル辺境へ戻ると、開拓地の中央に――小さな人影が横たわっているのが見えたのであった。


 その周囲の土は黒く焦げ、草が蒸気を上げていた。

 まるで星が墜ちた痕のように。


 アルトは息を呑み、セリカはその場に立ち尽くした。

 小さな人影――それは、年若い少女だった。


 まるで“天から零れ落ちた星”そのもののように、静かにそこに眠っていた。

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