第14話 友だちの質問は、どうしてこんなに真っすぐ刺さるんだろう
月曜日の朝、教室の空気はいつも通りだった。
黒板の端に、週番が書いた日付。
窓際の席であくびを噛み殺しているやつ。
プリントの束を机に置いて、小テストの準備をする先生の気配。
全部、いつもの風景のはずなのに——
俺の中だけ、少し季節が進んでいるみたいだった。
(……そりゃそうか)
土曜日、親の前で「嫌いをやめた理由」を話した。
“婚約者候補”として席に座り、
帰り道で、かおると「嫌いには戻らない」って約束をした。
昨日の日曜日、ラインで何度かやり取りをしたけれど、
結局「明日、いつも通り学校で」ってところで止めた。
今日が、その「いつも通り」のはじまりだ。
机の上にカバンを置きながら、
無意識に、教室の扉のほうへ視線が流れる。
まだ来てない。
時計の針は八時二十分を指している。
いつもより、少し早く着きすぎた。
「……おはよーっす」
背後から伸びた声に振り向くと、
須藤が、片手で鞄をぶらさげながら入ってきた。
「春日井、なんか顔違くね?」
「朝からそれは失礼だろ」
「いやマジでさー。
昨日、徹夜でゲームしてました、みたいな顔じゃないつーか」
「褒めてるのか貶してるのかどっちかにしてくれ」
適当に返しながらも、
どこか落ち着かないのは変わらなかった。
昇降口のほうから、女子の笑い声が聞こえたのはそのときだ。
ひときわ高い声と、落ち着いた低めの声。
耳が、勝手にそっちを拾う。
「おはよー」「おはよう、相良ちゃん」
階段を上がる足音。
廊下のざわめき。
それが近づいてきて——
「おはよ、りん」
教室の扉が開いて、
涼しい声が落ちてきた。
相良かおる。
いつものポニーテール。
いつもの、静かな目元。
けれど、ほんの少しだけ、
頬の色が柔らかい気がした。
「おはよう」
自然に返す。
それだけなのに、胸の奥で何かがふっと浮き上がる。
かおるは自分の席にカバンを置き、
ふとこちらを見た。
目が合う。
どちらともなく、ほんの少しだけ笑う。
何も特別なことは言っていない。
けれどその一瞬だけで、土曜日の夜のロータリーや、
「嫌いに戻らない」って言葉が全部よみがえってくる。
(やばいな……顔に出てないといいけど)
そう思った瞬間だった。
「おいおいおーい?」
須藤が、俺の机に肘をついてにじり寄ってきた。
「今の“おはよ”さぁ。
なんか……砂糖一杯分ぐらい甘くなかった?」
「なってねぇよ」
「いや、なってたよね絶対」
いつの間にか、
雨宮と茜も近くまで来ていた。
「うん、なんか違う。空気が」
「ていうかさ、相良ちゃんの顔も、ちょっと赤くなかった?」
「なって……た、かな?」
視線を向けると、
かおるは教科書を出しながら、耳のあたりをそっと押さえた。
押さえているってことは、意識してるってことだ。
たぶん、ちょっと赤い。
(うわ、完全に材料与えてるな俺ら)
心の中で頭を抱えた瞬間、
須藤がニヤリと笑った。
「土曜さぁ〜〜」
嫌な予感しかしない前置き。
「駅前にいたよな? お前ら」
「っ……」
心臓が、一段階大きく打った。
見られていた。
ロータリーで「また明日」を言い合って別れたところを——?
「いや別に、付きまとってたわけじゃねぇよ?」
須藤は両手をひらひらさせる。
「たまたまコンビニ行こうとして通りかかったらさ、
なんか街灯の下で、いい感じの距離で向かい合ってる二人がいてさぁ」
「やめろ」
「“また明日”って、
ラスト一行のラブコメかよって距離で言っててさぁ」
「聞こえてんじゃねーか!」
「いや、口の動きが完全にそれだった。音は聞こえてない。
……でもさ?」
須藤が、机に身を乗り出す。
「“また明日”って、
あんな真顔で言う?」
教室の空気が、少しざわついた。
近くの席の何人かも、こっちを見ている。
「な、なるほどね」
「そういう感じ?」
「え、付き合ってんの?」
茜と雨宮が、女子特有の勘の良さで
一瞬で話を飛ばしていく。
「ちょっと待て。話が飛んでる」
否定しようと口を開きかけたその時。
「じゃあ、質問変える」
須藤が、人差し指を立てて言った。
「——相良のこと、どう思ってんの?」
その問いは、
変に飾られていないぶんだけ、真正面から刺さる。
教室のざわめきが、一瞬だけ止まった気がした。
机の上のシャーペン。
黒板のチョーク。
窓の外の雲。
全部の輪郭が、妙にくっきりしてくる。
隣の席。
かおるは、視線を落としたまま固まっていた。
手元のペンをぎゅっと握っている。
(……どう答えるか)
ここで適当に誤魔化すことだってできる。
「普通のクラスメイト」とか。
「友だち」とか。
「嫌いじゃない」とか。
でも——
土曜日に、あれだけ本気で喋ったばかりだ。
親の前で、「嫌いを盾にするのをやめる」って決めた。
かおると、「嫌いに戻らない」って約束した。
ここでまた、
曖昧に濁して逃げるのは、
自分でも許せなかった。
喉の奥で息を吸う。
「……前は、“嫌い”って言ってた」
須藤の眉がぴくっと動いた。
「でも、それって正直、
“ちゃんと知るの怖いから距離とるための言い訳”だったなって
最近気づいた」
自分でも驚くくらい、声は落ち着いていた。
「嫌いって言ってたほうが、
楽っていうか、
誤魔化せるっていうか」
あの頃の自分を思い出す。
ぶっきらぼうな言い方。
わざと突き放す態度。
「でも、そっから“嫌い”をやめて、
ちゃんと“また明日”って言うようになって、
一緒に保健の仕事して、文化祭の準備して、
顔合わせの話もあって、土曜日にそれで——」
「ちょ、顔合わせって」
須藤が割り込む。
周りの数人が、ざわっと小さく揺れた。
「やっぱそれ、マジのやつじゃん」
言われても、もう止まらない。
「それで……今思ってるのは」
言葉を選ぶ。
“好き”って言えば簡単だ。
でも、簡単に言っていいほど軽いものでもない。
ただ、
今の自分の正直な位置は——
「“嫌い”じゃないって、
胸張って言える相手、かな」
教室の空気が、すっと引き締まる。
「それと……」
そこから先は、少しだけ勇気が要った。
「一緒にいると、落ち着く相手」
須藤が目を丸くする。
「落ち着く?」
「うん。
変な意味じゃなくて、
隣にいると、“あ、今日もちゃんと明日が来そうだな”って思えるというか」
保健室の机。
文化祭の準備室。
昇降口の階段。
駅前のロータリー。
その全部で、
かおるは、そこにいるだけで空気を整えてくれていた。
「……そういう相手だと思ってる」
言い終わると同時に、
どっといろんな音が戻ってきた。
「え、なにその言い方」「重い、でも尊い」「告白じゃんこれ」
「“嫌いじゃない+落ち着く”=ほぼ好きでしょ」
「春日井の語彙、初めて信用したわ」
クラスのあちこちから声が上がる。
でも、その喧騒よりも気になる場所が一つだけある。
隣の席。
視線をそっと向ける。
かおるは、真っ赤だった。
耳の先まで染まっていて、
ペンを持つ指が小さく震えている。
それでも、
ゆっくりと顔を上げて、俺を見た。
目が合う。
その目の奥には、
驚きと、恥ずかしさと、
それから——少しの嬉しさが混じっていた。
「……りんの言い方、ずるい」
かおるが、小さな声で言った。
「え?」
「“好き”って言ってないのに……
それ、ほとんど“好き”って言ってるのと変わらないよ」
教室の空気が、もう一回ざわつく。
「ほら出た!」「相良ちゃんもちゃんと返すタイプだ」
「ねぇねぇ、相良ちゃんは? 春日井くんのことどう思ってんの?」
今度は矛先が、かおるに向いた。
「えっ……わたし?」
「当たり前じゃん!」「不公平じゃん!」「情報の非対称性!」
「急に経済用語出すなよ」
ツッコミを入れながらも、
こっちも内心落ち着かない。
(そりゃ聞かれるよな……)
でも、さっき俺が全部喋ったんだ。
彼女にだけ誤魔化させるのも違う気がした。
「……わたしは」
かおるが、ゆっくり息を吸う。
教室のざわめきが、また少し静かになる。
「“嫌い”って言ってた頃に戻りたくないって、
心の底から思える相手、かな」
須藤が「おお」と小さく唸った。
「それと、
土曜日の帰りに、
“嫌いに戻らない約束”をしたから」
「やっぱしてたの!?」
「須藤、静かに」
「はい」
素直に黙るあたり、空気は読めるやつだ。
「……だから、
“嫌いに戻らないでいい相手”です」
かおるは、そう締めくくった。
「“嫌いに戻らないでいい相手”って、
たぶんわたしの中では、
すごく大事な位置にいる人なので」
そこまで言って、ふっと笑う。
「落ち着くかどうかは……
落ち着くっていうか、
りんが隣にいると“あ、今日もちゃんと生きられそうだな”って思える」
教室のどこかから、
「やば……」「尊い」「文芸か?」
みたいな声が聞こえた。
(……これ、多分今日一日いじられるやつだな)
ため息をつきかけて、
でも、やめた。
悪くない。
こうやって揺さぶられるのは、思ったほど不快じゃなかった。
むしろ——
(こういうの、ちゃんと通過していかないといけないんだろうな)
そう思えた。
⸻
午前中の授業は、
予想通りというか予想以上に、いろんな視線が飛んできた。
先生が板書をしている間も、
後ろのほうからひそひそ声が聞こえる。
「マジで婚約者候補なんだって」「顔合わせしたんでしょ?」
「親公認とか強すぎ」「物語かよ」
ノートを取りながら、ちらっと横目でかおるを見る。
真面目に前を向いて、授業を聞いている。
けれど、ページをめくる指先がいつもより少し早い。
落ち着いて見えて、実は落ち着いてないときの動きだ。
休み時間になるたびに、
女子たちがかおるの机の周りに集まる。
「ねぇねぇ、本当に顔合わせしたの?」
「服なに着てったの?」「お母さん、なんか言ってた?」
「春日井くんの私服、どうだった?」
質問の雨あられ。
俺は俺で、男子から囲まれた。
「お前、あれ普通に告白より重いだろ」
「“落ち着く相手”とか、プロポーズ前夜のセリフじゃん」
「ちゃんとリハーサルしてから言えよそういうの」
「してねぇよ全部アドリブだよ」
「なおさらすげぇな……」
ひたすら質問と冷やかしに対応し続けて、
気づけば四時間目まで一瞬で過ぎていった。
⸻
昼休み。
弁当の蓋を開けようとしたところで、
肩をぽんぽんっと叩かれた。
「春日井〜〜」
「……なんだよ」
振り向くと、須藤と、もう二人ほど男子が立っていた。
「ちょっと来い」
「いや、弁当——」
「持ってこい。屋上」
「屋上、飲食禁止だろ」
「階段途中まででいいから」
有無を言わせない顔だった。
断る理由もない。
弁当を持って立ち上がると、
視線が自然と隣に流れた。
かおるのほうには、
雨宮と茜、それから何人かの女子が近づいている。
「相良ちゃんも、ちょっと来ない?」
「屋上じゃないけど、図書室」
「ゆっくり話聞きたい〜」
目が合った。
俺と、かおると。
お互いに、苦笑する。
(……取り調べタイムか)
心の中で同時にそう思ったのかもしれない。
小さく頷き合って、
それぞれ連行されていった。
⸻
階段の踊り場。
窓の外には、体育館の屋根が見える。
ここなら、人の行き来も少ない。
男子三人が横に並ぶと、
なかなかの圧迫感だ。
「で」
須藤が腕を組んだ。
「土曜日、具体的に何をしたのかを事細かに説明してもらおうか」
「取り調べかよ」
「当然だろ。こっちは“親友枠”だぞ?」
「そんな枠あったの初耳なんだけど」
「あるんだよ。今できた」
くだらないやり取りで、少しだけ緊張がほぐれる。
けれど須藤の目は、
ちゃんと真剣な色も含んでいた。
「マジで気になるんだよ。
なんかお前、土曜から雰囲気違うし」
「……顔合わせしたのは、さっき言った通りだよ」
観念して、順を追って話した。
レストランで親同士が挨拶したこと。
“正式な婚約の場ではない”と説明されたこと。
自分の言葉で「嫌いをやめた理由」を話したこと。
かおるも「嫌いって言ってる自分が嫌いだった」って言ったこと。
親たちが、「嫌いに戻らないでくれたらそれだけでいい」と言ったこと。
できるだけ淡々と、
でも嘘を混ぜずに話していく。
須藤たちは、途中で茶化すこともなく聞いていた。
「……で、そのあと」
最後の部分は少し迷った。
でも、もうここまで来たら、隠すのはかえって不自然だ。
「駅前で、二人で歩いて。
“嫌いに戻らない約束”をして。
それから“また明日”って言って別れた」
言いながら、
自分でもすこし照れくさくなる。
「“また明日”って言うだけで、
なんか今日と明日がちゃんと繋がる気がしたから」
三人は、顔を見合わせた。
「……なぁ」
「うん」
「これさ」
須藤が、ぽりぽりと頭をかきながら言った。
「普通にさ、
“付き合ってない”って言い張るほうが無理ない?」
「いや、だからさ」
「形式上どうとかじゃなくてさ」
「お前の中でさ」
別の男子が口を挟む。
「相良のこと、
“彼女候補”ぐらいには入ってるわけでしょ」
「候補って言い方な」
「違うの?」
「……今すぐラベル貼る必要はないだろ」
言いながら、自分でもそれが逃げに近いとわかっていた。
「まだ“婚約”とか“恋人”みたいな重さを
自分がちゃんと持てるかどうか、よくわからないし」
「まぁ、それはそうだな」
「でもさ」
須藤が、真面目な顔になった。
「一個だけ確認させろ」
「なんだよ」
「——相良が誰かに告られて、
“ごめんなさい”じゃなくて、
“考えてみます”って言ったら、どう思う?」
胸の奥に、
冷たいものが一瞬で落ちてきた。
「……は?」
「いやだからさ。
相良、普通に可愛いしさ。
“春日井くんとは婚約するかもしれないだけで、
まだ付き合ってるわけじゃないんです”とか言ったらさ。
ワンチャン狙ってくるやつ、いないわけないじゃん?」
いないわけ、ない。
想像したくなくても、簡単に思い浮かぶ。
文化祭で、
「相良さん、綺麗だよね」と言っていた他クラスのやつらの顔。
たまたま廊下ですれ違ったとき、
かおるを振り返って見ていたやつらの背中。
「そのときお前が、
“まぁ別に俺関係ねーし”って
本気で思えるならさ。
“嫌いに戻らないクラスメイト”で押し通すのもアリだと思うよ」
須藤の声は、
いつものふざけた調子ではなかった。
「でももし、
“いやだな”って思うなら」
「……」
「自分で自分の感情に名前つける練習、
そろそろしてもいいんじゃね?」
しん、とした沈黙が降りた。
胸の中で、
試しにその状況を想像してみる。
誰か知らない男子が、
かおるの前に立って、
まっすぐ目を見て「好きです」って言っているところ。
かおるが、困ったように笑って——
「ごめんなさい」とも「うれしい」とも言えなくて——
「少し、考えさせてください」と答えるところ。
その隣で、自分が何も言えずに突っ立っているところ。
喉が、きゅっと締まる。
「……嫌だな」
ぽろっと、声が出た。
須藤たちが、にやりとも笑わずに、
ただじっとこちらを見ている。
「それは……普通に嫌だ」
もう一度、はっきりと言った。
「別に所有権とか、
そういう話じゃないけど。
“嫌いに戻らない”って一緒に決めてさ。
“また明日”をこんなに大事にしてさ。
それで、
“少し考えさせてください”って誰かに言ってるのを
横で見せられるのは——
多分、耐えられない」
そこまで口にした瞬間、
自分の中で何かが“形を持った”気がした。
「……あーあ」
須藤が、半分あきれたように笑う。
「それ、もう普通に“好き”って言ったほうが
コスパいいんだけどな」
「お前らすぐそうやって言葉にラベル貼る」
「ラベル貼らないでぐちゃぐちゃにしてんのが、
一番しんどくなんの早いんだって」
たしかに、そうかもしれない。
だけど今はまだ、
そのラベルを自分の口から言うのは、
もう少しだけ時間がほしかった。
「……急かすなよ」
「急かしてねぇよ。
ただ、“揺れたときの自分”ぐらいは見とけって話」
須藤は、そう言って肩をすくめた。
「ま、ひとまずあれだ」
別の男子が、おにぎりを頬張りながら言う。
「今んとこお前は、
“嫌いに戻らない+他の男に取られたくない相手”って認識なんだろ」
「……言い方よ」
「いいじゃん、わかりやすくて」
「で、相良は相良で、
たぶん女子側から取り調べ中だしな」
俺は、窓ガラス越しに校庭を見た。
向こうの棟の二階。
図書室の窓が、静かに光を反射している。
(……あっちはあっちで、
今何聞かれてんだろうな)
そう思うと、
少しだけ胸がざわついた。
⸻
一方その頃、図書室では——。
「でさぁ〜〜」
「どうなのどうなの?」
「“嫌いに戻らない相手”って、
もうそれほぼ“好き”じゃない?」
かおるは、
参考書コーナーの奥、窓際の席に座らされていた。
周りを囲むのは、
雨宮、茜、それからクラスの女子数名。
「ちょっと、大きな声出さないでよ……」
「図書室だからって? 大丈夫大丈夫、今ほとんど人いないし」
「そういう問題じゃなくて」
かおるは、
開いたままの英単語帳を盾にしながらため息をついた。
(……想像はしてたけど)
ここまで集中砲火を浴びる未来は
さすがに予想していなかった。
「でもさ、素直にすごいと思ったよ?」
雨宮が、少し真面目な声になる。
「親の前でさ、“嫌いをやめた理由”とかちゃんと言えるの。
あれ、普通できないって」
「そ、そんなにすごかったかな……」
「すごかったよ?」
「かっこよかったよ?」
「うちの親に聞かせたいぐらいだった」
褒められても、素直に受け止めきれない。
かおるは、指先でページの端を撫でながら、小さく首を振る。
「わたし、ただ……
“嫌いに戻りたくない”って言っただけなのに」
「それがすでに尊いんだってば」
茜が、机に頬を乗せるようにして言う。
「でさでさ、質問いい?」
来た。
かおるは、心の中でそう呟いた。
「春日井くんのこと、
“婚約者候補”じゃなくて、
“男の子”として、どう思ってる?」
その質問は、
須藤がりんに投げかけたものと、
ほとんど同じだった。
「“嫌いじゃない相手”は聞いたよ?
でも、“好きかどうか”を聞いてるわけじゃなくてね?」
雨宮が、柔らかく言葉を添える。
「“怖くない?”とか、“安心する?”とか、
そういう感じのやつ」
「……安心、はするかな」
かおるは、視線を窓の外に逃がした。
校庭の隅で、サッカー部がボールを蹴っている。
「一緒にいると、
“今日もなんとかなるな”って思えるから。
中学の頃は、
“なんとかならなくてもいいや”って、正直ちょっと思ってた時期があったから……」
そこまで言って、言葉を切る。
あのころの自分の顔を、
あまり長く思い出していたくはなかった。
「りんが“嫌いをやめる”って言ってくれて、
わたしも“嫌いをやめる”って決めてから、
朝起きるのが、
前より少しだけ楽しみになったの」
静かな声になっていた。
「“また明日”って言うたびに、
明日が少しだけ軽くなる感じがして。
だから、
そういう意味での“安心する相手”……かな」
女子たちが、顔を見合わせる。
「ねぇ、それもう“好き”って言っていいと思うんだけど」
「違うよ、今はまだ違うの」
かおるは、慌てて首を横に振った。
「“好き”っていう言葉、
わたし、多分すごく重く受け止めちゃうから。
今、簡単に使ったら、
あとで後悔しそうで……」
そう言いながら自分の胸に手を当てる。
「でも、
“嫌いじゃない”とか“安心する”とか
“嫌いに戻らないでいい相手”っていうのを
大事にしていきたいんだよね」
「真面目だなぁ」
茜が、少し呆れたように笑った。
「でも、いいなぁ。
そうやって理由ちゃんと話し合えるの」
別の女子がぽつりと言う。
「うちの元カレなんてさ、
“好きかどうかわからないけど一緒にいて楽しいから”っていう
意味わかんないセリフで付き合ってたからね」
「それはそれでわかる気もするけど」
「いや、でもさ。
相良ちゃんたちのほうが健全だよ。
最初に“嫌い”って言い合ってから、
ちゃんと“嫌いをやめる”って話し合って、
“嫌いに戻らない約束”までしてさ」
そう言われると、
自分たちの関係が、
少しだけ誇らしいものに思えてくる。
雨宮が、ふっと笑う。
「ねぇ、相良ちゃん」
「なに?」
「もしさ——」
彼女は、
窓の外の光を一瞬見つめてから、
視線を戻して言った。
「もし仮に、
春日井くんが誰かに告白されて、
“ちょっと考えてみる”って言ってたら、どう思う?」
心臓が、
小さく跳ねた。
「そ、それは……」
「“嫌いに戻らない約束”をしてる状態でよ?」
茜が、追い打ちをかける。
「“婚約者候補”として顔合わせまでしてる状態で、
他の子から“好きです”って言われて、
“少し考えます”って」
「……嫌、だよ」
答えは、すぐに出た。
「考えなくていいのにって思う。
“嫌いに戻らない約束”をしてるのに、
なんでそこで“考える”のかなって、
わたし、多分すごく傷つく」
そこまで言って、
はっと息を飲んだ。
(……これ)
自分の言葉に、自分が一番驚いていた。
女子たちが、にやっと笑う。
「はい、出ました〜〜」
「それ、完全に“好き”の前のやつ〜〜」
「“独占したいとまでは言わないけど、他の子に持ってかれたくない”ってやつ〜」
「む、難しい言い方するね……」
「難しくないよ」
「でもね、それ、めちゃくちゃ大事な感情だよ」
雨宮が、柔らかい声で言った。
「自分がどうしたいかっていうより、
相手にどうしてほしいかが見えてきたとき、
初めて“好き”の形が決まるっていうかさ」
言われてみれば、その通りかもしれない。
「だからさ」
茜が、机をトントンと軽く叩く。
「相良ちゃんは今、
“りんには他の子にいい顔しないでほしい”って
ちゃんと思えるくらいには、
春日井くんのこと、大事に思ってるんだよ」
「……そう、なのかな」
「そうだよ」
女子たちの声が重なった。
かおるは、視線を膝の上に落とした。
制服のスカートの布を、
指でぎゅっとつまむ。
(りんが、他の子に“嫌いをやめる”って言ったら——)
想像しただけで、
胸の奥がきゅっと縮んだ。
「やっぱり、嫌だな……」
ぽつりと呟く。
「“嫌いに戻らない約束”したのに、
それがわたしだけじゃなかったら、
ちょっと、耐えられないかも」
その正直な言葉に、
雨宮が満足そうに頷いた。
「うん、それだけわかってたら十分」
「十分?」
「十分、相良ちゃんの“今の距離”は見えてるってことだから」
図書室の窓から差し込む光が、
本棚の背表紙を照らしている。
その光の中で、
かおるは静かに目を閉じた。
(……わたし、りんのこと)
“好きです”って言葉は、まだ喉の手前で止まる。
けれど、
その手前まで言ってしまった自分を、
もう否定できなかった。
⸻
放課後。
昇降口に向かう廊下で、
俺とかおるは自然に合流した。
「取り調べ、お疲れ」
「そっちもね」
目が合って、思わず笑ってしまう。
「須藤と、他二名に囲まれた」
「わたしは、雨宮さんと茜ちゃんと……
あと数人」
「女子のほうが人数多いな」
「質問の数もね」
靴箱の前で上履きを脱ぎながら、
自然と会話が続いていく。
「……なんか言われた?」
「“具体的に土曜日何してたか全部言え”って」
「あっちはあっちで同じだね」
かおるも、くすっと笑う。
「こっちは、“りんのこと、怖くない?”って聞かれた」
「怖くはないだろ」
「うん。
“安心する”って答えた」
心臓が、
一拍ぶん強く打った。
「……そうか」
「うん」
外に出ると、
夕方の風が頬を撫でた。
校門までの道を、並んで歩く。
肩はかすらない距離。
でも、影はまた自然とくっついていた。
「須藤にな、聞かれた」
「なにを?」
「もし相良が誰かに告白されて、
“少し考えさせてください”って言ったらどう思う?って」
かおるの足が、
一瞬だけ止まりかけた。
「……どう答えたの?」
「“嫌だな”って」
ストレートに言うと、
彼女は目を丸くした。
「“嫌いに戻らない約束”してさ。
“また明日”を大事にしてさ。
それで他のやつに
“ちょっと考えます”って言ってるのを見せられたら、
たぶん素直ではいられない」
自分の口から出た言葉に、
自分でも少し驚いていた。
(……さっきより、正直になってるな)
でも、もう戻れない。
“嫌いに戻らない”って決めたのは、自分だ。
かおるは、
数秒間黙っていた。
風の音だけが、二人の間を通り過ぎる。
「——わたしも」
やっと、彼女が口を開いた。
「雨宮さんに、
同じこと聞かれた」
「同じ?」
「もし、りんが誰かに告白されて、
“少し考えさせてください”って言ったらどう思うって」
喉が、
少しだけ乾いた。
「で、なんて答えた」
「“嫌だな”って」
彼女の声は、
少し震えていたけれど、はっきりしていた。
「“嫌いに戻らない約束”したのに、
それがわたしだけじゃなかったら、
多分、耐えられないって」
胸のどこかが、
ぐっと掴まれたような感覚になった。
嬉しいとかありがたいとか、
そういう簡単な言葉では追いつかない。
「……そうか」
「うん」
かおるは、一度深呼吸してから、
ふっと笑った。
「今日、すごく揺れたね」
「揺れたな」
「でもね」
彼女は、自分のカーディガンの袖を、
指でそっとつまんだ。
それは、土曜日の夜と同じ仕草。
「揺れたぶんだけ、
“嫌いに戻らない”って気持ちも、
ちゃんと強くなった気がするの」
その言葉に、
返すべき言葉は一つしか思い浮かばなかった。
「俺も」
自分の袖をつまみ、軽く持ち上げる。
「今日一日、
友だちにいじられて、質問されて、
いろいろ考えさせられたけど——」
そこで一度、息を整える。
「その全部込みで、
相良のこと、
“嫌いに戻りたくない相手”だなって
改めて思った」
かおるが、
少しだけ目を丸くしたあと、
ゆっくり笑った。
「……りんの言い方、やっぱりずるい」
「ずるいか?」
「ずるいよ。
“好き”って言わないのに、それ、ほとんど“好き”だもん」
「お互い様だろ」
「え?」
「“嫌いに戻りたくない”って、
相良もさっき言ったろ」
彼女の頬が、また赤くなった。
「……ねぇ」
「ん」
「“好き”って言葉、
今使ったら、多分どっちも困ると思う」
「そうだな」
「でも、
“嫌いに戻らない”って言葉は、
何回使っても、
今はまだ大丈夫だと思う」
「うん」
「だったら、
当分それを使いながら進んで行こうよ」
風が、
また一度だけ強く吹き抜けた。
「“嫌いに戻らない相手”として、
もうちょっとちゃんと一緒にいられるように」
「……了解」
その「了解」は、
前より少しだけ重みを増していた。
校門の前で、足が自然に止まる。
家は逆方向。
でもこの位置でいつも別れるのが、
なんとなく二人の間のルールになっていた。
「じゃあ、また明日」
かおるが言った。
いつもの言い方。
でもきっと、意味は昨日までの「また明日」と違う。
「また明日」
返す。
“友だちの揺さぶり”で一日中ぐらぐら揺れたあとで、
それでも残ったものを抱えたままの「また明日」。
彼女が歩き出す。
少しだけ振り返って、手を小さく振る。
俺も、その手に合わせて軽く手を上げた。
影が、それぞれ反対方向に伸びていく。
でも、重なっていた部分の温度は、
すぐには消えそうになかった。
(……友だちに揺さぶられるのも、
悪くないな)
空を見上げる。
雲の切れ間から、
少しだけ青が覗いていた。
“嫌いに戻らない相手”。
その呼び方のまま、
もう少しだけ歩いてみようと思った。
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