第11話 婚約者かもしれない人と、同じポスターに名前を書く日
翌朝、目が覚めたとき、最初に思い出したのは昨日の電話だった。
婚約。
将来。
大嫌いだったはずの相手。
言葉だけ並べたら、完全に冗談みたいな組み合わせなのに、
胸の奥は妙に静かだった。
(“嫌い”をやめてから、タイミングがおかしいよな、やっぱ)
枕元のスマホを手に取る。
画面を点けると、昨夜の最後のメッセージが残っていた。
じゃあ、“婚約者かもしれない相手”としても
明日も“また明日”してくれる?
その下に、自分の返事。
もちろん
読み返すだけで、胸の中にじわっと熱が広がる。
“婚約者だから”じゃなくて、“選んだ相手だから”。
その線を、昨日、自分の口で引いてしまった。
……逃げ場がないかわりに、変な安心もある。
顔を洗い、制服に袖を通す。
鏡に映る自分の表情は、やっぱりいつも通りだ。
でも、目の奥だけは、光の色が昨日までより少し濃い。
「行ってきます」
玄関でそう告げると、母が台所から顔を出した。
「行ってらっしゃい。——あ、凛」
「ん?」
「昨日の話、急に驚かせちゃったかもしれないけど、
本当にいやだったら、ちゃんと言ってね」
「うん。わかってる」
「相良さんのおうちともね、
“子どもたちが嫌がったらやめましょうね”って話してあるから」
その言い方に、
“親の都合だけで進めるつもりはない”という本気が見えた。
「……大丈夫だよ」
短く答えて、ドアを開ける。
外の空気は少しひんやりしていて、頬に気持ちいい。
歩き出しながら、
今日も昇降口に行けば、彼女がいるのだと思った。
婚約者かもしれない相手が、
いつもの場所で、いつもの時間に。
⸻
昇降口へ続く通路を抜けると、
ガラス越しにポニーテールが見えた。
制服の襟を指で整えながら、
ほんの少し背伸びをしている横顔。
「おはよう、りん」
「おはよう、かおる」
名前を呼ぶ。
その二音が、昨日よりも少しだけ重さを持って胸に落ちた。
「……なんか、声の色が変わった気がする」
「マジで?」
「うん。“また明日”のあとに、“婚約”って単語が挟まった人の声だ」
「そんな分析ある?」
笑いながら、上履きに履き替える。
靴箱のあたりにいた数人のクラスメイトが、ちらちらとこちらを見る。
昨日より、視線の数が増えている気がした。
昇降口を出て階段を上がる途中、
かおるが小さな声で言う。
「うちもね。昨日、言われた」
「やっぱりか」
「“絶対嫌だったらいいんだよ”って。
正直、“絶対嫌”っていう言葉が出てこなかった時点で、
自分の中では答え出てたんだけど」
「それ、俺とほぼ同じだな」
「うん。——だからさ」
階段の踊り場で、彼女が一度立ち止まる。
窓から差し込む光が髪を透かし、
長い影が、階段の段差をなぞるみたいに伸びている。
「“婚約”って言葉の重さに、わたしたちが負けないように、
ちゃんと日常を積み上げていこうね」
「……それ、結構すごいこと言ってる自覚ある?」
「ある」
即答だった。
「だって、わたしたち、まだちゃんと“好き”って言ってないから。
“婚約だから”って理由で急にくっつくより、
“日常の続きにあった”っていう形の方が、きっとずっと安心できる」
「それは、わかる」
だから——今日も。
俺たちは“婚約者だから”ではなく、
“クラスメイトで、保健委員で、選びかけている相手”として、
一緒に一日を始める。
⸻
一時間目はHRで、文化祭のテーマ決めだった。
黒板の前に立った委員長が、丸めたプリントで手のひらを叩きながら言う。
「はい、今年のテーマ“架け橋”なので、
うちのクラスは“保健×休憩スペース”でいきたいと思います」
ざわめき。
「えー、また地味じゃない?」
「でもうち、保健委員多いしな」
「劇とかやらないの?」
いろいろな声が飛び交う。
委員長は苦笑しつつも、用意していたプリントを掲げた。
「地味って言うけど、文化祭って意外と疲れるんだぞ。
全クラスがメシと出し物やってる中で、
“ちゃんと座れて水飲める場所”は需要あるって!」
たしかに、その理屈はわかる。
そして何より——
「保健委員としては、やりがいあるよね」
すぐ隣で、かおるが小さく言った。
「怪我した人の対応だけじゃなくて、
“倒れる前に休める場所”を作るのも、大事な仕事だから」
その言い方が、彼女らしかった。
問題が起きてからじゃなくて、起きる前に手を打つ。
「春日井、相良」
委員長がこちらを見る。
「お前ら二人、保健方面プロみたいなもんだろ。
コンセプト考える係、頼んでいい?」
教室の視線が一斉に集まる。
「……プロってなんだよ」
小さくぼやきながらも、
かおるがすっと手を挙げた。
「わかった。やる」
「助かる。じゃあ、今日の放課後、
文化祭実行委員会の打ち合わせのあとで、
保健室で案まとめようぜ」
自然な流れで、放課後も一緒に作業することが決まった。
——婚約の話なんて、クラスの誰も知らない。
知らないままで、日常の役割だけが普通に進んでいく。
そのギャップが少しだけおかしくて、
俺はひそかに笑いそうになった。
⸻
昼休み。
パンを食べ終えたところで、
須藤が机を半分ずらして寄ってきた。
「ねぇねぇ、“保健×休憩スペース”って、
なんかこう、カップルがたまりそうじゃね?」
「はい出た」
隣の席の女子が苦笑する。
「須藤くん、そういうことしか考えてないでしょ」
「そんなことない。六割くらいは真面目に考えてる」
「四割残ってるじゃん」
笑いが起こる。
その喧騒の中で、須藤がこっちだけを見た。
「で、春日井と相良は、どういうコンセプトにするの? 将来婚約者的な意味で」
さらっと爆弾を投げてきた。
「ちょ、おま——!」
思わず声が裏返る。
周りの何人かが「婚約?」と反応しかける。
須藤はすぐに両手を振った。
「はい今のナシ! “比喩”だから、“比喩”!」
「比喩にしちゃ重すぎるだろ」
心臓の鼓動が、さっきより明らかに速い。
かおるを見ると、彼女は一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。
「“将来婚約者的”って、日本語としてどうなんだろうね」
「そこ気にする?」
「うん。言葉は正しく使ったほうがいい」
落ち着いた声。
でも、その耳は少し赤くなっていた。
須藤はニヤニヤしながら、わざとらしく咳払いをする。
「まぁ、コンセプトはコンセプトとしてだな。
“疲れた人が安心して座れる場所”っていうのはどうよ」
「真面目なこと言うじゃん」
「六割真面目って言ったろ?」
そう言ってから、須藤は声を落として俺にだけ聞こえるようなトーンで続けた。
「昨日の話さ。——進展あった?」
「…………あった」
否定しても意味がないので、素直に頷く。
「うちと向こう、家ぐるみで婚約話出てるってさ」
須藤の目が、ほんの少しだけ大きくなる。
「マジかよ。タイトル回収早すぎだろ」
「俺もそう思った」
「お前、それ本人には?」
「電話で話した」
「なら、いい」
須藤は真顔に戻る。
「“本人に隠す”だけは絶対やるなよ。
それやったら、本気で怒るとこだった」
「わかってる」
「で、どうなん。嫌じゃないんだろ?」
「ああ。嫌じゃない」
言葉にするたび、自分の中で整理されていく。
「ってことは——」
「そこから先は、俺たちの足で決める」
「……うん。
それなら、いい」
須藤は小さく笑って、パンの袋を丸めた。
「文化祭のとき、
“婚約者かもしれない相手と一緒に作った休憩スペース”って、
なんかもう、青春の完成形じゃね?」
「そんな煽り文句、ポスターに書くなよ」
「書かねーよ。心の帯に書いとくだけ」
そう言って、彼は席に戻っていった。
⸻
放課後。
文化祭実行委員の全体会議が終わったあと、
俺と、かおると、田丸は保健室に集まっていた。
窓際の長机の上に、画用紙とラフが広げられている。
「で、“保健×休憩スペース”のコンセプトは——」
田丸がチェックリストを見ながら言う。
「“ちょっとしんどい”を誤魔化さない場所、ってことでどう?」
「いいと思う」
かおるが頷く。
「“気合いでなんとかしろ”じゃなくて、
“ちゃんと休みに来ていい場所”ってこと、
最初からわかっててもらいたい」
「じゃあ、キャッチコピーは——」
俺はペンを持って、画用紙の端に試し書きをする。
「“少しだけ苦しい人のための椅子があります”」
「……いいね」
かおるが小さく笑う。
「“すごく苦しい人”じゃないところが、めちゃくちゃいい」
「“なんかだるい”とか、“ちょっと息上がってる”とか、
そういう段階で座りに来てほしいから」
「うん。それ、大事」
ペン先を走らせながら、
この人とこういうコンセプトを一緒に考えられること自体が、
けっこう贅沢なんじゃないかと思った。
婚約とか、将来とか、そういう大きな言葉じゃなくて、
“この文化祭でどんな椅子を用意するか”みたいな具体的なことを、
こんなふうに真剣に相談できる。
——たぶん俺は、こういう時間に惹かれてる。
「レイアウトどうする?」
田丸がプリントを指でなぞる。
「手前に受付兼チェックポイント、その奥に椅子。
奥の壁際に水分補給のコーナーと、簡易ベッド」
「通路狭くしないようにしないとな」
「うん。あと、目隠し用のカーテン、必要かな」
「必要だと思う」
かおるがすぐに言った。
「“しんどい顔”って、人に見られたくないから。
見られないって分かってた方が、入って来やすい」
その言葉に、
雨の日、彼女が見せた泣きそうな顔を思い出す。
見られたくない部分を、見られてしまったこと。
見られてしまったからこそ、距離が変わったこと。
「じゃあ、カーテンはこことここ。
——ほら、りん、ここ書いて」
「あ、ああ」
かおるの指が示した位置に、
俺はマジックで小さな四角を書き込む。
彼女の指先が紙の上で動くのを、視界の端で捉えながら、
胸の内側が静かに温まる。
一枚の紙の上に、
俺と彼女の線が重なる。
婚約とか、まだ遠い将来の話。
でも今は——この画用紙の上で、十分だ。
「タイトルはどうする?」
田丸がペンを構えなおす。
「“保健休憩スペース”だと味気ないしな」
「“だるくなったらここに座る”」
「さすがに砕けすぎでは」
「“また明日を迎えるための席”」
ふと口から零れた自分の言葉に、
三人とも一瞬、動きを止めた。
「……それ、いい」
最初に反応したのは、かおるだった。
「“今日を乗り切るため”じゃなくて、“また明日”のために座る椅子、ってことだよね」
「ああ。
倒れないように、とか、頑張るため、じゃなくて。
明日もちゃんと来られるように、っていう」
「うん」
かおるはゆっくり頷いて、
その言葉を確かめるみたいに繰り返した。
「“また明日を迎えるための席”……
すごく、好き」
胸のどこかが、強く熱くなる。
“また明日”は、ずっと俺たち二人の合言葉みたいなものだった。
その言葉が、今度はクラス全体のスペースのタイトルになる。
「いいんじゃないか」
田丸も頷く。
「文化祭ってさ、
“今日だけ楽しい”じゃなくて、
終わったあとにちゃんと日常に戻れる方が大事だからな」
そう言って、
画用紙の中央に大きく文字を書いた。
『また明日を迎えるための席』
黒いインクが紙に染み込み、
乾いていく。
「——よし、決まり」
田丸がペンを置いた。
その瞬間、
俺の胸の奥で、
もうひとつ別の意味の文字が重なった気がした。
“また明日を迎えるための席”。
それはこの文化祭のためのコンセプトであり、
俺たち二人の関係そのものでもある。
“婚約”なんて大きすぎる言葉が、
いきなり目の前に置かれても、つぶれないように。
また明日も、
その次も、
少しずつちゃんと座って、呼吸を整えて、歩けるように。
⸻
作業がひと段落したころ、
田丸が時計を見て立ち上がった。
「悪い、俺、塾あるから先行くわ。
二人で細かいとこ詰めといてくれる?」
「了解」
「気を遣ってるんじゃないからな? マジで時間ないだけだからな?」
「わかってるよ」
そう言いつつ、
田丸は去り際にほんの少しだけ笑った。
「“また明日”の席、楽しみにしてる」
保健室のドアが閉まる。
室内には、俺とかおるだけが残された。
窓から差し込む夕方の光が、
机の上に広げられた画用紙を白く染める。
「……りん」
「ん」
「“また明日を迎えるための席”ってさ」
かおるが、マジックのキャップを回しながら言う。
「わたしたち、ずっと前から、そういう場所、
お互いの中に作ろうとしてたのかもね」
「お互いの、中に?」
「うん」
彼女は窓の外を見ながら続けた。
「“嫌い”って言って逃げてた時期は、
明日のこと考えるの、すごく怖かったんだ」
「……そうなのか」
「うん。
“明日もまた同じ人がいる”ってわかってるのに、
ちゃんと見ないって決めてると、
教室に行くのが、ちょっとだけ苦しかった」
その告白は、
怒りではなく、静かな回想だった。
「でもさ。
“また明日”って言い合うようになってから、
“明日も同じ人がいる”ってことが、
少しずつ、楽しみになってきた」
胸の奥のどこかが、強く脈打つ。
「だからね。
わたしにとっては、
りんが“また明日を迎えるための席”みたいなところ、ある」
「……それ、けっこうすごいこと言ってる自覚ある?」
「ある」
今日二回目の“ある”だった。
「婚約の話が来なかったとしても。
“嫌い”って言葉のまま終わってたとしても。
——どこかで、
“また明日って言える相手になってほしい”って、
きっとずっと思ってた」
言葉が、
喉のところでつかえる。
嬉しい。
でもそれをそのまま「嬉しい」と口にすると、
何かがこぼれそうで。
「……光栄です」
出てきたのは、
少しふざけたような言い方だった。
かおるは、ふっと笑った。
「真面目に言ってもいいところだよ?」
「真面目に言ったら、多分、
そのままなんか、告白めいたこと言いそうだから」
「言ってもいいけど?」
「まだ、いい」
そう即答すると、
かおるは目を細めて頷いた。
「うん。
まだいいって思ってくれてるの、
ちょっと、安心する」
「安心?」
「うん。
“婚約”って言葉が先に来ちゃっても、
ちゃんと自分たちの速度で、
“好き”って言葉に辿り着こうとしてる感じがするから」
「……俺たち、めちゃくちゃ慎重だな」
「慎重でいいよ。
だって、わたしたち、
“嫌い”のまま終わらせないって決めたばっかりだもん」
その通りだ。
昨日、“嫌い”を卒業した。
今日、“婚約”という言葉を受け取った。
明日から先、どうやって好きになっていくかは、
全部、自分たちの足で決めていく。
そのための椅子が、
この“また明日を迎えるための席”なんだと思った。
⸻
作業を片づけて保健室を出ると、
廊下はもう薄暗くなりかけていた。
窓の外、校庭の向こうの空には、
オレンジと群青の境目みたいな色が広がっている。
「今日は、ここまでだね」
「そうだな」
一階へ降りる階段の途中、
かおるが言う。
「なんかさ」
「ん」
「“婚約者かもしれない”って言葉、
昼間は全然実感なかったのに」
「今は?」
「いま、ちょっとだけある」
それは、
特別なイベントがあったからではない。
手を繋いだわけでも、
抱きしめたわけでもない。
一緒にポスターを作って、
コンセプトを考えて、
“また明日”の意味を更新しただけ。
でも、その積み重ねこそが、
たぶん一番の実感なのだと思う。
「りんは?」
「俺?」
「うん」
階段の途中で、
彼女の横顔を見ながら言う。
「——“婚約者かもしれない人と、
同じポスターに名前を書く”っていう行為、
けっこう効くなって思ってる」
かおるの目が、少しだけ丸くなり、
それからくしゃっと笑った。
「それ、
あとでどこかに書いてもいい?」
「どこに」
「日記とか、小説とか」
「俺の台詞、勝手に使うなよ」
「ちゃんと引用元書いとくから」
「じゃあいいや」
そんな他愛もない会話をしながら、
昇降口へ向かう。
靴を履き替え、外に出ると、
もう街灯がつき始めていた。
校門の影が長く伸び、
俺たちの影と重なる。
「りん」
「ん」
「今日の“また明日”、
すこし、意味増えるね」
「だろうな」
「“婚約の話があっても、
自分たちの速度で歩いていきます”っていう意味」
「それ、長くない?」
「感じ取るのは、わたしたちだけだから大丈夫」
そう言って、
かおるはいつものように、
分かれ道の少し手前で足を止めた。
影はやっぱり、先に重なっている。
「——また明日、りん」
夕暮れの光の中で言われるその言葉は、
昨日よりも、少しだけ深い。
「——また明日、かおる」
返しながら思う。
“また明日を迎えるための席”は、
文化祭の教室にだけあるんじゃない。
たぶんもう、
俺たちのあいだに、
静かにできあがっている。
そこへ、
明日もまた一緒に座れるように。
手はまだ繋がない。
でも、
同じポスターの端に書いた名前と、
同じ“また明日”の言葉が、
確かに俺たちを繋いでいた。
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