第2話 想定外の触れ合い


 「ただいまー」


 やたらに重く感じる身体を動かして玄関の扉を開ける。人の目がないのをいいことに、俺は閉じた扉に背中を凭れさせて靴を脱ぐ。

 そうしてから纏わりつくだるさを誤魔化すように殊更明るい調子で声をあげた。


 今日はクラスメイト達とテスト前の勉強会をすると言っていたけど、玄関の様子を見るにもうそれは終わったらしい。まあ同じ寮内とは言っても龍也がそう遅くまで人を引きとめるような性格ではないことは知っているから、それに特に疑問を抱く事もなかった。

 どちらかといえば、俺への返事がないことの方が気にかかる。リビングの電気はついているし靴もあるから出掛けているということはないはず。それに、いくら俺との関係が良好でないからと言っても挨拶くらいはいつもきちんとしてくれるのに。


 もしかしたら電気を消すのを忘れてもう寝てしまったのかもしれないと考えながらリビングへと足を進める。けれど予想に反してそこには龍也の姿があった。ただ、ソファにうつ伏せに転がっていたから、寝ているという予想は外れていないのかもしれないけど。


「龍也…?」


 顔はクッションに埋められていて窺えないから、ゆっくりとソファの近くに歩み寄る。その時、ふとソファの前のローテーブルが眼に映って俺は足を止めた。


「…お酒」


 テーブルの上の四、五本ほどのチューハイたちは一応端にまとめられてはいる。龍也の様子を見るに片付けている途中でダウンしたようだ。

 問題を起こさなければという前提ではあるが、暗黙の了解で軽度の飲酒喫煙程度なら眼を瞑られているとはいえ、そういえば龍也がお酒を飲む姿は記憶にない。根が真面目だから一気飲みなんて馬鹿はしてないだろうけど、多分本人の予想以上にお酒に弱かったのだろう。


 明日が休日でよかったとか、勉強会はどうしたんだとか思う所は色々あるけれど、とにかく龍也をここで眠らせておくわけにはいかない。背の高い龍也の手足は窮屈そうに折りたたまれているし、第一こんな所で寝ていたら風邪を引いてしまう。


「龍也、龍也起きて」


 床に膝をついて起きる気配のない龍也へ声をかける。これだけで起きてくれたら一番なのだけど、そうはいってくれないらしい。龍也は一度寝たらなかなか起きてくれない。普段はその体質に感謝しているけど、まさかこんな弊害が出るなんて。

 案の定龍也は俺の声に小さく唸り声をあげてはくれたものの、それ以降は何の反応もない。俺は溜息をひとつついて、そろりとあげた手のひらを握りしめた。

 触れるなという龍也の言葉がどうしても頭をよぎる。触れたら、それを龍也に知られたら、どうなるのだろう。怒られるだけで済めばいい。でも、最悪の場合は…。

 それでも龍也が風邪をひいたりするよりはいいかなと思える辺り、俺は馬鹿だなと少しだけ笑いが込み上げてきた。


「ごめん…、龍也、起きて」


 肩にそっと手を乗せて軽く揺する。さっきよりも声のボリュームをあげて名前を呼べば、龍也はまた唸り声をあげた。けれどまた眠りに入りそうな龍也の様子に慌てて肩を揺する手に少し力を入れた。

 もう一度、今度は半ば自棄になりながら大きめの声で名前を呼べば、龍也は少し身動ぎしてからクッションに埋もれていた顔をあげる。そうすれば、電気の光が眩しいのか龍也は眉を寄せて薄らと眼を開いた。

 起きてくれたことに安堵しながらも、無表情でじっと俺を見詰める龍也に同時に不安も募っていく。

 見詰めてくる視線から瞳を反らせずにいると、不意に肩に乗せたままだった手に何かが触れた。突然の感触に肩を跳ねさせるけど、手は固定されたままで動かない。乗せていた肩とは逆の手で俺の手首を掴む龍也はまたそっと眉を寄せていて、尚更動機が速まっていくのを感じた。


「……かすみ?」


 感触を確かめるように指先で俺の手の甲を撫でてから、龍也はゆっくりとお互いの指を絡ませていく。寝惚けているのだろうか。擦れた声で名前を呼ばれても、俺は何も言えずに固まったままでその指先を凝視していた。

 口の中が乾いて、言葉が喉の辺りでつっかえて出てこない。身体が芯から冷えていくようで、でも龍也に触れられていく所から燃えるような気もする。


「りゅ、や…」


 名前を呼べば指先に向けられていた視線が俺の方に返ってくる。つられて俺も龍也を見詰め返せば、龍也はやはり不機嫌そうな顔をしていて思わず俺は顔を俯かせた。

触れるなという言い付けを破ったのは俺だ。悪いのはわかっている。だから、謝るから、言う事を聞くから、どうかこの手を離してくれないだろうか。

 初めて龍也から触れられた指先に、温もりに、泣きだしてしまいそうな自分を、もう抑えられそうにない。


「…触るなって、言ったはずだけど」

「…、ごめんなさい…」


 絡む指先にきゅ、と力が入れられて、また肩が震えて。


「…お前が悪いんだからな」


 繋いだ腕を引かれて、俺は慌てて持ちこたえようと空いている方の腕をソファに付いた。

 けれど、龍也は見越していたように俺の後頭部に手を添えて最後の距離を無くしてしまう。


「ん、ぅ…!?」


 至近距離で見詰める龍也の瞳に宿っていたのは、今まで見たことのない色で。その色に魅せられて、やっぱり俺は身動き一つ取れないままだった。

 多分たった数秒の口付け。でも俺には、チープな表現だけど何倍にも感じられた。離れていく温もりが切なくて、でも部屋に響いたリップ音に頬に熱が燈って。

 離れたと思えば、また直ぐに角度を変えて重ねられる。唇を合わせるだけの、食らいつかれるような、キス。それを何度も何度も繰り返されていく。

 龍也のタイミングでされる息継ぎに、俺の息は上がる一方で。見つめ合っていた瞳も、何時しか涙で滲んだ上に伏せてしまっていた。思考が鈍って、まるで頭にもやがかかったよう。


「ふ、あ…、はぁ…」


 ようやく唇が解放された時には俺は息絶え絶えで、しかもいつの間にか龍也を見上げる体勢に変わっていた。キスに全部持って行かれていた頭がようやく回り始めて、そろそろと俺を押し倒す龍也を見上げる。

 その瞬きの衝撃で涙が頬を滑り落ちた時にはじめて、俺は後頭部に回されていた手がいつの間にか頬に添えられていることに気が付いた。


「…一度でも触ったら、歯止めが利かなくなりそうだったから、」


 そこで龍也は少しだけ間をおく。迷うように視線を彷徨わせた後で、もう我慢できそうにない、と擦れた声が降ってくるのと同時に添えられた手で頬を優しく撫でられて、再び近付いてきた龍也の唇が今度は目尻へと落とされる。龍也の一挙一動にぴくりと跳ね上がるように反応してしまう俺を、龍也はとても愛おしいものでも見るような眼で見詰めてくる。


「りゅうや…」

「…悪い。説明は、後でいくらでもするから」


 その瞳は、見たことのない欲に濡れていて。





想定外の触れ合い


(今はお前に触れさせて、と)

(貴方の声で俺の熱まであがっていく)

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