アネモネのユーレイさん

みはなだ

アネモネのユーレイさん

 手触りが滑らかな木製の電車の中で、水もないのに熱帯魚の群れが泳いでいる。私はそんな不思議な車内に窓に背を向けるように向かい合って置かれたソファに包まれて揺られていた。


 車窓の奥では、茜色の空に大きなパステルカラーのシャボン玉が昇っていき、その下で橙色の反球を浮かべた海が広がっていた。リュウグウノツカイが空を昔話の竜のように泳いでいる。


 まるで幼い頃読み聞かせで聞いた竜宮城にいるかのような浮世離れした世界が私の心を満たした。


 ここで朝まで過ごそう、そう決めて私はうたた寝をしていたのだった。



 私の意識が現実と夢の間を彷徨っている時だった。


「こんな遅い時間に一人で、大丈夫かい」


 不意にそんな甘い息を含んだ低音が聞こえた気がした。


 目を開けると、そこには顔が一輪の大きなアネモネで隠れたスーツ姿の男の人がいた。


 彼の姿を見ると不思議と胸の奥がざわついた。しかし、「それはいけないことだ」と頭の中の声が牽制するので、アネモネのユーレイさんと呼ぶことにした。


「忘れたいことがあるの。それで私はここに」


「いい子は帰らなきゃいけないのじゃないのかい」


「それは嫌」


「そうか」


 私は、終点が来るまで、“何か沸々と湧いてくる淡い記憶”を遮断しきれるようになるまでここに居るつもりだった。それを邪魔されたようでとても機嫌を損ねていた。


 アネモネのユーレイさんはそんな私を見かねて機嫌を取ろうとしたのか、鞄から一つの本を取り出した。


「何の本それ」


彼は手に持っていた本の表紙を見せた。本のタイトルは『ヴィーナスとアドニス』と書かれていた。


「これは、私のお気に入りのシェイクスピアの書いたお話の一つさ。ヴィーナスは恋するキューピットに射抜かれて、アドニスという美少年を好きになる。しかしそれに嫉妬したヴィーナスの恋人のアレスは、イノシシに姿を変えてアドニスを殺してしまう。その時にヴィーナスが流した涙からアネモネの花が咲いたそうだ」


「そんな結末だとヴィーナスがアドニスを愛していた部分が台無しになっちゃうよ」


「逆にそんな結末だからこそ、ヴィーナスがアドニスを愛していたところをもう一度見返したくなるんだ。そしてその数奇さに心を奪われる」


「でも、どちらにせよ私は結末を知った物語はもう二度と見ようとは思わないよ」


「もう一回読んだ本を見返すのも新しい発見があっていいよ」


「ふうん、そうなんだ」


 そんな話をしている内に、「終点、思い出駅―」と言う車掌さんの声が聞こえたので駅のホームに立ち降りた。端は柵で囲われており、そこから下のほうに海面が見えた。


 近くにベンチと一つの電灯が物寂しげに置かれており、海から来る風が涼しかった。


「私は毎晩仕事終わりにはここに来るようにしているんだ、気分転換に」


 アネモネのユーレイさんはそう言うと、小さな棒状のものに火をつけて先を口に咥え出した。


「煙草だよ、気分がスッキリするよ。君も一つ吸うかい」


彼は言った。


「うん」


 少し大人ぶってみたくなった。私はそれで煙草を吸ってみることにした。


 彼は煙草に金属のライターで火をつけて「はい」、と私に差し出した。


 彼は手慣れた手付きで煙を吐いた。私も見よう見まねで吸おうとするが。不器用で煙草の煙が上手く吐けずに息だけが逃げていく。


 その様子を、小馬鹿にするようにケラケラと彼は笑った。私もついおかしくなって笑った。


 やがて、空に浮かんでいる星座の話、さっき乗った電車の話などをして話題が尽きた時、彼は言った。


「私は今日行かないといけない場所があるんだ」


「私も付いて行っていい?」


「いいよ」

 

 今度は彼はランタンに火をつけた。自分たちの居る周りが明るくなる程度の小さな光だった。彼は、その光だけを頼りに真っ暗の下り道を下りていくので迷子にならないように後ろを付いていった。




 それは、山の中腹にあった。白一色の建物だった。天国を見ているようだった。

建物の中は、真ん中に天井が吹き抜けになった和風庭園があり、それを囲うように二つの廊下が続いている。


 その奥に進むと、黒い扉が無数に並んでいるのが見え、そこでアネモネのユーレイさんは足を止めた。


「これから続く未来予想図も思い出も全部燃やすから、どうかさようならと言って微笑んで」


 アネモネのユーレイさんはそう言って扉の前で私を抱きかかえて唇に接吻をした。口は接していない筈なのに、柔らかくてしっとりした唇の感触がアネモネの奥から伝わってきた。


 その瞬間、彼は私の体から腕を離すとさようならと優しく言って扉を開け、一人で赤色のアネモネが花弁を散らすように炎に包まれていった。


 私はしばらくの間状況を飲み込めなかったが、彼の言葉の意味が分かると、火葬炉に入っていく彼にさようなら、と微笑んだ。指に強く結ばれてあった糸がほどけるような感覚がした。




 鈴虫の鳴き声を聞いてゆっくり目を開けた。夢の世界では子供だった手は骨格が浮き出ていて大きくなっていた。


 腰を起こしてスマホの電源を付けると、「㏘5:40」の文字が表示されていた。通知は変な詐欺メールだけだった。


 いつもならこの時間は、“誰か”と煙草を片手に近所を散歩していた。しかしその習慣の無くなった今、私は一人の生活に戻りベットの上で眠ってしまっていたらしい。

私は何となく寂しい気分になったので、コンビニで煙草を買い近所の公園に向かった。


 外は夜の帳が降りていて、街灯の光がポツンと閑散とした住宅地の路地を照らしていた。歩けど歩けど人は誰もおらず、野良猫が横切るのを遠目で見ていた。


 公園は、昼間は学校終わりの小学生が遊具を占拠しているが、誰も遊んでいる様子は無かった。


 私は、公園の端にある喫煙所の扉を開けた。すると、煙草の煙の中で本を抱えたスーツ姿の男性が見えた。


――それはアネモネが咲く前のユーレイさんだった気がした。


 途端に季節外れの夏の海から来る風が頬を撫でた。

 

 ユーレイさんの本当の名前と顔がアネモネを枯らせてしまったようだ。


 向こうも私の存在に気づいたらしく、瞳を大きく見開いていた。私は慌てて必死に頭の引き出しから出す言葉を探した。


 しかし、


――もう過去の思い出は全部燃やしたんだ


 今日見た夢の内容を思い出すと、私は枯れたアネモネに水を差すように踵を返し、読み飽きた本を閉じるように喫煙所の扉を閉じた。

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アネモネのユーレイさん みはなだ @mihanada7

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