別に神様から許される必要なんてなかった気がする。

ぞん

中1-1

 死んだように晴れていた。太陽がすべてを焼き払ったのだった。


 命の輝きって検索したら一番上に出てきそうな灼熱の輝き。自分に未来があることを固く信じるものにしか出せない光沢。たちまち熱風が吹き抜ける。いや、風はきっと春にふさわしい心地よさをしていたはずだ。目の前の緑たちが鮮烈すぎて、また快晴なのもあって、僕の脳が勘違いをしてしまったのだろう。


 ホンダのエンブレムだった。黒いボディがありとあらゆる生命を倍増させるみたいな照り返しを見せつけて、中から出てくるのは陽気な家族だと思わせる。僕の予想通り、車を降りて姿を現したのは身ぎれいな核家族だった。

 それは何も重いところのない、幸福が自分から望んで近づいてきそうな一家で、近くに天使が飛んでいても何らの違和感も抱かないような一家で……しかしなぜだろう。一瞬だけ窓に鳥の影がさすような暗くなる瞬間があって、僕は強烈な違和感を覚えた。



「どうぞよろしくお願いします」と最初に相手方のご両親が頭を下げた。

 一拍遅れて、朝陽あさひと紹介された子は浅い角度に腰を曲げる。彼女は無言だった。肩を通り越してふらふら揺れる長い黒髪が蝋燭の火みたいに繊細だった。


 父親が言葉を返して僕の頭に触れた。アスファルトはからからに乾燥していた。僕もまた無言だった。

 両親同士の軽い挨拶が終わり、双方は揃って自分の子を見下ろす。何か言ったら? みたいな子どもの調子を窺う視線だった。


「何か言ってみろ」


 無言の僕と朝陽に対して最初に言葉をかけたのは、僕の父だった。父は僕の背を押す。いたたまれない空気をなんとかしてやりたかったらしい。それにきっと、男だからこういうときは率先して声をかけるべき、みたいな思考も働いていたんだと思う。

 ご近所付き合いなんて曾祖母が死んでからやってないのに、どうしてこんなときだけ。恨み言とも本音とも片付けられない思考を飲み下し、手当たり次第に脳内のタンスをひっくり返す。


 僕は父親をちらと見上げる。小学校を卒業したばかりの男女のコミュニケーションに何を期待しているのか、さっぱり分からなかった。僕は視線を朝陽に戻した。


 Tシャツにジーンズの朝陽はきれいな女の子だった。色白なのに、活発というか勝ち気な印象を受ける。何よりも僕の目を引いたのは、容姿や服装でなく髪だった。腰まで届く結ばれていない髪は、僕には物珍しく映ったのだ。僕は朝陽の目を見ないで口を開いた。


「長い髪」

「……美容室、なかなか行けなくて。ほら、体調」


 ぱ行とかだ行とかを発音しても濁らないような、角の取れた丸い声が鼓膜をくすぐる。


「体調? あぁ」


 そういえば難病だとか、奇病だとか、昨晩聞いた気がする。いきすぎた虚弱体質に都会の喧騒は毒だから引っ越してきた、みたいな説明を昨晩された気がする。なるほど。朝陽はそういう……いきすぎた体の弱さを持つ女子らしかった。佇まいがしっかりしている分、病弱よりも、元気そうとか清楚とかそういう印象に僕は引っ張られていた。

 この子が影の正体なのかな、と僕はすでに敏感に嗅ぎ取っていた。


 僕は朝陽のご両親に視線を向けた。彼らは目尻を下げて、子どもが失礼な話題に触れたことを優しく流すような大人の目をした。


「これね」と今度は朝陽が口を開く番だった。彼女は髪の一房を手に取りほほえんだ。跳ねた枝毛が心のささくれみたいで、ほほえみをより繊細なものにしている。

 手入れに時間がかかりそうな髪だと思った。


「湯船に浸かるときは結ばないといけないし、ドライヤーには時間がかかるし、とにかく大変なの」

「思った。鬱陶しそうだなって」

「私はそんなこと思ってないよ」

「僕にはそう見えたよ。君の笑顔は笑ってなかった」


 朝陽は目を丸くしたあと、我に返ったのか再びほほえみを貼りつけた。それから僕ではなく周囲に見せつけるように唇を尖らせる。


「失礼だなー。それが君の学校のはやりなの?」


 作り笑顔を作り慣れていて、ほほえみと静けさが合わさるといっそ痛々しい。


「女の子には優しくしないと駄目なんだよ。私が教えてあげる」


 僕はいきなり背中を包丁で刺し貫かれたような鋭い痛みを覚えた。だからか自然と背筋が伸びた。

 なぜ自分だけ、どうして自分だけ。脳内で繰り返した問いに疲れ切っているのか、彼女の笑顔はやつれて見えて。別に痩せているわけじゃないのに、やわらかい笑い方には愛想が滲んでいる。


 慣れたのだろう。作り笑いを浮かべることで、私はなんともないよと伝えることに、慣れたのだろう。「学校はどう?」って聞かれて、何もかもが面倒くさくなって条件反射で「楽しいよ」って答える僕みたいに。


 歩き方、テクスチャ、温度、波長。あぁ、似てるなぁって、思った。その瞬間に覚えた感情は、何よりもまず強烈な憐憫と同情だった。


 黒い車体の先、彼女の家の庭には柿の木があった。ぼんやりと見える柿の木は鮮やかな緑色をしていた。そのまたはるか先には県を跨ぐ大きな山がある。霊峰は雪と雲で白く霞んでいた。青空も遠くにいくにつれ白んでいる。

 原色よりも強いインパクトを放つ自然の中、愛想笑いを浮かべた朝陽は風景によく馴染んでいた。

 

「君はいいね。引っ越しの理由とか聞いてこないもん」


 いつのまにか近づいてきていた朝陽は僕に耳打ちした。僕よりも彼女のほうが身長が高かった。彼女には威圧感よりも親しみやすさがあって、逆に僕の警戒を煽る。彼女は離れる間際に僕に笑いかけ「また明日ね」と遠ざかった。


 僕は両親に言われるまでその場に佇んでいた。遠くなり、塀の中に消える前の彼女が、僕に対して軽く手を上げたような気がした。笑顔なのにやっぱり疲弊している。


 僕は胸が押し潰されるような思いを味わった。

 いきすぎた体の弱さよりも、僕ら人間のほうが、彼女を苦しめているように感じられた。


 もしかしたら彼女が感じている苦しみは漠然としているのかもしれないが、伝染して伝わってくる重さは鳩尾を鮮やかに圧迫して、めり込むような痛みに僕は我に返った。再び両親に急かされるのと、僕が体を家に向けたのは同時だった。


 翌日のこと。正午にピンポンを鳴らした朝陽は、玄関先でいきなり「髪、どう」と僕に一房見せつけた。正直なんにも違いは分からなかったけれど、彼女がそう聞いてくるってことは、何かがあったのだろう。あるいはなくても、口にしたかったのかもしれない。


「きれいだよ」

「ほんとう?」

「うん。髪」

「私は?」

「きれい」

「よろしい」

「よろしいかなぁ」

「なにをぉ」


 なんとなくつけっぱなしにしていたテレビから『東京はもう満開で』なんて女性キャスターの声がする。彼女の笑顔の向こう側で、芽吹いたばかりの若い緑と白い霊峰がどっしり構えていた。重たい命を背後に控えた朝陽は、小さく儚い存在に思われた。

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