第8話 わたあめ
早朝の青空の下、いつものバス停とは反対方向に歩いていく。住宅街を抜けると大きな川と橋が現れた。渡った先にある花屋の前で開店を待ち、榊を二束買う。今日は五月一日だから仕入れたばかりなのだろう。握ったそれは青々としていた。
通りを外れて歩道のない道路を進む。側溝の上にある鉄の蓋を踏みしめると、ガキンと騒がしい音を立てて揺れた。静寂は透明なカーテンみたいに、確かな重みを伴って私に覆いかぶさる。
とっさにヘッドホンを付けようと手を伸ばすけど、お墓参りの道具が入った袋しか手元にない。
私は、少しだけ強くアスファルトを踏みしめた。けれど乾いた足音は、またしても何もなかったみたいに街に溶けて消えてしまう。気付けば鼓動が早まっていた。
背中を曲げて顔も伏せて、墓地までの道のりを歩いていく。
角を曲がる。安っぽい金網の向こうに、無数の墓碑銘が並んでいた。震える足を抑え込んで敷地に入った。敷き詰められた砂利を踏み付けながら、両親の名前まで歩いていく。墓地の片隅の、灰色の墓石の前で私は足を止めた。
『白峰 和夫』
『白峰 真美子』
顔を伏せて、葉の一部が茶色に枯れた榊を花筒から取り出す。それを足元に置いてから、二つある銀色の花筒を引っ張り出した。前に来たのは一か月前だ。腐ったようなひどい匂いが鼻を突いた。水も入れ替えないといけない。
買った榊やお墓参りのセットを石の灯篭に立てかけて、墓地入り口の蛇口に向かった。桶に水を満杯まで入れてから墓石に戻り、花筒や墓石を専用のブラシで洗い流していく。一通り終えてから、花筒に榊を一束ずつ入れた。
汚れていた墓石が、今は朝日を浴びて綺麗に輝いていた。
線香に火をつけてから、手を合わせて目を閉じる。両親は私に多くのことを願わなかった。少なくとも私の記憶に残っているのは「大人になってもちゃんとしたものを食べる」と「大学に進む」の二つだけだ。
もしも生きていたら、どんなことを願ってくれたのだろう。
「ごめんなさい。お父さん、お母さん」
暗闇の中で数えきれない後悔を伝える。それだけが、今の私にできる唯一のことだった。
吹いた風が私の髪を揺らした。目を開けて物言わぬ墓石をみつめる。墓前から立ち去りたくなかった。でも今日は学校がある。屈んでお墓参りのセットを持ち上げる。踏みしめた砂利の音が静かな墓地に響いた。
うつむいて進む。足が自分の意志に関係なく動いているみたいだった。
敷地を出てもう一度だけ振り返る。
墓石の群れに、私を愛してくれた人たちの面影はない。
両親にはもう二度と会えない。二人が命を落とすのをこの目ではっきりとみたから。あの日の私は、人々を怪物の熱線から守った。炎に飲まれて苦しんでいたお父さんとお母さんよりも、数十人の命を選んだ。
どちらかを選ぶしかなかった。だから数の多い方を選んだ。もう既に私は、あまりにも多くの命を犠牲にしていた。大切な人を優先していい道理なんて、どこにもなかった。あの日も私は涙なんて流さなかった。
アスファルトを踏みしめて帰路につく。道端に生えた雑草が風に吹かれて揺れていた。何となくわたあめのことを思い浮かべた。わたあめも空中でふわふわ揺れていたからだろうか。もうどこにもいないのに。
「萌音」
その時、特徴的な可愛らしい声が聞こえた。思わず顔をあげる。白いふわふわが青空を背景に浮かんでいた。私の脳は、それを認識するのにかなりの時間を要した。幻覚かと思った。でも繰り返し瞬きをしてもふわふわは消えなかった。
小さなまんまるの中央から、可愛いひつじの顔が私をみつめていたのだ。
「久しぶりだな萌音」
消えた七年前と何もかも同じだった。きっともふもふな感触も変わらないのだろう。もう会えないと思ったわたあめにまた会えたのだ。何かしらの肯定的な感情を抱くべきだと、自分でも分かっていた。
でもこぼれた言葉は、非常に淡白なものだった。
「……うん。久しぶり」
目をそらしてわたあめの下を通り抜ける。そんな私に何を思ったのだろう。
わたあめはふわふわしながら、ちょこんと飛び出した小さな耳を揺らして、必死に追いかけてきた。
「萌音、もしかして怒ってるのか……?」
「そんなことはないけど」
嘘じゃない。ただ自分でも驚くほどに何の感情も抱けないだけで。
「いや、怒って当然なんだ。一人にして悪かった」
わたあめが目の前に飛び出してきた。短い四本の足が白いもふもふから飛び出している。ぎゅっと目を閉じてから体を回転させ、顔を地面に向けていた。
「謝らなくていいよ。本当に怒ってないから」
小さなわたあめの体を優しく撫でる。温かくて気持ちのいい手触りだった。言葉を信じてくれたのだろうか。頭をあげたわたあめが、じっと私をみつめてくる。まるで何かを見通そうとするみたいな目だった。
それが嫌で、私はわたあめを避けて歩いた。
「……わたあめもお腹すいてるんじゃないの。家にレタスがあるから一緒に食べよう」
「レタス! 本当か? やっぱり萌音は優しいな!」
「別に優しくないよ」
私の肩にちょこんと乗っかったわたあめを横目でみた。目が合った途端にニコニコ笑うのだ。
「いいや、萌音は世界で一番優しいぞ!」
*
家に帰ってきた私たちは、すぐに台所に向かった。
朝食と弁当を作り終えると、わたあめ用にお皿にレタスを盛り付けた。それらをリビングの机に運び椅子に座る。わたあめは山盛りの好物に目を輝かせていた。それをみていると、昔のことを思い出した。
「食べていいのか?」
「いいよ」
私が頷くとわたあめはレタスの葉を一枚宙に浮かせる。そこにふわふわと体をよせて食べはじめた。私も自分の朝食に箸を伸ばして、わたあめと同じくレタスを口に運んだ。本当に、わたあめは何も変わっていない。
まるで七年間、冷凍保存でもされていたみたいだ。声も形も、レタスを美味しそうに食べる姿も。
感情は今も平坦だ。それでもこの七年のことを思えば、問いかけずにはいられなかった。
「……どうしていなくなったの?」
箸を止めてふわふわの体をみつめる。わたあめも食べるのを止めて、私に目を向けた。
「アンチマターとの戦いで力を消耗しすぎたんだ。意識を維持できなくなった。本当にすまなかった」
もしかするとあの凄惨な日々を思い出しているのかもしれない。声が暗かった。
「そうだったんだ」
戦いの規模を思い返せば不思議ではない。
アンチマター――空に走る亀裂から落ちてくる巨大な怪物は、一回の襲撃につき一体だけ現れた。個のもつ力が極めて強大で、個体によって攻撃手段は様々だけれど、山一つ消し飛ばすくらいの攻撃を連射可能な個体もいた。
私はその脅威に対抗するために、杖を振り回して強力な魔法を何度も放った。あの力の源がこんなにも小さなわたあめなら、休眠状態になるのも仕方ないのだろう。
でもわたあめは何も言わずに消えてしまった。消えるまで一年もの猶予があったのに。七年前の私は、愛想をつかされたのだと思った。わたあめが消えた現実を受け入れるまで、何年もかかった。
私はわたあめのことを大切に思っていた。全く向いていない私を魔法少女に選んだ張本人だけど、同時にかけがえのない戦友のような存在だった。誰にも話せないことを伝えられる、唯一無二の相手だった。
なのにどうして何も言ってくれなかったの。
平坦な感情に波が生じる。でもそれを問う気にはなれなかった。だってわたあめは何も変わっていない。もしかすると七年という年月の重さも理解していないのかもしれない。私に抱く思いも大したことないのかもしれない。
口を閉ざしていると、わたあめはレタスを浮遊させながら私の隣までやってきた。
「そういえば萌音はいま何歳だ?」
「……十六歳」
「大きくなったんだな」
黒い瞳が感慨深そうにみつめてくる。私は目をそらして朝食を口に運んだ。
わたあめのいない間に七年も経った。でも私は何も変わっていない。大きくなったのは図体だけだ。心は七年前のままで、わたあめの願っていた「前向きな人生」なんて欠片も叶っていない。
「十六歳なら高校生か。学校での萌音をみるのが楽しみだな」
思わず目を向ける。もしかして付いてくるつもりなのだろうか。ふわふわと楽しそうに机の上を跳ねていた。
「……付いてこないでほしいんだけど」
「なんでだ? 私は萌音の高校生活を見たいぞ」
机を跳ねるのをやめて空中にふわりと浮き上がった。もこもこの真ん中にあるひつじの顔は物欲しげな目をしていた。親みたいなことをいうひつじだ。後ろめたいけど、やっぱり来て欲しくない。
「もう小学生じゃないんだから来ないで」
目を細めて伝えると、力尽きたハエみたいに机に墜落してしまった。
「そうかこれが反抗期か……」
「そういうのじゃないから」
ため息をついて、もふもふな体をみつめる。
私に反抗期なんてない。反抗できる相手なんていないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます