情炎の果てに立つ、君を愛した責任
舞夢宜人
第1話 体育館の残響と夏の熱気
ボールが床を叩く音が、やけに大きく響いていた。たった一つ。俺の手から滑り落ちたボールが、磨き上げられた床板の上で弾む音。それが体育館の高い天井に反響し、幾重にもなって降り注いでくる。まるで、数えきれないほどのボールが、今もこの場所で跳ね続けているかのような錯覚。熱気に満ちた歓声や、シューズが床を擦る鋭い摩擦音、仲間たちの荒い息遣い。それら全てが幻聴となって、だだっ広い空間を満たしていた。
しかし、現実は違う。体育館には、俺、結城陽斗ただ一人が立ち尽くしているだけだった。窓から差し込む西日が、空気中に漂う埃を金色に照らし出し、ゆっくりと舞う様を浮かび上がらせている。床には、俺の長い影が一本、力なく伸びている。熱気だけは本物だ。まとわりつくような湿った空気が、肌にまとわりついて不快だった。じっとりと滲み出た汗が、首筋を伝って制服の襟を濡らしていく。
県大会の最終戦。俺たちのバレー部は、そこで負けた。三年間、青春のすべてを捧げたと言っても過言ではない日々が、今日、この瞬間をもって終わりを告げたのだ。引退。その二文字が、ずっしりと重い鉛のように心に沈み込んでいる。もう、この体育館でボールを追うことはない。仲間たちと声を枯らして勝利を目指すことも、敗北の悔しさに涙を流すこともない。
がらんとした空間に満ちるのは、祭りの後のような静けさと、圧倒的な空虚感だった。俺はこれから、何に情熱を傾ければいいのだろうか。受験勉強という現実が、ぼんやりとした輪郭で迫ってくる。それなのに、心はまだ、この場所に染み付いた汗と熱の匂いに囚われたままだった。ゆっくりと転がって動きを止めたボールを、ただ、ぼんやりと見つめる。俺の高校生活の第一幕が、あのボールのように静かに停止してしまった。そんな感傷的な思考が、頭の中を支配していた。
「結城くん」
不意に、澄んだ声が鼓膜を揺らした。振り返ると、体育館の入り口に、藤崎葵が立っていた。彼女は、雪のように白い肌と、艶やかな黒髪が印象的なクラスメイトだ。学年でも指折りの美少女で、その立ち姿はまるで一枚の絵画のように美しかった。手には、俺のものであろうタオルとスポーツドリンクのボトルが握られている。
「藤崎さん。どうしてここに」
俺の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「みんな、もう着替えて帰ったわよ。結城くんが、ずっとここにいるから心配になって」
葵はそう言って、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。彼女が動くと、清潔な柔軟剤の香りが、汗と埃の匂いが充満した体育館の空気を優しく浄化していくようだった。その香りに、俺たちの過ごした三年間とは全く違う、清らかで穏やかな日常の世界を感じさせられる。
「ごめん。少し、考え事してた」
「ううん。お疲れ様。本当に、すごい試合だった」
葵は俺の隣に立つと、そっとタオルを差し出した。俺はそれを受け取り、顔の汗を拭う。タオルからは、彼女のものと同じ、陽だまりのような優しい香りがした。
「ありがとう」
「最後まで諦めない姿、とっても格好良かった。感動したわ」
その言葉には、何の裏もない、純粋な称賛が込められていた。彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられると、なんだか気恥ずかしくて視線を逸らしてしまう。葵は、いつもこうだ。誰に対しても献身的で、その誠実さが、時として俺のような捻くれた人間の心を、否応なく照らし出す。
「負けちまったけどな」
「それでも、私にとっては一番輝いて見えた。本当よ」
葵の声は、確信に満ちていた。その優しさが、今は少しだけ、空虚な心に沁みる。引退という事実がもたらした喪失感を、彼女の存在がそっと癒してくれるような気がした。
「おーい、陽斗!まだいたのか!」
その静かな空気を切り裂いたのは、太陽みたいに明るい声だった。バシン、と背中に走った小気味良い衝撃に、俺は思わず前のめりになる。振り返るまでもない。こんな乱暴なコミュニケーションを取ってくる相手は、一人しかいなかった。
「咲か。お前こそ、まだ残ってたのかよ」
「当たり前でしょ。あんたがうじうじしてるんじゃないかと思って、見に来てやったのよ」
そこに立っていたのは、ボーイッシュなショートカットがよく似合う幼馴染の七瀬咲だった。健康的に焼けた肌と、活発な印象を与える大きな瞳。しかし、そのボーイッシュな外見とは裏腹に、ふとした瞬間に見せる表情には、驚くほど女性的な色気が混じることを、俺は知っている。咲は、俺と葵の間に、何の躊躇もなく割り込むように立つ。そして、俺の肩に馴れ馴れしく腕を回した。ぐっと身体が密着し、汗とシャンプーの混じった、咲特有の匂いが鼻腔をくすぐる。
「ほら、いつまでもメソメソしない。打ち上げ行くぞ、打ち上げ」
「メソメソなんかしてねえよ」
「嘘つき。顔に『青春終わりました』って書いてあるじゃん」
咲はそう言って、俺の頬をむにっと抓る。その距離の近さが、彼女にとっては当たり前の日常だった。俺たちの間には、他の誰も立ち入れない、幼馴染という特権的な空気が流れている。隣に立つ葵が、その様子をどんな表情で見ているのか、俺には怖くて確認できなかった。ただ、彼女の纏う清潔な香りが、咲の活発な匂いに押しやられてしまったような気がした。
「……夏が終わる前に、何か変わるかもね」
ふと、冷やりとするような声が、耳元を掠めた。はっとして視線を向けると、いつの間にか、月島怜が俺たちのすぐそばを通り過ぎていくところだった。茶色のウェーブがかった長い髪が、彼女の動きに合わせて優雅に揺れる。彼女はこちらに視線を合わせることなく、ただ、独り言のようにそう呟いた。その声には、すべてを見透かしているかのような、不思議な響きがあった。怜の言葉の意味を、俺は測りかねた。彼女は、葵の「貞淑」、咲の「情熱」とは全く異なる種類の魅力を持つ、どこか影のある美少女だ。その瞳の奥には、俺たちには窺い知ることのできない、深い何かがある。
予言めいた言葉の余韻が、体育館の熱気の中に溶けていく。葵の献身的な優しさ。咲の独占欲を滲ませた親密さ。そして、怜の謎めいた囁き。引退によって生まれた心の空洞に、三者三様の感情が流れ込んでくる。それは、心地良い慰めであると同時に、抗いがたい欲望と、これから始まる何かへの得体の知れない予感を孕んでいた。俺の、長く、そして甘く重い夏は、この体育館の残響の中から、静かに始まろうとしていた。
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