やさしい魔法

風間えみ

やさしい魔法

「あなたが鏡の魔女……?」

「はい、そうですよ。どうぞこちらへ、お話を聞かせてください」

人里離れた山奥に、一人の魔女が住んでいた。

鏡の魔女は人々を癒すために、少々の対価で人々に護符と薬を渡している。

鏡の魔女が住む山は、人が来るには遠すぎる。

それでもやってくる人の数は減らない。

つらい思いをした人間が、大変な思いをして訪れてくる。


「――では、この護符を身に着けてください。どうしても悲しい気持ち、つらい気持ちがあふれそうになった時には、この護符のこの部分を指でなぞってみてくださいね。夜はこのお薬を一口だけ。朝になれば元気が回復しますから」

鏡の魔女特性の涙を封じる効果がある護符と、魔女の間では有名なエリクシール・ハーフを渡す。

まだ年若い女性が、お礼を言って帰っていく。


その後姿を見送って、鏡の魔女はホットミルクを飲みながら魔女の間で大流行の雑誌を手に取る。

表紙の魔女がいかにも怪しげな感じだが、中身は人間の若い女性が読むようなミーハーな雑誌だ。

今流行っている呪い方法とか、人気の使い魔ランキングだとか。

気楽に読めるので、のんびりしたいときには最適だ。

明日の魔女集会のために、かわいらしいコーデを眺めている時だった。

ふいに、胸の奥に痛みが走る。


――苦しい、悲しい、辛い、痛い。

負の感情があふれかえってくる。

これは鏡の魔女の感情ではない。

鏡の魔女から護符をもらった人間のもの。

護符は、負の感情を封じこめるものだと人間は思っている。

正確には違う。

負の感情を鏡の魔女が肩代わりしているものだ。

鏡の魔女から護符をもらった人間は一人二人ではない。

大勢の人間の負の感情が、鏡の魔女を襲う。

「……っ」

鏡の魔女は歯を食いしばり、その感情をやり過ごす。

泣くのは嫌だった。

涙を流さないための護符を配る魔女本人が泣くのは、なんだか違う気がした。

涙を止める魔法を使えるのだから、泣くのはおかしい。

こんなことが人間にばれたら、護符の説得力もなくなってしまう。

そう考えている鏡の魔女は、必死で口元に笑みを浮かべる。

そして見ていた雑誌に夢中になろうとする。

魔女集会にぴったりのファッションを見て笑う。

「あ、このドレス……いいか、も……っ」

その声が震えて、視界にうつる写真もゆがみそうになる。

慌ててぎゅっと目を閉じ、涙がこぼれないように歯を食いしばる。

泣くな泣くな泣くな泣くな。

私は鏡の魔女だ。

人間の涙を止められる魔法を使える魔女だ。

人間を幸せにできる魔女だ。

そんな魔女が泣いてはいけない。

人間を幸せにできる魔女は、やはり幸せでいなければならない。

お母さんも、おばあちゃんも、そう言っていた。

決して泣かなかった。

だから自分も泣いてはいけない。

鏡の魔女はいつでも幸福で、その幸福を人間に分け与えるのが仕事なのだ。

涙を懸命にこらえていると、つらい気持ちが消え去っていく。

人間たちも、それぞれ感情が落ち着いたのだろう。

額の汗をぬぐい、鏡の魔女は笑う。

「泣くようなことじゃないよね。大丈夫、大丈夫」

自分に言い聞かせて、笑みを浮かべる。

「今日は魔女集会なんだから、しっかりしないと。また氷の魔女に嫌味を言われちゃう、慈悲の魔女には心配かけちゃう。幸福な鏡の魔女は誰かに心配なんてされないんだから」

氷の魔女は元気が出る薬、エクシール・ハーフを一口飲む。

鏡で自分が笑っているのを確認し、魔女集会へと向かった。


「鏡の魔女、久しぶりね。まぁだあんな商売やってるの?」

いじわるそうに笑い、声をかけてきたのは氷の魔女だ。

彼女はいつでも、だれに対してもこういう物言いをする。

鏡の魔女はにこりと笑う。

「ええ、おかげさまで繁盛しているわ」

「よく人間なんかのために働く気になるわよねー。あたしにはとてもできないわ」

自分から話しかけてきておいて、氷の魔女は興味なさげに自分の爪の甘皮をチェックする。

いつものことなので鏡の魔女も気にしない。

そこに割って入ったのは、時の魔女だ。

「私にもできないというか、理解できないわねぇ。自分がつらい思いをして人間に奉仕するなんて。見返りはほんの少しのお金でしょう? 理解できないというか、やってられない」

時の魔女は氷の魔女のように敵意をぶつけてこないけれど、鏡の魔女が理解できないようで、心底不思議そうな顔をしている。

鏡の魔女は笑みを浮かべたまま応じる。

「私にはやりがいがあって楽しいの。うちは代々この契約を交わしているし、誇りにも思っているわ」

「誇りに、ねえ? 嘘くさいわ、あんたの今の笑顔とおんなじくらい胡散臭い」

氷の魔女の嘘くさい、胡散臭いという言葉に、少しだけ鏡の魔女の心が痛んだ。

嘘などついていない。胡散臭くなんかない。

けれどどうしてか、氷の魔女の言葉は胸に刺さる。

「貼り付けたような笑顔が気持ち悪いのよ、あんた。もっと自分に素直に生きたら? 楽しいわよぉ。気分が悪いときは人間を呪いにかけて、気分のいいときは祝福をあげる。勝手に恐れて勝手に感謝する。滑稽で面白いじゃない」

「私は人間に呪いをかけたいなんて思ってないよ」

「私もそれは思わないわ。頼まれたらやるけど」

鏡の魔女の言葉に、時の魔女もうんうんと頷く。

そこに、慈悲の魔女が現れた。

あきれたようにため息をつく慈悲の魔女。

「氷の魔女、また鏡の魔女に嫌がらせしてるの?」

氷の魔女が頬を膨らませる。

「いやがらせなんてしてないわよ。思ったことを言っただけー。たいたい時の魔女も一緒にいるのに、なんであたしだけ言われるわけぇ?」

「あなたはいちいち言葉がきついのよ」

慈悲の魔女がそう言い、時の魔女がけらけらと笑う。

氷の魔女は面白くなさそうにそっぽを向く。

「別に、特に用があったわけじゃないから消えるわよ。せいぜい嘘くさい笑みを張り付かせて人間にご奉仕することね。あたしはあんたのことなんてどうでもいいんだから」

そういって氷の魔女はその場を離れ別の魔女へと話しかける。

時の魔女も楽しそうに氷の魔女とは違う方向へと歩いていく。

残されたのは鏡の魔女と慈悲の魔女。

慈悲の魔女がその名の通りの笑みで鏡の魔女を見る。

「元気だった?」

「ええ、もちろん元気よ」

慈悲の魔女の笑顔を見ると、先ほどまで胸に刺さっていた痛みが少しだけ和らぐ。

「無理はしてない?」

「してないわ。慈悲の魔女はお母さんみたいね」

「当り前よ。あなたみたいな娘がいたら、気が気じゃないわ」

鏡の魔女の軽口に、慈悲の魔女が小さく笑い声をあげる。

つられて鏡の魔女も声を上げて笑った。

その顔を見て慈悲の魔女がうれしそうな声を出す。

「私、あなたがそんな風に笑っているのを見るのが好きよ」

「そ、そう……? ありがとう……?」

唐突な慈悲の魔女の言葉に、鏡の魔女は反応に困る。

「あなたが心から笑っている顔を見るのが好き。私も楽しくなるから」

「……私はいつも笑ってるよ…?」

なぜか氷の魔女に言われた言葉を思い出し、また胸がチクリと痛む。

氷の魔女と違って、慈悲の魔女は意地悪な言葉を言っていないのに。

なぜだろう。

考えていると、慈悲の魔女がすべてを包み込むような、包容力のある笑顔で言う。

「そうね。あなたはいつも笑ってるわ。でも今の笑顔は特別な感じがしたの」

「そ、そう……?」

「うん」

にこにこと笑う慈悲の魔女に、なんとなく居心地の悪さを感じる。

そんなはずはない。

慈悲の魔女はいつも自分を気にかけてくれる。

大切な友人だ。居心地が悪いはずがない。

鏡の魔女は慈悲の魔女に話しかける。

「そういうあなたこそ、最近どうなの? 仕事の調子は?」

「順調よ。そうね、この前は面白い依頼があったの――」

慈悲の魔女が自分の近況を話し出す。

話を終えるころには、居心地の悪さなどすっかり忘れていた。


魔女の集会から帰宅すると、すでに朝になっていた。

うかうかしていると人間が尋ねに来る時間。

鏡の魔女はゆっくりとお風呂に入り、身支度を整える。

そして訪れた人間に、涙を封じる護符と薬を渡す日々。

時々、人間たちの感情に襲われ、それに耐える日々が続いていた。

夜にこの感情に襲われたときは最悪だった。


ぐっすり眠りたいのに、感情が内側から鏡の魔女を揺さぶり起こし、寝かせてくれない。

涙を見せないように、仰向けになり、ガラス張りの天井から星空を見上げる。

時折歯を食いしばって涙をこらえながら。

それでもこんな星空を独り占めできる自分は幸福なのだと言い聞かせる。

そして寝不足を隠し、人間と取引をする毎日。


氷の魔女にとってありふれた日常を過ごしていると、魔女の集会がまた近づいてくる。

眠れぬまま夜を過ごした鏡の魔女がノックの音にドアを開ける。

「おはよう、鏡の魔女。よく眠れた?」

「慈悲の魔女……」

立っていたのは、人間ではなく魔女の集会でいつも楽しくおしゃべりをする慈悲の魔女。

予告もなしに現れるのは初めだ。

少し驚く。

「どうしたの慈悲の魔女。何かあった?」

「何かあったといえばあったのかもしれない。なんだかとても、あなたに会いたくなったのよ」

そう言って笑う慈悲の魔女の目から、ぽろりと涙がこぼれる。

「どっ、どうしたの? ほら、早く家に入って! 温かいお茶を入れるから。ブラックカラントがあるのよ、慈悲の魔女は好きでしょう?」

「あ、ありがとう。と、突然、ごめんなさい…っ」

声が震えて、体も震えている。

涙があとからあとからあふれ出す慈悲の魔女の背中をさすり、鏡の魔女は家の中に入っていく。

慈悲の魔女はリビングのテーブルについても泣き続けていた。

こんな慈悲の魔女は見たことがない。

いつだってすべてを包み込むような笑みを浮かべて、やさしいやさしい慈悲の魔女。

いったい何があったんだろう。

気になるが涙の原因を、慈悲の魔女は言おうとしない。

鏡の魔女も深く追及することをあきらめた。

そしていつも人間に渡す護符を、慈悲の魔女に差し出した。

「これを使えば悲しい気持ちはなくなるわ」

しかし慈悲の魔女はぶんぶんとかぶりを振る。

鏡の魔女含め、全員がぼさぼさの髪をしているのに対し、いつもきれいに整えられている慈悲の魔女の髪。

それが降り乱れるのを呆然と見つめる。

「いらないっ、いらないいらないいらないっ!」

聞き分けのない子供のように何度も繰り返し、かぶりを振り続ける。

困り果てた鏡の魔女の耳に、ノックの音が聞こえてきた。

こんどこそ、人間のものだろう。

「いかないでっ!」

慈悲の魔女が引き留める。

涙にぬれた慈悲の魔女が鏡の魔女の瞳をとらえる。

「お願い、今はここにいて」

鏡の魔女は苦笑して頷いた。

「いいよ、今日はお休みにする」

すると慈悲の魔女は少し安堵したような顔を見せた。

「ありがとう」

そして泣き続ける慈悲の魔女。

その背中をさすり、ホットミルクを手渡す。

ホットミルクから湯気が出なくなり、分厚い膜が張り出したころ、慈悲の魔女はようやく泣き止んだ。

目を真っ赤にはらした慈悲の魔女に、鏡の魔女は冷たいタオルを差し出す。

こんな時には氷の魔女がいてくれたら、目元の熱も簡単に取り去ってくれるだろうにと考えながら。

「突然訪れた挙句、こんなところを見せてごめんなさい」

タオルを頬にあて、慈悲の魔女は照れ臭そうに笑う。

鏡の魔女もまた笑う。

「別に気にしなくていいわ。何があったか言いたくないなら聞かないし」

すると慈悲の魔女は困ったようにうーん、と首をかしげた。

「……特に何かがあったわけではないのよね。ただ、なんとなく前の魔女の集会であなたの様子が少し違った気がして気になって。だから、明日の集会を楽しみにしていたのだけれど……集会を待ちきれずにいて、あなたに会いに来ちゃったの。それで、あなたの顔を見たらなんでかたくさん泣けてきて……おかしいわね」

最後にそう言って笑う。

いつもわかりやすい慈悲の魔女のわかりにくい説明。

鏡の魔女は苦笑した。

「なあにそれ」

「ねえ、私が来て、こんな風に泣いて、迷惑だった?」

「迷惑じゃないって言ってるじゃない」

「そう」

慈悲の魔女が安心したように笑う。

「私もね、あなたが突然訪れても迷惑じゃないわ。突然泣いても迷惑じゃないの。私はただ、あなたに伝えたいことがあったのよ。本当にそれだけで、泣くつもりはなかったの」

慈悲の魔女が眼鏡をはずし、タオルを目に当てて言う。

目元は見えないけれど、口元でいつもの笑みを浮かべているのがわかる。

「氷の魔女は、いつも頑張っているじゃない? 私と一緒にいる時まで頑張らなくていいの。一人でのんびりできる時間まで頑張らなくていいの。そんな時間は、自分を甘やかしてあげていいの。ただそれだけを言いたかったのよ」

慈悲の魔女はごく当たり前のようにそう言って、口をつぐむ。

そして膜が張ったホットミルクに口をつけようとする。

「新しいのを入れるから、ちょっと待って」

鏡の魔女がそう言って立ち上がった時、涙がこぼれた。

いつものような焦りもない。

ただそれが自然のように思えた。

ただ、なぜ涙が流れるのかわからなかった。

人間たちのつらい感情が流れ込んできたわけでもない。

ではこれは、鏡の魔女の感情。

だとすると、これはどんな感情なのだろう――

わからないまま、涙をこする。

「鏡の魔女?」

すすり泣く声に、慈悲の魔女がタオルを持ち上げて鏡の魔女を見る。

「あらあら」

慈悲の魔女が小さく笑う。

「私の涙がうつっちゃったのかしら?」

そうして、先ほどとは立場が変わって慈悲の魔女が鏡の魔女の背中をさする。

「大丈夫よ」

「ずっと頑張ってるもの、疲れてしまうこともあるわよ」

「たまには自分を甘や貸してあげるのも大切なのよ」

そんな言葉をかけてくれる。

その言葉が的外れなのかあっているのか、鏡の魔女にはわからない。

わからないけれど、そういわれると涙が余計に止まらなくなる。

あふれる涙が止まらず、それでも焦って泣き止もうという気持ちにもならなかった。

ただただ涙が流れるままにさせておく。

慈悲の魔女のやさしい言葉と、背中をたたく手の感触、それらが心地いい。

心地いいのに、涙は止まらない。


――泣き止んだのは、もう日が沈むころだった。

本当に長時間泣いたものだ。

慈悲の魔女もずいぶん長い間付き合ってくれたと鏡の魔女は感心する。

「ごめんなさい」

鏡の魔女が謝ると慈悲の魔女が首をかしげ、きれいなストレートヘアがさらりと揺れる。

「お互い様じゃないかしら?」

「そうなのかな」

「そうよ……ううん、私のほうが性質が悪いわね。突然訪れて突然泣き出すんだもの。自分でも驚いたわ」

「そんなことないわ、来てくれてうれしかった」

そう言って、鏡の魔女は夕食の準備をする。

慈悲の魔女と二人分。

一人前の魔女になって、自宅で誰かと食事をするのは初めてだ。

少し楽しみだった。

今日来た人間たちは全員居留守を使ってしまって申し訳なくも思うけれど、今日はとても大切な時間に思えた。


慈悲の魔女がキッチンで手伝いを申し出る。

それに甘えて二人で夕食を作る。

二人で夕食を作るのも久しぶりでたくさん作ってしまった。

ほうれん草とベーコンのキッシュ。

それにエビとブロックりーのアヒージョとミネストローネ。

作りすぎちゃったねと二人で笑いながら食べる夕食はおいしかった。

食べながら鏡の魔女はごく自然に言う。

「今日は泊って行かない? 明日の集会に一緒に行きましょうよ」

「いいの? 楽しみだわ」

そして二人でお風呂に入り、二人で眠りにつく。


魔女の集会ではいつものように氷の魔女に意地悪を言われ、マイペースな時の魔女に少し振り回された。

それでも前回のように胸に言葉が刺さることはなく、楽しい集会だった。


そしてまた鏡の魔女の日常が始まる。

訪れる人間たちに護符と薬を渡す日々。

少し変わったのは、人間たちの負の感情に襲われたときは鏡越しに人間たちに声をかけるようになったことだ。

「大丈夫よ、あなたはいつも頑張っているのだから」

「甘えてもいいし、泣いても誰も怒らないし責めないわ」

「貴方が頑張っているのは私が知っているから、疲れた時は休んでいいのよ」

慈悲の魔女がかけてくれた言葉。

それはもしかしたら、鏡の魔女が欲しかった言葉なのかもしれない。

あの時もしかしたら鏡の魔女はうれしかったのかもしれない。

あいまいなのは、あの時のことはまだ自分の中でうまく整理がついていないからだ。

それでも、とても心が軽くなったのを覚えている。


そしてこうして声をかけると、人間たちの負の感情も和らいでいく。

もしかしたら人間たちも、涙を封じる護符ではなくこうして声をかけてくれる人が欲しいのかもしれない。

そんなことを思いながら、鏡の魔女は鏡越しに人間たちに語り掛けるようになった。

自分を襲う負の感情はだいぶ減っていった。

慌てて涙を止めようとすることも、歯を食いしばることもしなくなった。


鏡の魔女は今日も人間に薬と護府を渡し、鏡越しに人間たちに声をかける。

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やさしい魔法 風間えみ @emi_kazama

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