第5話 水に沈んだ家

1

三月の冷たい雨が、ダムの湖面を叩いていた。

榊シキミは車を停め、湖を見つめた。十年前に完成した「北陸水資源開発ダム」。この水の下には、かつて村があった。家々、田畑、神社、墓地――すべてが水に沈んだ。

シキミは車から降り、湖畔を歩いた。風が冷たい。三月だというのに、まだ雪が残っていた。

彼女の手には、一通の封筒があった。差出人は三田村篤。国土交通省の若手官僚だ。

便箋には、几帳面な文字でこう書かれていた。

「『北陸水資源開発計画』において、戸籍のない住民に対し、総額8000万円の補償金が不正に支払われていたことが判明しました。この不正を正すため、協力をお願いしたい」

シキミは封筒をポケットに入れた。そして、湖を見つめたまま、小さく呟いた。

「不正。何が不正なんだ?」

彼女は車に戻り、エンジンをかけた。目的地は、ダムの近くにある仮設住宅地。そこに、三田村が待っているはずだった。

車は、雨の中を走り出した。

2

仮設住宅地は、ダムから三キロほど離れた場所にあった。プレハブの建物が十数棟、並んでいる。

シキミが到着すると、一人の男性が傘を差して待っていた。三十代前半、スーツ姿。三田村篤だ。

「榊さんですね。お待ちしていました」

三田村は握手を求めた。シキミは応じた。

「三田村さん。依頼書を読みました」

「ありがとうございます。こちらへどうぞ」

三田村は、仮設住宅の一つに案内した。中は狭いが、整理されていた。テーブルの上には、大量の書類が積まれていた。

「これが、補償金の支払い記録です」

三田村は書類を広げた。

「ダム建設により、約三百世帯が立退きを余儀なくされました。総額で約五十億円の補償金が支払われました」

シキミは手帳を取り出した。

「それで?」

「調査の結果、その中に『戸籍のない住民』への支払いが含まれていることが判明しました」

三田村は別の書類を取り出した。

「十五世帯、総額8000万円。彼らは戸籍を持っていません。つまり、法的には存在しない人間です」

シキミはペンを走らせた。

「彼らに補償金を払ったのは、誰ですか?」

「当時の補償金管理担当者です」

三田村は名前を指差した。

「榊誠一」

シキミの手が止まった。

三田村は気づかず、続けた。

「榊氏は、戸籍のない住民にも『人間としての権利がある』と主張し、独自の判断で補償金を支払いました。しかし、それは明らかな規定違反です」

シキミは手帳を閉じた。

「三田村さん。あなたは、この8000万円を回収したいんですか?」

「はい。国の予算を不正に使用したわけですから」

シキミは立ち上がった。

「あなたが正したいのは、不正じゃない。帳簿の数字だ」

三田村は眉をひそめた。

「どういう意味ですか?」

「あなたは、戸籍のない人間に金を払ったことが『不正』だと言う。でも、彼らは実際に存在し、実際に家を失った。それでも、彼らには補償を受ける権利がないと?」

三田村は黙った。シキミは続けた。

「私は、調査します。でも、あなたの期待通りの結果にはならないかもしれません」

三田村は何か言おうとしたが、シキミはドアを開けた。

「まず、戸籍のない住民に会います。案内してください」

3

三田村が案内したのは、ダムから五キロ離れた山間部だった。

そこには、古い小屋が点在していた。電気も水道もない。だが、人が住んでいる気配があった。

「ここに、戸籍のない住民の一部が住んでいます」

三田村が説明した。

「彼らは、ダム建設後も移住せず、この辺りに留まっています」

シキミは小屋の一つに近づいた。ドアをノックする。返事はない。もう一度ノックすると、ようやく声が聞こえた。

「誰だ」

「榊と申します。お話を伺いたいんです」

しばらく沈黙があった。そして、ドアが開いた。

現れたのは、八十代の老人だった。痩せた体に、粗末な服を着ていた。久保田良治だ。

「久保田さんですね」

シキミは名刺を差し出した。久保田は名刺を見た。

「榊……」

久保田の目が、わずかに見開かれた。

「あんた、榊さんの――」

「娘です」

シキミは一歩前に出た。

「父の仕事について、お話を伺いたいんです」

久保田は黙った。そして、小屋の中に招き入れた。

4

小屋の中は、簡素だった。床には藁が敷かれ、古い火鉢が置かれている。久保田は火鉢の前に座り、シキミに座布団を勧めた。

三田村は入口で待っていた。

「榊さんの娘か」

久保田は火鉢の炭をいじりながら呟いた。

「顔が似てる」

シキミは黙って待った。

「俺たちは、生まれた時から"いない人間"だった」

久保田は顔を上げた。

「戸籍がない。だから、学校にも行けない。病院にも行けない。仕事も、まともなのはない」

久保田は拳を握った。

「でも、俺たちはここで生きてきた。何十年も、何百年も」

シキミは手帳を開いた。

「ダム建設の時、どうなったんですか?」

「役所が来て、『立ち退け』と言った。でも、補償金は払わないと言われた。『戸籍がないから、権利がない』と」

久保田の声が震えた。

「俺たちは、抵抗した。『ここは俺たちの土地だ』と。でも、役所は聞かなかった」

シキミはペンを走らせた。

「それで?」

「榊さんが来た」

久保田は微笑んだ。

「榊誠一さん。あんたの父親だ」

シキミの手が止まった。

「父が?」

「ああ。榊さんは、俺たちの話を聞いてくれた。そして、『あなたたちにも、補償を受ける権利がある』と言ってくれた」

久保田は涙を拭った。

「榊さんは、独自に補償金を支払ってくれた。一世帯あたり500万円。俺たちは、その金で新しい場所に移ることができた」

シキミは手帳に書き込んだ。

「でも、父はその後――」

「告発された」

久保田の声が怒りに満ちた。

「正規の補償金を受け取った住民たちが、榊さんを告発したんだ」

シキミは顔を上げた。

「なぜ?」

「俺たちに金が渡ると、自分たちの取り分が減ると恐れたからだ」

久保田は拳を握った。

「役所も、それに乗った。榊さんを『不正を働いた』として処分した。そして、榊さんは――」

久保田は言葉を切った。

「自殺した」

シキミは目を閉じた。

「久保田さん。父が支払った補償金は、今、『不正受給』として回収されようとしています」

久保田は驚いた。

「何だと?」

「国土交通省が、調査を始めました。8000万円を返還しろと」

久保田は立ち上がった。

「ふざけるな!あの金は、俺たちが生きるために必要だった金だ!」

シキミは冷静に答えた。

「私も、そう思います」

久保田は顔を上げた。

「じゃあ、あんたは――」

「私は、父の仕事を続けています」

シキミは立ち上がった。

「8000万円は、返還させません」

5

シキミは三田村に言った。

「三田村さん。この8000万円は、不正ではありません」

三田村は反論した。

「でも、規定に違反しています」

「規定が間違っているんです」

シキミは書類を取り出した。

「戸籍のない住民も、実際に家を失いました。彼らにも、補償を受ける権利があります」

三田村は黙った。シキミは続けた。

「それに、正規の補償金を受け取った住民の中には、不正に金を水増しして受け取った人間がいます」

シキミは別の書類を広げた。

「この十五世帯。彼らは、実際の損失よりも多くの補償金を受け取っています。総額で、約8000万円」

三田村は書類を見た。

「これは――」

「彼らから金を回収し、戸籍のない住民に渡します。それで、帳簿は合います」

三田村は顔を上げた。

「そんなこと、できるんですか?」

「できます」

シキミは立ち上がった。

「ただし、あなたの協力が必要です」

6

シキミは、不正に補償金を水増しして受け取った住民をリストアップした。

そして、一人ずつ訪ねていった。

最初に訪ねたのは、元村長の息子だった。五十代の男性で、現在は市内で建設会社を経営していた。

「何の用だ?」

男性は不機嫌そうに言った。

「十年前、あなたは立退き補償金を受け取りました。金額は3000万円」

シキミは書類を取り出した。

「でも、実際の損失は1500万円でした。差額の1500万円は、どこから来たんですか?」

男性の顔が強張った。

「何を言ってる?」

「あなたは、架空の損失を申請し、補償金を水増しして受け取りました」

シキミは証拠書類を広げた。

「これが、証拠です」

男性は黙った。シキミは続けた。

「1500万円を返還してください。そうすれば、この件は公にしません」

男性は怒鳴った。

「ふざけるな!あの金は、もう使ってしまった!」

「では、分割で返してください」

シキミは冷静だった。

「月々50万円、三十回払い。それなら可能でしょう」

男性は何も言えなかった。

「三日、考える時間をあげます」

シキミは立ち上がった。

「三日後、返事を聞かせてください」

7

シキミは、同じように十五世帯を訪ねた。

ほとんどの住民は、最初は抵抗した。だが、シキミが証拠を突きつけると、観念した。

中には、激しく抵抗する者もいた。

「榊誠一の娘か!あいつは、俺たちの金を盗もうとした詐欺師だ!」

ある男性が怒鳴った。

シキミは表情を変えなかった。

「父は、正しいことをしました。あなたたちが、父を殺したんです」

男性は何も言えなかった。

「1500万円、返還してください。でなければ、この証拠を警察に提出します」

男性は顔を青ざめさせた。

「分かった……返す」

二週間後、シキミは総額8000万円を回収した。

8

シキミは久保田を呼び出した。

「久保田さん。8000万円を回収しました」

久保田は驚いた。

「本当か?」

「はい。この金を、戸籍のない住民十五世帯に分配します。一世帯あたり、約530万円」

シキミは書類を久保田に渡した。

「受け取ってください」

久保田は書類を見た。そして、涙を流した。

「榊さん……あんたの父さんと同じことをしてくれるのか」

シキミは答えなかった。ただ、小さく頷いた。

久保田は顔を上げた。

「でも、あんたも父さんと同じ目に遭うんじゃないか?」

「構いません」

シキミは立ち上がった。

「私は、父の仕事を続けるだけです」

久保田は何も言えなかった。

9

シキミは三田村に報告した。

「8000万円を回収し、戸籍のない住民に分配しました」

三田村は書類を確認した。

「これは……正規の補償金受給者から回収したんですか?」

「はい。彼らは、不正に金を水増しして受け取っていました。それを修正しただけです」

三田村は黙った。

「三田村さん。帳簿は合っています。国の予算に損失はありません」

シキミは続けた。

「でも、あなたが『戸籍のない人間に金を渡すのは不正だ』と主張するなら、私はこの件を公にします」

三田村は顔を上げた。

「公に?」

「はい。国土交通省が、戸籍のない住民を『人間ではない』と扱っていることを、メディアに伝えます」

三田村は何も言えなかった。

シキミは立ち上がった。

「選んでください。この件を黙認するか、世論の批判を受けるか」

三田村は深く息を吐いた。

「分かりました。黙認します」

シキミは小さく頷いた。

「賢明な判断です」

10

その夜、シキミは事務所に戻り、「帳簿」を開いた。

「久保田良治、8000万円、分配完了」

彼女は記録を書き込んだ。

そして、「帳簿」の最後のページを開いた。そこには、父の遺書のコピーが挟まれていた。

「シキミへ。お前が、いつかこの仕事をすると思っていた。でも、覚えておいてくれ。正しい人に金を渡す時、必ず誰かが損をする。それでも、お前は受け取るか?」

シキミは遺書を見つめた。

「父さん。私は、あなたの無実を証明します」

彼女は「帳簿」の表紙裏を開いた。そこには、小さな文字で日付が書かれていた。

「時効成立日:2025年6月15日」

シキミはカレンダーを見た。

「今日は、3月12日」

彼女は計算した。

「時効まで、あと95日」

シキミは深く息を吐いた。

窓の外では、雨が降り続いていた。

11

数日後、シキミのもとに一通の手紙が届いた。

差出人は久保田良治。

「榊さんの娘へ。ありがとうございました。あなたは、父さんと同じように、俺たちを人間として扱ってくれました。俺たちは、一生あなたのことを忘れません」

シキミは手紙を読み、小さく微笑んだ。

そして、「帳簿」に短く書き加えた。

「北陸水資源開発計画、戸籍のない住民への補償、完了」

彼女は引き出しから、父の写真を取り出した。スーツ姿の父が、穏やかに微笑んでいた。

「父さん。あと少しです」

シキミは写真を戻し、窓の外を見た。

雨は止み、空が明るくなり始めていた。

机の上には、新しい依頼書が置かれていた。だが、シキミはそれを開かなかった。

「次の仕事は、後だ」

彼女は立ち上がり、コートを羽織った。

「まず、父の無実を証明する」

シキミは事務所を出た。

外では、春の風が吹いていた。


【第5話 完】

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