第2話 眠らない部屋

 朝と夜の境目を、私はうまく掴めない。

 日が昇っても、カーテンを閉めたまま過ごすから、部屋の明るさは自分で決める。朝を迎えるかどうかも、私の判断だ。けれど今日は、目を開けた瞬間、空気が少し違った。昨日より静かで、昨日より軽い。たぶん、誰かに見つけられたあとの部屋の匂いだ。


 枕元のスマホを、すぐには手に取らない。

 まずは、天井を見る。白い天井の角に、小さなヒビが一本走っている。昨日も見ていたはずなのに、今日は少しだけ位置が違うように感じる。私の視点が変わったのか、世界が変わったのか、分からない。


 ゆっくり起き上がって、コップに水を注ぐ。

 蛇口をひねる音。流れる水がガラスに当たって、底を叩く音。いつもと同じ音なのに、少しだけ輪郭が濃い。コップの底が机に当たると、乾いた音が鳴る。その一瞬に、自分の生活が全部、音でできていることを思い出す。


 昨日、投稿した歌のコメント欄。

 「音、綺麗だね。」

 その一行を思い出すだけで、心臓が音を立てる。自分の中に、他人の言葉が残っていることが、まだ不思議だ。言葉は、通知が消えても、なかなか消えない。


 スマホを手に取る。

 画面を点ける前に、一度深呼吸をする。朝に通知を見るのは、少し勇気がいる。何も増えていないかもしれないし、増えているかもしれない。そのどちらも、少し怖い。


 ホーム画面の端に、小さな赤い数字。

 通知は、一件。


 指先でアイコンを押す。

 開いた先に並んだ文字列の中で、コメントの欄だけが、うっすら光って見える。


 ――「昨日の歌、今日も聴かせてもらいました。

   よく眠れました。ありがとう。」


 昨日と同じアカウント名。

 短いけれど、昨日より少し長い。

 心臓の鼓動が、胸の内側でゆっくり跳ねる。背中に、小さな汗が滲む。


 誰かが昨日だけじゃなく、今日もここに来た。

 それは、再生数の数字では分からないことだ。

 私の歌を、一度きりの流れ弾みたいに聴いたんじゃなくて、「昨日の歌」として、思い出しながら聴いてくれた人がいる。


 「……」


 返信を書こうとして、指が止まる。

 「聴いてくれてありがとうございます」では、まっすぐすぎる。

 「眠れてよかったです」では、距離が近すぎる。

 どちらも嘘ではないのに、画面の中で言葉にすると、急に自分が“誰かの前に出ていく側”になってしまう気がする。


 迷っているうちに、冷蔵庫が咳払いをするみたいに鳴いた。

 私の背後で、生活が、いつものテンポで動いている。

 私は一度、返信画面を閉じる。

 考えることを、少しだけ後回しにする。



 その日一日、私は音を聴くことに失敗した。

 街の雑音も、エアコンの音も、全部が自分の鼓動に飲み込まれて、どれが外で、どれが中なのか、分からなくなる。耳の奥が、ずっと水に浸かっているみたいに重い。


 大学の講義に出れば、少しは気が紛れると思って家を出た。

 自動ドアが開く音、エレベーターの到着音、改札にタッチする電子音。どれも耳に入るのに、手前で弾かれている感じがした。音が、身体のどこにも沈んでこない。


 乗り換えのホームで電車を待ちながら、私はイヤホンを取り出す。

 迷って、やめる。

 自分の歌を、ここで再生したら、きっと世界の音が全部、背景に押しやられてしまう。今は、まだ、外の音と、自分の音の境界を見失いたくなかった。


 講義室の後ろの席に座る。

 先生の声がマイクを通って天井のスピーカーから降ってくる。きれいすぎて、どこにも引っかからない。グループワークの時間になって、周りの会話がいくつも重なる。名前を呼び合う声、笑い声、ため息。

 私はノートを開いて、講義内容ではないものを書く。

 波形の落書き。

 細い山と谷を、何本も描く。

 昨日、自分の声が描いた波形を思い出しながら、線を伸ばしていく。


 「ねえ、この範囲ってどこまでだっけ?」


 隣の席から、小さな声がした。

 私は一瞬で、手を止める。

 視線が、横から私のノートに落ちてくる気配。

 ノートの端の波形が、急に恥ずかしくなって、ページをめくる。


 「……ここ、ですかね。」


 教科書を少しだけ引き寄せて、該当のページを指さす。

 返ってきた「ありがとう」が、教室のざわめきに溶ける。

 ノートの上には、白紙だけが残った。

 そこにも本当は、何かの波形が描かれていたはずだけれど、今は目に見えない。


 休み時間。

 窓の外で風が備品のチェーンを揺らし、金属の音が細くのびる。細いけれど、途切れない。音にも、体力がある。

 その細い音を聞きながら、私はスマホを取り出して、コメント欄をもう一度開く。

 表示は、さっきと同じ一行のまま。

 増えていない。減ってもいない。

 そこにじっと座っている文字列が、私の中で、次第に「人の姿」に近づいていく。



 夕方、家に戻る。

 エレベーターの鏡に映った自分の顔が、思っていたより疲れている。目の下の影は、昨日より少し薄いような、変わらないような。判定は保留にして、部屋のドアを開ける。


 部屋の匂いは、いつも通りだった。

 安い柔軟剤と、古い冷蔵庫と、PCのファンの熱の混ざった匂い。

 でも、空気の密度が少し違う。

 部屋が、私を「一人」として迎えない。

 どこかに、もう一つ分の椅子が置かれているような感覚がある。


 灯りをつける前に、カーテンを少しだけ開ける。

 窓の外は、夕方の手前の色をしている。

 薄い灰色と、白に近い青と、遠くのビルの輪郭が、まだはっきりしない境界に重なっている。


 机の上のマイクを見つめる。

 昨夜のままの角度。少し傾いている。

 まるで、話しかけられた人が顔を上げかけて、そのまま止まっているみたいだった。


 録音を始める前に、私はノートを開いた。

 大学の講義ノートと同じ表紙だけど、ここに書くのは授業ではなく“私”。

 新しいページに、細い字で書く。


 「音、綺麗だね。」


 昨日のコメントの一行。

 その下に、小さく付け足す。


 「誰かに、そう言ってもらえるのは、思っていたより嬉しい。」


 書いてみて、あまりに正直で、少し笑ってしまう。

 笑い声は、録らない。録ったら、きっと全部壊れるから。

 ノートを閉じて、机の端に置く。


 録音ソフトを起動する。

 モニターの中で、空白のトラックが待っている。

 マイクに息を吹きかけると、風防がわずかに揺れる。

 録音ボタンの赤い丸にカーソルを合わせて、押す。


 波形が、生まれる。

 今日の息が、今日の線を描いていく。


 私はすぐには歌わない。

 昨日と同じように、黙る。

 黙って、黙って、それから、少しだけ声を出す。


 「……こんばんは。」


 昨日の夜に向けていた言葉を、今日の夜にも向ける。

 少しだけ声の高さが違う。

 昨日より、少しだけ明るい気がする。

 それが「嬉しい」からなのか、「怖い」からなのか、自分でもよく分からない。


 短いフレーズを歌う。

 昨日と似た旋律。

 ところどころ、音の置き方が変わる。

 言葉を少し減らして、母音を長くする。

 歌の中に、「ありがとう」という言葉を一度だけ混ぜる。

 誰に向けたものか、はっきりさせないまま。


 録音を止める。

 すぐには再生しない。

 マイクの前から離れて、部屋を一周する。

 窓の鍵をいったん閉めて、また少しだけ開ける。

 カーテンの裾が、夜の風を少しだけ撫でる。

 床の傷を足先でなぞる。

 この部屋で、私は何度も失敗して、何度も録り直してきた。

 そのすべてが、今日の声の下敷きになっている。


 ヘッドホンをかぶって、再生。

 さっきの私が、さっきの部屋で、息をしている。

 声は、昨日より少し柔らかい。

 「ありがとう」のところで、ほんの少しだけ喉が詰まる。

 その詰まりを、私は嫌いになれなかった。

 綺麗な声よりも、事情のある声の方が、夜には似合う。


 アップロードサイトを開く。

 タイトル欄に、日付と時間を入れる。

 説明欄に、今日は一行だけ書いてみる。


 ――「眠れない人のための、短い歌です。」


 書いてから、指が止まる。

 削除しようか迷って、そのままにする。

 これは、多分、自分に向けた説明だ。

 “眠れない人”の中には、私も含まれている。


 タグは昨日と同じ。「夜」「短い」「うた」。

 投稿ボタンを押すと、小さな音がする。

 画面の端に、細い青い線が走って、消える。


 ベッドの端に座って、スマホを握る。

 再生数の数字は、当然のように「0」から始まる。

 更新ボタンを押すたびに、「1」に変わるかもしれないと期待して、「0」のままかもしれないと覚悟する。

 画面の光が、手のひらを白く照らす。

 心臓の鼓動と、光の点滅が、同じ速さで動いているように錯覚する。


 数分後。

 再生数の数字が、「1」に変わった。

 コメント欄は、まだ空白。

 私は画面を伏せて、深呼吸をする。

 誰かが、今日もどこかで、この歌を耳に入れてくれた。

 それが、さっきの人かどうかは分からない。

 分からないままの方が、今は少し楽だった。



 夜が深くなる頃、

 私はベッドに横たわって、天井に映る街灯の影を数える。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 昨日と同じ数え方。

 でも、影の形は昨日と少し違う。

 カーテンの開き方も、街灯の位置も、私の視点も、全部少しずつずれている。


 スマホが、枕元で小さく震えた。

 画面を開くと、通知が一件。

 コメント欄に、新しい一行が増えている。


 ――「今日の歌も、よく眠れそうです。」


 名前は、昨日と同じ。

 アイコンも、何もない、初期設定のままの灰色の輪郭。

 そこに座っている人の顔は、相変わらず想像できない。

 でも、その人の「眠れそうです」という眠気の温度だけは、少し分かる気がする。


 私は、返信欄に短く打つ。


 ――「聴いてくれて、うれしいです。」


 昼間、何度も書いては消した言葉。

 今は、あまり迷わずに押せた。

 送信ボタンを押すと、胸の内側で、細い糸がまた一本、伸びる感覚がした。

 伸びた先は見えない。

 けれど、たしかにどこかに繋がっていく。


 ヘッドホンは使わずに、スマホのスピーカーから、小さな音量で今日の歌を流す。

 布団の中で聴く自分の声は、少し幼くて、少し他人で、少しだけ頼もしい。

 歌が終わる頃には、まぶたが重くなっている。


 眠りが来る直前、私は胸の中で小さくつぶやく。


 ――誰かの夜に、私の歌が届いている。


 その事実が、まだ夢の中の出来事みたいに信じられなかった。

 けれど、今日の私は昨日より少しだけ、その夢を信じてみてもいい気がしていた。


 ――この頃の私は、まだ知らなかった。

 音の向こう側にいるその「誰か」に、

 いつか名前がついて、

 私の日常の中に、はっきりした輪郭で入り込んでくることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る