第15話 図書館で先生に会うな
夏休みの午後。
セミの鳴き声が油のフライパンみたいに続いて、歩道は白く滲んでる。
自動ドアがぶわっと開いた瞬間、図書館の冷気と紙の匂いがまとめて顔に当たった。助かる。
「こっち〜♡」
佐藤(仮)は、窓際の4人テーブルをもう確保していた。
白い薄手のカーディガン。髪はゆるくまとめて、鉛筆柄のヘアクリップで留めてる。
テーブルの上には「現代文」「英語構文」「かわいい付箋」。やる気と可愛いが同居してるカオス。
「遅い」
反対側には安達ほのか。
黒ボブを耳にかけて、細い銀フレームの度なしブルーライト眼鏡(気合い装備)。
ボールペン、蛍光ペンが定規で直角に並んでいる。こちらは図書館が似合いすぎる。
「席、混む前に取った。感謝して」
「ありがとう。……で、なんで二人そろって俺を真ん中にする配置?」
「“真ん中方式”が公平だから」安達。
「“真ん中方式”がおいしいから♡」美咲。
同じ言葉を、違う理由で言うな。
◇
勉強を始める前に、今日の呼び方の注意を出される。
「公的な場所は“佐藤(仮)”」
「わかってる」
「でも私の解説聞いてるときは“美咲”で♡」
「じゃあ私の問題解いてるときは“安達”。……間違えたら“先生”って呼んで」
図書館で先生は強い。
勝手に勝ちを拾うな。
「はい、まずは古文。傍線部“やうやう”の訳は?」
「だんだん」
「えらい♡」美咲が小さく拍手。
「じゃ次、“いと”は?」
「とても」
「いけるね」安達がペン先で〇をつける。
左右から褒められる構図、悪くない。……悪くないけど、視線が忙しい。
冷房の音がさわさわ流れて、ページがぱらとめくれる。
鉛筆の芯が紙を走る音って、なんでこんなに落ち着くんだろう。
◇
「おーい、ここにいたか〜」
聞き慣れたゆるい声。
顔を上げたら、田所先生が保冷バッグを肩に、サンダルで立っていた。
横には、麦茶を抱えた小学生(たぶん息子)と、落ち着いた雰囲気の奥さん。
「先生、サンダルで学校の敵」
「夏休みの図書館は許される」
「で、なんの見回りです?」
「見回りじゃない。“家庭訪問 夏の陣”の買い出しついでに涼みに来ただけ」
言いながら、先生は俺たちのテーブルを見て目を細めた。
「……お前ら、夫婦で勉強会までやってんの?」
「まだです」
「はい♡」
同時に出すなシリーズ、ここでも発動。
先生の奥さんが吹き出した。
「噂の“(仮)さん”ってこの子?」
「そう、この子」
「初めまして〜♡ 佐藤(仮)です〜♡」
「私は安達です。今日も“安達”です」
初対面で“今日も安達”は説明が必要すぎる。
先生が保冷バッグを机の端に置いて、身をかがめる。
「で、どっちが勉強を教えるのがうまい?」
「私♡」美咲。
「私」安達。
「“うまい”の定義が違うんですよ」俺。
「右はモチベが上がる、左は点が上がる」
「最高の布陣じゃねえか」
先生の息子が、じーっと札を見るように俺たちを見る。
「パパ、この人たちけっこんしてるの?」
「ちがうよ」
「じゃあどうして“奥さん”って言ってたの?」
「パパが悪い」
先生、家庭内にまで波及済み。責任重いぞ。
◇
「ま、勉強の邪魔しても悪いし、これ置いとくわ」
先生は保冷バッグから凍ったゼリーを3つ出して、テーブルに置いた。
透明で、光を通してちいさく青く見えるやつ。
図書館の夏の王様。
先生が凍ったゼリーを置く。
「ありがとうございます、先生。」
美咲が、ちょいっと肘でつつく。目だけで「名前で、私にも」。
「……席取ってくれてありがとな、美咲。」
「はい♡ それそれ〜」
「礼の宛先が二人なんだな?」と先生。
安達が小声でまとめる。「公的には先生、私的には“美咲”。分類は正しい。」
「カテゴリ増やすな。」
安達はゼリーを両手で受け取って、ぺこっと頭を下げる。
「ありがとうございます。……先生、これ、中間のときにも配りました?」
「配らねえよ。図書館限定おやつだよ」
「覚えときます」
この人、学校のルール新設しがち。
先生が帰り際に、いつものノリで置き土産。
「SNS載せるときは“(仮)”忘れるなよ〜。
それと、“奥さん”は卒業式だぞ〜」
「先生、そこで締切宣言しないでください!!」
奥さんが「卒業式、楽しみね」と笑って手を振る。
やめて、もう大人が全員グル。
◇
午後の後半。
冷気になれて、指先だけ温かくなってきたころ。
「ちょっと眠い……」
美咲がうとうとし始める。
額の前髪が1本だけ落ちて、ノートの“恋”の字に影を落とす。
こういうのを写真に撮ると、またバズるやつだ。
「じゃ、英単語ターゲットいくよ」
安達がカードを切るみたいに単語帳をめくる。
「domestic」
「家庭の」
「marry」
「結婚する」
「そこは言わせる気満々で用意してただろ」
「出やすい単語だから」
「malfunction」
「故障」
「お前の“(仮)運用”は常時malfunctionだよな」
机に頬をつけたまま、美咲が薄目で「……うまいこと言った顔しない♡」とだけ言って、またコクリと舟をこいだ。
笑いながら、単語は進む。
静かな廊下を台車の音が通り過ぎて、誰かが返本している。
◇
閉館アナウンス。
本を返しに行って戻ると、窓の外の空が桃色と水色の境目になっていた。
帰り支度の音が広がって、椅子がキイとずれる。
「ねえ蓮くん」
帰り際、エレベーターを待ちながら、美咲が言う。
「“図書館で勉強した夏”って、“美咲”に入れていい?」
「いいよ」
「やった♡」
安達も少し間を置いて、同じラインで来る。
「“ゼリーもらった日”は、“安達”で」
「それはお前のほうが似合うな」
「うん」
外は、昼の熱気がまだ残っているのに、風だけが夜の顔をしていた。
自動ドアが開くと、セミがまた油を温め始める。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
「また明日〜♡」
──夏の真ん中で、名前の宿題だけが、すこしずつ片付いていく。
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