第15話 図書館で先生に会うな

夏休みの午後。

セミの鳴き声が油のフライパンみたいに続いて、歩道は白く滲んでる。

自動ドアがぶわっと開いた瞬間、図書館の冷気と紙の匂いがまとめて顔に当たった。助かる。


「こっち〜♡」


佐藤(仮)は、窓際の4人テーブルをもう確保していた。

白い薄手のカーディガン。髪はゆるくまとめて、鉛筆柄のヘアクリップで留めてる。

テーブルの上には「現代文」「英語構文」「かわいい付箋」。やる気と可愛いが同居してるカオス。


「遅い」


反対側には安達ほのか。

黒ボブを耳にかけて、細い銀フレームの度なしブルーライト眼鏡(気合い装備)。

ボールペン、蛍光ペンが定規で直角に並んでいる。こちらは図書館が似合いすぎる。


「席、混む前に取った。感謝して」


「ありがとう。……で、なんで二人そろって俺を真ん中にする配置?」


「“真ん中方式”が公平だから」安達。


「“真ん中方式”がおいしいから♡」美咲。


同じ言葉を、違う理由で言うな。



勉強を始める前に、今日の呼び方の注意を出される。


「公的な場所は“佐藤(仮)”」


「わかってる」


「でも私の解説聞いてるときは“美咲”で♡」


「じゃあ私の問題解いてるときは“安達”。……間違えたら“先生”って呼んで」


図書館で先生は強い。

勝手に勝ちを拾うな。


「はい、まずは古文。傍線部“やうやう”の訳は?」


「だんだん」


「えらい♡」美咲が小さく拍手。


「じゃ次、“いと”は?」


「とても」


「いけるね」安達がペン先で〇をつける。

左右から褒められる構図、悪くない。……悪くないけど、視線が忙しい。


冷房の音がさわさわ流れて、ページがぱらとめくれる。

鉛筆の芯が紙を走る音って、なんでこんなに落ち着くんだろう。



「おーい、ここにいたか〜」


聞き慣れたゆるい声。

顔を上げたら、田所先生が保冷バッグを肩に、サンダルで立っていた。

横には、麦茶を抱えた小学生(たぶん息子)と、落ち着いた雰囲気の奥さん。


「先生、サンダルで学校の敵」


「夏休みの図書館は許される」


「で、なんの見回りです?」


「見回りじゃない。“家庭訪問 夏の陣”の買い出しついでに涼みに来ただけ」


言いながら、先生は俺たちのテーブルを見て目を細めた。


「……お前ら、夫婦で勉強会までやってんの?」


「まだです」

「はい♡」


同時に出すなシリーズ、ここでも発動。

先生の奥さんが吹き出した。


「噂の“(仮)さん”ってこの子?」


「そう、この子」


「初めまして〜♡ 佐藤(仮)です〜♡」


「私は安達です。今日も“安達”です」


初対面で“今日も安達”は説明が必要すぎる。


先生が保冷バッグを机の端に置いて、身をかがめる。


「で、どっちが勉強を教えるのがうまい?」


「私♡」美咲。

「私」安達。


「“うまい”の定義が違うんですよ」俺。

「右はモチベが上がる、左は点が上がる」


「最高の布陣じゃねえか」


先生の息子が、じーっと札を見るように俺たちを見る。


「パパ、この人たちけっこんしてるの?」


「ちがうよ」


「じゃあどうして“奥さん”って言ってたの?」


「パパが悪い」


先生、家庭内にまで波及済み。責任重いぞ。



「ま、勉強の邪魔しても悪いし、これ置いとくわ」


先生は保冷バッグから凍ったゼリーを3つ出して、テーブルに置いた。

透明で、光を通してちいさく青く見えるやつ。

図書館の夏の王様。


先生が凍ったゼリーを置く。


「ありがとうございます、先生。」


美咲が、ちょいっと肘でつつく。目だけで「名前で、私にも」。


「……席取ってくれてありがとな、美咲。」


「はい♡ それそれ〜」


「礼の宛先が二人なんだな?」と先生。


安達が小声でまとめる。「公的には先生、私的には“美咲”。分類は正しい。」


「カテゴリ増やすな。」


安達はゼリーを両手で受け取って、ぺこっと頭を下げる。


「ありがとうございます。……先生、これ、中間のときにも配りました?」


「配らねえよ。図書館限定おやつだよ」


「覚えときます」


この人、学校のルール新設しがち。


先生が帰り際に、いつものノリで置き土産。


「SNS載せるときは“(仮)”忘れるなよ〜。

それと、“奥さん”は卒業式だぞ〜」


「先生、そこで締切宣言しないでください!!」


奥さんが「卒業式、楽しみね」と笑って手を振る。

やめて、もう大人が全員グル。



午後の後半。

冷気になれて、指先だけ温かくなってきたころ。


「ちょっと眠い……」


美咲がうとうとし始める。

額の前髪が1本だけ落ちて、ノートの“恋”の字に影を落とす。

こういうのを写真に撮ると、またバズるやつだ。


「じゃ、英単語ターゲットいくよ」


安達がカードを切るみたいに単語帳をめくる。


「domestic」


「家庭の」


「marry」


「結婚する」


「そこは言わせる気満々で用意してただろ」


「出やすい単語だから」


「malfunction」


「故障」


「お前の“(仮)運用”は常時malfunctionだよな」


机に頬をつけたまま、美咲が薄目で「……うまいこと言った顔しない♡」とだけ言って、またコクリと舟をこいだ。


笑いながら、単語は進む。

静かな廊下を台車の音が通り過ぎて、誰かが返本している。



閉館アナウンス。

本を返しに行って戻ると、窓の外の空が桃色と水色の境目になっていた。

帰り支度の音が広がって、椅子がキイとずれる。


「ねえ蓮くん」


帰り際、エレベーターを待ちながら、美咲が言う。


「“図書館で勉強した夏”って、“美咲”に入れていい?」


「いいよ」


「やった♡」


安達も少し間を置いて、同じラインで来る。


「“ゼリーもらった日”は、“安達”で」


「それはお前のほうが似合うな」


「うん」


外は、昼の熱気がまだ残っているのに、風だけが夜の顔をしていた。

自動ドアが開くと、セミがまた油を温め始める。


「じゃあ、また明日」


「また明日」


「また明日〜♡」


──夏の真ん中で、名前の宿題だけが、すこしずつ片付いていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る