ハロウィンぼったくりバーで遊ぶ
白い月
第1章 ハロウィンの悪魔が武力じゃかなわないからってこういう手段に出た
薄暗い森の奥深く、古い木々が重なり合って作るトンネルのような道を、三人は静かに歩いていた。十月の終わり、ハロウィンの夜だった。空は厚い雲に覆われて、月の光すら届かない。足元には腐った落ち葉が重なり、歩くたびにぬるりと音を立てる。
剣では対処できない敵に会いに行く。
「こんなところにバーがあるの?」
空夢風音が不安そうに呟いた。彼女の声は震えていた。
「やっぱり帰りましょう。普通のお店に――」
「大丈夫だって。て仕掛け人は言うんだよな。俺が奢るから君は何も払わなくていいよってな」
フレデリックが肩をすくめた。
「たまには変わった経験もいいじゃないか。こういう経験もしておいた方が平和ボケも吹っ飛ぶぜ」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒは無言で歩き続けた。彼の目は暗闇の奥を見透かすように据えられている。前方にぼんやりと灯りが見えてきた。オレンジ色の光が、まるで誘うように揺れていた。
「あれが?」
風音が足を止めた。
建物は古びた洋館のようだった。壁は煤けて黒ずみ、窓ガラスは歪んでいる。正面の看板には「Devil's Den」と書かれていたが、文字は血のように赤く、どこか滲んで見えた。
「さすがにここは……」
風音が後ずさった。
「いや、ここが正解だ」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが初めて口を開いた。
「きみが学ぶべき場所は、こういうところだよ。日本人はぼったくりしやすいってカモ意識をひっくり返すことができるかどうか」
フレデリックがニヤリと笑った。
「俺たちも付き合ってやるよ。なら安心だろ? 一緒に勉強だ」
空夢風音の表情に迷いが浮かんだ。明らかにヤバそうな雰囲気なのだが、二人の態度があまりに軽い。
扉の前に立つと、温かい空気と甘い香りが漂ってきた。バニラとシナモン、それに微かな血のような鉄臭さが混じっている。ドアノックをしようとした瞬間、扉が自分から開いた。
「いらっしゃいませ」
出迎えたのは、人形のような少女だった。白いワンピースを着て、金髪をおさげに結んでいる。年齢は十歳前後だろう。だが、その目は――。
風音が息を呑んだ。少女の瞳は、闇のように真っ黒だった。光を一切反射しない、深い闇だ。
「お客様、どうぞ」
少女が愛らしく微笑んだ。
「温かい飲み物と、美味しいお食事をご用意しております」
「ちょ、ちょっと待って」
風音が慌てて言った。
「子供……?」
「あら、失礼しました」
少女がくすくす笑った。
「私、ここの看板娘です。お姉さん、怖がらないで」
その笑顔が、どこか不自然だった。口元は笑っているのに、目は笑っていない。機械的な動きで、三人を中に招き入れた。
店内は予想外に明るかった。暖炉の火がぱちぱちと音を立てて燃えている。天井は高く、枝形シャンデリアがゆっくり回っている。テーブルは磨き上げられた黒檀で、椅子は深紅のビロード張りだ。
だが――。
壁に掛かっている絵が奇妙だった。人物画なのだが、顔の部分だけが空白になっている。まるで誰かが顔を削ぎ取ったかのようだ。
「どうぞ、お掛けください」
少女が三人を窓際のテーブルに案内した。
「今日は特別メニューがあります」
空夢風音が座りながら、あたりを見回した。客は他に誰もいない。静寂が重かった。テーブルの上には、すでにメニューが置かれている。
「あ……」
彼女が声を漏らした。メニューの表紙に、自分の名前が書かれていた。『空夢風音様特別コース』と。
「これは……」
「あら、ご存知でしたか?」
少女が嬉しそうに頬を緩めた。
「お客様のために、特別に準備したのです」
フレデリックが楽しそうにメニューを覗き込んだ。
「へぇ、俺たち用もあるぞ。『フレデリック&ミハエル様、お世話役コース』って」
風音の背筋に冷たいものが走った。これは計画されていたことだ。最初から罠だった。
「ご注文は?」
少女が訊いた。
風音は喉を鳴らした。逃げ出したい衝動に駆られた。だが、二人は落ち着き払ってメニューを見ている。
「とりあえず、温かいものを」
ミハエルが静かに言った。
「彼女は初めてだ。驚かせないように。まあわたしもフレッドもはじめてなんだが」
「かしこまりました」
少女が一礼して、奥に消えた。
風音は小声で言った。
「これ、絶対に変です。子供がこんな時間に働いてるなんて……」
「わかりやすいじゃん、罠って」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが答えた。
「悪魔がどうやって人を騙すのか、見て覚えろ」
「でも……」
「怖がるなよ」
フレデリックが笑った。
「俺たちがついてる」
少女が戻ってきた。銀のトレイに、三つのカップを載せている。湯気が立ち上り、甘い香りが漂う。
「スパイスチャイです」
少女がカップを置いた。
「特別レシピで、心を温めてくれます」
風音はカップを見つめた。表面に浮かぶ湯気が、奇妙な形を描いている。まるで顔のような――。
「お飲みください」
少女が促した。
風音はためらった。だが、ミハエルとフレデリックは平然とカップに手を伸ばした。仕方なく、彼女も一口啜った。
甘さと、それに混じる苦み。舌の上で複雑な味が広がる。体の芯から温かくなるような感覚だった。
「美味しい……」
思わず呟いた。
だが、風音は見た! ミハエルとフレッドが口に入れて、そしていつの間にやら用意したチューブに口に入れたものを吐き出している!
角度で店員からは、ミハエルとフレッドの狡い真似は見えない。
「おいしおいし! おいしおいし!」
ふたりは褒めるが、飲んでいない。
(え? 飲んじゃダメだった!? ウソ! 飲んじゃった!)
胸中で焦る空夢風音。
少女が満足そうに微笑んだ。
「お気に召しましたか? 他にも、特別なお料理があります」
「どんな料理?」
こすいまねをしたフレッドが興味深そうに訊いた。
「今日はハロウィン特別メニューです」
少女がメニューを開いた。
「前菜は、焼き立てのパンプキンブレッド。主菜は、ブラックキャットシチュー。デザートは、魔女のチョコレートケーキ」
風音が眉をひそめた。
「その名前……」
「味は保証します」
少女が保証した。
「どれも、忘れられない味です」
ミハエルが頷いた。
「全部頼もう。時間はある」
少女が奥に消えると、風音は身を乗り出した。
「わたし、変な気がします! このお茶、何か入ってますよね?」
「当然だ」
狡い真似をして飲まずに済んだミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが静かに答えた。
「だが、量は少ない。警戒心を緩める程度だ」
「えっ?」
「見てろ」
フレデリックが周囲を指差した。
「お前がリラックスするにつれて、雰囲気も変わってくる」
確かに、店内の照明が少しずつ暗くなっていた。シャンデリアの回転が速くなり、壁の絵が微妙に変化している。空白だった顔の部分に、薄っすらと輪郭が浮かび上がってきた。
「これは……幻術?」
風音が呟いた。
「いや」
ミハエルが首を振った。
「悪魔の手口だ。徐々に、客を自分たちの世界に引きずり込む」
少女が戻ってきた。今度は、他の子供たちも一緒だった。五人ほどの子供たちが、料理を運んでくる。皆、同じように真っ黒な瞳をしている。
「どうぞ、召し上がれ」
テーブルに料理が並べられた。パンプキンブレッドは温かく、芳ばしい香りが立ち上る。シチューは濃厚で、奥深い味わいだ。ケーキは甘すぎず、ほろ苦いチョコレートの風味が口の中で広がる。
風音は恐る恐るフォークを手に取った。一口食べると、驚いた。本当に美味しい。子供たちが作ったとは思えない、洗練された味だった。
「どうした?」
フレデリックが訊いた。
「美味しくない?」
「いえ……逆に、美味しすぎて」
風音が答えた。
「これ、普通じゃない」
少女たちが声を揃えて言った。
「もっと召し上がれ。お腹いっぱいになるまで」
風音は料理を見つめた。確かに美味しい。だが、その美味しさが不気味だった。何かを忘れさせるような、警戒心を溶かすような――。
「わかった」
風音が呟いた。
「これは、罠なんですね」
ミハエル=シュピーゲル=フォン=フリードリヒが微笑んだ。
「最初からそう言っとる」
「えっ?」
風音が周囲を見回すと、店内の様子が完全に変わっていた。壁は黒ずみ、天井には巨大な蜘蛛の巣が張られている。客たち――今まで誰もいなかったはずなのに――影のような人影が、ぼんやりとテーブルについている。
「ここは……」
風音の声が震えた。
「悪魔の罠だ」
フレデリックが楽しそうに言った。
「だが、学ぶべきことはある」
子供たちが一斉に微笑んだ。その笑顔が、どこか大人びていた。まるで、小さな体に古い魂が宿っているかのようだ。
「どうぞ、もっと召し上がれ」
少女が繰り返した。
「満足するまで。そして、ここに――」
風音はカップを見つめた。底に、小さな文字が浮かび上がっていた。『契約書』と読める。
「これは……」
「選択だ」
ミハエルが静かに言った。
「食べ続けるか、それとも立ち上がるか。きみの判断」
風音は料理を見つめた。確かに美味しい。だが、その美味しさが怖かった。食べれば食べるほど、何かが自分から離れていくような気がした。
子供たちが見守っている。その真っ黒な瞳に、風音自身の姿が映っていた。だが、それは今の彼女ではなく――何か別のものに変わり始めた姿だった。
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