ラスト・デイ・サービス〜二十四時間の邂逅

chisyaruma

第1話 新たなるサービス 犬とヒト

ずっとずっと遠い未来の話なのか、それともすぐ近くまで迫った未来の話なのか定かではない。西暦XXXX年。人類はその時まで数多の未曾有の災害や脅威と熾烈な戦いを続けながらもどうにかして生き延びてきた。しかし人口増加や災害、紛争や実験による土地の汚染により私たちが住むことのできる場所はかなり限られてきていた。そこで人類が目をつけたのは高次元に移住すると言うものであった。当時は多くの人たちが鼻で笑っていたに違いない。しかし人類はそれでも人類であったのだ。そしてついに人類は私たちが俗に言う「死後の世界」——高次の意識集合体領域『セレスティア』の存在を証明した。


だがそれは、不幸なのか幸運なのかわからないが、人類側からの一方的な「発見」ではなかった。 セレスティア側からの「接触(コンタクト)」によって、それは成し遂げられた。時空の歪みを通じて、セレスティアの「意思」が、人類の量子コンピュータネットワークに干渉してきたのだ。


彼らは自らを『調停者』と名乗り、人類が『天国』と呼ぶその場所が、単なる安息の地ではなく、次の段階へ移行するための「魂の学び舎」であることを伝えた。しかし、伝えられたのは名前と多少の説明だけであった。こちら側では向こうの世界で何が起きているのかわからなかった。


この歴史的接触(ファースト・コンタクト)により、人類とセレスティアは正式に「不可侵条約」を締結。当初人類はセレスティアを支配し彼らの土地にするといった計画を打ち立てていた。 そして、両界の唯一の窓口として、共同運営組織『リンバス・コネクト』が設立された。


彼らの主な業務は、セレスティアの秩序を守りつつ、現世に残された者の「後悔」を救済すること。というのもその当時の人類では亡き者の後を追って自殺するといったことが後を絶えなかった。お互い


そのために生まれたのが、**『24時間(トゥエンティフォー)の邂逅(かいこう)』**と呼ばれるサービスだった。


ルールは厳格である。


現世の者(利用者)が、故人との再会を申請する。


『現世の案内人』が申請を受理し、セレスティアへ転送する。


『天界の案内人』が、故人本人に「意思確認」を行う。


故人が「現世に戻る」ことを自らの意思で承諾した場合のみ、再会が成立する。


ただし、この再会には、宇宙の法則に反するが故の、取り返しのつかない代償が伴った。


——セレスティアの法において、一度「学び舎」に入った魂が、再び現世の肉体に戻ることは、最大の禁忌。 ——それを破った魂は、セレスティアへの帰還資格を永久に剥奪され、24時間の活動限界を迎えた後、完全に「消滅」する。


『リンバス・コネクト』は、この事実を双方に隠さない。 現世の者は、愛する者に「消滅」を強いるかもしれないという「申請」の重みに苛まれる。 天界の者は、自らの「消滅」と引き換えに、愛する者を「救う」かどうかの選択を迫られる。


今日もまた、二つの世界で、二人の案内人が、それぞれの「扉」の前に立っている。


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第1話:「主を待つ散歩道」


白石咲江は、『リンバス・コネクト』日本支部の静かな待合室で、固く手を握りしめていた。あたりを見回してみると救済のサービスを提供しているとは思えないほどの白く、妙に広い無機質な空間。床、壁、天井のどこを見回してみても真っ白な冷たさに包まれていた。彼女のシワに包まれた手の中には、使い古された犬用の首輪がある。


夫・雄二が亡くなって三年。 彼女自身夫が亡くなった当時は悲しみに暮れふさぎ込んでいたもののそこまで酷くはなかった。夫の愛犬でもあり彼がいつも「俺の相棒」と呼んでいたタロの存在が彼女を支えていた。タロは顔つきや雰囲気、いで立ちなどがどことなく夫に似通っていたのだ。しかしその夫が「俺の相棒だ」と可愛がっていた柴犬のタロが、半年前、後を追うように亡くなった。


早紀恵の後悔は、タロの最期を看取れなかったこと。 持病の検診で家を空けた、わずか2時間。彼女自身タロの命がそこまで長くないことを頭のどこかではわかっていた。しかし、本来ならば幸福なことのはずなのだがタロは数日前から食欲がわずかに復活し、流動食を少しでも食べるようになっていた。タロなりの最後の力の振り絞りだったのかもしれない。


しかしそれが彼女に少しの安心と油断を与えてしまった。彼女が帰宅した時、ケージの中で冷たくなっていた。医者の見立てによると老衰とのことだった。タロは元気に十八年間の生を全うしたのだ。後悔など何一つ残るはずがない。タロの最後の瞬間を彼女が看取れていたのなら。今でも覚えている、目の前の景色が色を失っていく感覚。タロの生き物とは思えない冷たさ。手触りや感触。彼女の目の前で冷たくなり静かに横たわっていたタロの姿が、今も早紀恵の心を苛んでいる。


「さよならも、ありがとうも言えなかった」 その想いだけで、彼女はこの場所に来ることを決めた。


「白石早紀恵さま」


『現世の案内人』と呼ばれる、黒いスーツの身に纏った若い女性が、感情のない冷たい声で彼女を呼んだ。咲江は案内人の跡をついてく。横を見てみても一面真っ白で扉などもない。 通された個室で、案内人は淡々と説明を始める。


「白石さま。我々がこれから行うのは、セレスティアへの『再会申請』です。対象者『タロ』さまが、今どのような状態にあるか、我々は関知いたしません。あちら側がどのような世界でどんなことが起きているのか。彼らは我々が思い浮かべるような天国なる存在のような場所で幸せに暮らしているのか、それともただ魂があるだけなのか。」


案内人は、一枚のタブレットを早紀恵の前に置いた。ただひたすらに真っ白で角張ったタブレット型端末。 そこには、あの恐ろしい「代償」が記されている。


「もし、タロさまが、あなたの申請をあちら側で『承諾』された場合……タロさまの魂は、24時間後に『消滅』します。二度と、セレスティア——あなたのご主人、雄二さまが待つかもしれない場所へは、戻れません」


早紀恵は息を呑んだ。今ならまだ引き返せるかもしれないという考えが咲江の頭の中を駆け巡った。


「あなたは、タロさまに『消滅してほしい』と申請するのですか?」

「ち、違います!」 早紀恵は声を荒げた。「私は、ただ、もう一度謝りたくて……」


「ですが、結果は同じです」 案内人の声は冷たい。

「あなたの申請が承諾された瞬間、あなたはタロさまの『消滅』を決定づけたことになります。……それでも、申請なさいますか?」


自分がただ会いたいと言うエゴ一つのみであの子を消してしまう。 夫と天国で再会していたとしたら、それを引き裂いてしまう。 早紀恵の手は、罪悪感で震えた。


(私は、なんて酷いことをしようとしているんだろう)


だが、脳裏に浮かぶのは、最期に一人きりだったタロの姿。タロが死んでから記憶の中にひどくこびりついていたあの映像。


(あの子も、私に会いたかったんじゃないだろうか)


「……お願いします」 早紀恵は、絞り出すような声で言った。 「申請を、お願いします」


案内人は無言で頷くと、目の前の空間にホログラム・スクリーンを展開し、セレスティアへの通信回線を開いた。 「申請、受理しました。これより、セレスティア側の『調停者』が、対象者『タロ』さまへの意思確認を開始します。……同意されるか否か、結果が出るまでお待ちください」


【同時刻:セレスティア領域】


そこは、人の知覚を超えた、光と安らぎに満ちた場所だった。 魂は、最も幸福だった頃の姿で、穏やかな時間を過ごしている。まさに私たちが宗教観や創造の中で描いていた理想の場所の姿をしていた。


三年前に亡くなった白石雄二は、生前と変わらぬ穏やかな笑顔で、草原に座っていた。気温は冷たくもなく暑くもない春のような穏やかな空間だった。柔らかな風が彼の頬を撫でる。 その膝の上で、一匹の柴犬が幸せそうに喉を鳴らしている。彼の相棒であるタロだ。 タロは、半年前にここで雄二と再会し、再び「相棒」としての日々を過ごしていた。魂の学びやとは言われているもののここでは来世を選択するのもよければ、気が変わるまで最も幸福な時をただひたすらに過ごすことが許されていた。ここでは何不自由なく時を過ごせる。


そこへ、セレスティアの『天界の案内人』——光で編まれたような人型の存在が、静かに近づいてきた。形のはっきりとしない人型の何か。顔もない。あるのはヒトの形をした光のみであった。


《対象者『タロ』。並びに、関係者『白石雄二』》 案内人は、テレパシーで二つの魂に語りかける。 ここにきて暫く経つと言うのに頭の中に直接流れてくる声はいまだに慣れなかった。《現世より、申請がありました。白石咲江が、あなたとの再会を望んでいます》


雄二の魂が、わずかに揺らぐ。 《咲江が……》


タロが、膝の上で顔を上げた。


案内人は、タロの魂に真っ直ぐ向き直る。 《タロ。申請を承諾し、現世へ『邂逅』することは可能です。ですがそれは生と死の法則に反する大きな罪。法に従い、代償を伝えます。現世へ降りた魂は、24時間後に『消滅』します。あなたは、二度とこのセレスティアへは戻れない。……ここにいる雄二とも、永遠の別れとなります》


重い沈黙が流れる。それまで穏やかな心地の良いものであったはずの風が突然刃物ののような鋭さを帯びて両者に襲いかかってきたように感じた。


《咲江……》 雄二が、タロの頭を撫でた。 《あいつ、まだタロの最期のこと、悔やんでるんだな……。俺が死んだ時より、つらそうな顔をしてた。俺が死んだ時なんかすぐに元気を取り戻したように感じたのに。》


雄二は、天界から咲江の苦しみを感じ取っていた。


《タロ。俺は、お前が消えるなんて見たくない。俺はここでひとりぼっちだった。でもお前がここに来てくれたおかげでまたこうして「相棒」と一緒に過ごすことができてる。おれはお前に救われたんだ。幸せな時間だって過ごせた。お前にこれから先会えなくなるなんて考えたくもない。だが……》


雄二は、タロの目をじっと見つめた。長年共に過ごしてきた仲だ。タロが咲江と会いたいと考えていることくらい彼はタロの表情から見てとっていた。


《向こうに行くかどうかはお前の自由選択だ。俺が決めることはできない。早紀恵を救ってやれるのは、お前だけかもしれん。……選んでくれ、タロ》


タロは、雄二の顔を黒くまん丸とした目でじっと見つめた後、彼の頬をひと舐めした。 舌の暖かさが彼の頬に伝わる。そして彼の頬が濡れる。ゆっくりと立ち上がると、『天界の案内人』に向かって、力強く、一度だけ「ワン」と吠えた。


それは、迷いのない「承諾」の意思表示だった。 自分を消滅させてでも、もう一人の大好きな主(あるじ)を救う、という決意だった。


【現世:リンバス・コネクト契約室】


待合室のモニターに、「申請中」の文字が点滅している。 早紀恵は、祈るように手を組んでいた。彼女は自分の下した決断を僅かに後悔し始めていた。


(どうか、タロが断ってくれますように。私のわがままを、拒否してくれますように)


その時、個室のドアが開き、先ほどの案内人が現れた。


「白石さま。……セレスティアより、返答です」


案内人は、一瞬だけ目を伏せタブレット型端末を除いた。


「対象者『タロ』さま……あなたの申請を、『承諾』されました」


「……え?」


「タロさまは、自らの『消滅』を理解した上で、あなたとの再会を選ばれました。……おめでとうございます。24時間の邂逅が、成立しました」


早紀恵の頭は、真っ白になった。 安堵ではなかった。拒否されなかった。 タロが、自分のために、消滅を選んでくれた。


「あ……あぁ……!」 罪悪感と、それ以上にタロの健気な愛情に、早紀恵はその場に泣き崩れた。 「タロ……! あなた、、、、なんて子なの……」


もう後戻りをすることはできなかった。


処置室のドアが音も立てずに開くと、そこには最も元気だった頃の姿のタロが、尻尾を振って立っていた。力強い立ち姿。凛とした顔立ち。そしてまん丸な黒い瞳。


【活動限界まで:24時間00分00秒】


無機質なカウントダウンが開始される。


「タロ……!」 早紀恵は駆け寄り、その温かい体を強く抱きしめた。彼女の腕の中にはずっと求めていた温もりと毛並み、体の柔らかさが一気に伝わってきた。


「ごめん…… ごめんね、タロ……!」


彼女はタロを力強く抱きしめると込み上げてきたものが涙となって瞳の中から溢れだ出てきた。タロは、早紀恵の涙を、生前と同じように優しく舐めた。タロは何度も涙を舐める。しかし彼女の涙は止まることを知らなかった。


早紀恵は家から持ってきたタロの首輪をつけ、リードを握った。


「よし。じゃあ行こうか、タロ。お散歩」


二人が向かったのは、かつて雄二と三人で、彼が亡くなった後は二人で毎日歩いた、河川敷の散歩道だった。日はすでに沈み始めていた。あの施設にひどく長い間いた気がしていた。夕方になっていた。 タロは、嬉しそうに草むらを駆け回り、早紀恵を振り返っては、「早く!」と急かす。タロと過ごした最後の数ヶ月、彼は元気に走ることは愚か立っていることすらできなくなっていた。どれだけこの瞬間を望んでいたか彼女にはもはやわからなかった。


「ねえ待ってよ、タロ。おばあちゃんは、そんなに早く歩けないんだから」


早紀恵は、涙を拭い、笑った。目の前にはただひたすらに元気に駆けずり回るあの頃のタロの姿。


少し二人で河川敷を歩いた後、夫がいつも座っていたベンチに腰掛ける。 タロは咲江の膝の上に乗っていた。タロの重さが彼女には心地よく感じていた。


「タロ。お父さんに、会えたのね」


タロは、「ワン!」と嬉しそうに吠えた。タロはこれから待ち受ける運命をわかっているのだろうか、それとも全くもって理解していないのか。そんな一抹の不安が彼女の心の中でタロに会えた幸福とせめぎ合っていた。


「そう……よかった」 早紀恵は、タロの頭を深く撫でた。


「なのに、ごめんね。おばあちゃんのせいで、もう会えなくしちゃった」


タロは、早紀恵の膝に頭を乗せ、穏やかな目で彼女を見つめている。夕日の後ろから吹いてくる柔らかい風が咲江の頬とタロの毛並みを撫でている。そしてその瞳は彼女のエゴを責めてはいないように咲江には感じてとれた。


暫く二人で河川敷の夕陽の景色を眺めながら会話をした後、二人は並んで家へ帰った。


「おかえり、タロ。」


先に玄関に上がりタロにそのように声をかける。彼女は何も言わずに洗面台まで行き、タオルを持ってくる。純白な白いタオルではなく少し汚れた、ボロくなっているタオルである。このタオルで彼女は散歩から帰った後タロの足を綺麗にしていた。


「ほら、足が汚れてるからちゃんと綺麗にしないとね。」


咲江はタロの足を持ちタオルで足の汚れを落としていた。タロの足は彼女にとっては少し重く感じる。しかしそんな重さも彼女にとっては愛おしく感じていた。

そもそもタロの足をこの先拭くことができることはないだろう。だから彼の足を拭く感覚を彼女はなんとしてでもその手に残しておこうと必死になっていた。


彼女はタロを風呂に入れてやり、二人でこたつに入りながらテレビを見たりしながら最後の時間を過ごしていた。


夜ご飯の時間の時、彼女はシャケに味噌汁、いつも飲んでいる牛乳を飲んだ。タロには缶詰入りのドッグフードを食べさせた。タロは元気よく食べた。このまま咲江のご飯まで食べてしまうのではないかと言うほどの勢いで。


タロがなくなる前、彼は固形の餌を食べることはできなくなってしまった。流動食のみ彼は食べることができた。最後はそれすらもほぼ手をつけなくなってしまっていたが。だからタロがドックフードを元気よく頬張っている姿は咲江にとって嬉しくもあり、しかしもう見れないと思うと悲しくもあったのだ。


寝る時間になると二人は同じ布団に入った。タロの毛並みが暖かい。そして体が歳で小さくなってしまった彼女からしてみると思っていたよりも大きく感じた。


タロは彼女の顎の下に顔を埋めてくる。彼女はタロの頭を撫でてやる。二人が眠る胃につくまで彼女はタロの頭をただひたすらに撫でてやった。二度と撫でることができないその頭を。


朝いつもより遅い時間に起き、二人で朝食を食べ、テレビやら洗濯やらをしていると時間はあっという間に過ぎていった。


気がついて見ればタロを昨日迎えた時間と同じ時刻に近づいていた。時間はあまりにも無情に過ぎる。 時間は残酷であり冷徹である。咲江とタロは再び昨日と同じ河川敷に向かった。


青白い夕日が二人の後ろを照らしていた。夫の雄二と三人で歩いた、昨日も歩いた道を再び二人で歩いた。その間も彼女は再びみることのないタロの元気な姿を目に焼き付け、足音を耳に残し、リードが引っ張られる感覚を五感全てで感じ取ろうと努力していた。


二人はあのベンチに再び座った。冷たい風が彼らを突き抜け、空は少し暗くなり始めていた。


【活動限界まで:00時間01分00秒】


「タロ」 意を決して早紀恵は、この24時間で伝えたかった、たった一つの言葉を口にした。


「最期に、一人寂しかったかもしれないのに、寂しかったかもしれないのに、一人にしちゃってごめんね。辛かったよね。」


タロは、もう弱々しくなっていた。あの時と同じだ。タロの命の灯火が見え尽きる数日前と。タロは最後の力を振り絞り、早紀恵の手を舐めた。舌は冷たかった。でも柔らかかった。


「ありがとう、本当にありがとうタロ。」 早紀恵は、今度は笑って言った。 タロに辛い思いをさせたまま帰らせたくはなかった。帰る場所はないことはわかっていたはずなのに。それでも悲しい思いで帰らせたくはなかった。


「あなたのこと、絶対に忘れない。あなたがお父さんのところから来てくれたこと、あなたの犠牲を、絶対に無駄にしない。……おばあちゃん、ちゃんと前を向いて生きるから」


【00時間00分03秒】 「大好きだよ、タロ」


彼女はタロを腕の中で必死に抱きしめた。腕の中にはまだタロの重みが残っていた。タロは彼女の手を必死にぺろぺろと舐めていた。


「ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。だけどごめんね。」


【00時間00分00秒】


カウントがゼロになると、タロの体はふっと重みを失い、光の粒子に変わっていく。 だが、消滅の間際、タロは早紀恵を見つめ、満足そうに、確かに尻尾を振った。

それももしかしたら彼女の勘違いかもしれない。それでも彼女の記憶の中では彼は尻尾を懸命に振っていた。


腕の中で抱いているタロの感覚は徐々に無くなっていった。薄くなっていった。

1日、時間にすれば24時間、分にすれば1440分であり秒にすれば86400秒。長いようで短い最後の時間が終了を迎えた。


光が完全に消え去った後、早紀恵の手には、あの古い首輪だけが残されていた。


風はより一層冷たくなって彼女の前に立っていた。でも彼女に冷たさを与えることはできなかった。


空は青白くなっていた。遠い光は青白く光っていた。


翌日、早紀恵は、雄二とタロの写真の前に、新しい花を供えた。 彼女の顔に、もう後悔の影はなかった。もちろん会えるのなら全てを犠牲にしてでもタロと再び同じ時間を共にしたかった。でも後悔は残っていない。ここ数年タロに伝えたかった言葉を彼女は口にすることができたのだ。彼に伝えられたのだ。


「タロがくれた24時間。タロが選んでくれた『明日』だもの。ちゃんと生きなきゃ、あの子に怒られちゃうわね」


彼女は、愛する者の「消滅」という重い罰を背負った。彼女が一度だけでも会いたい、そしてあの日伝えられなかった言葉を伝えたいという彼女のエゴで。 だが、それと同時に、愛する者の「自己犠牲」という、世界で最も尊い愛を受け取ったのだ。 早紀恵は、窓から差し込む光に向かって、静かに微笑んだ。

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