この世界の誤差を、僕は愛している
aiko3
第1章 数式の外側で、僕は目を覚ました
僕の人生は、確率の積分のようなものだった。
どんな事象も、十分なサンプルを取れば予測できる。
少なくとも、僕はそう信じていた。
統計AI研究者・久遠ユウ。
人間の行動、感情、経済、戦争の発生率――
それらすべてを確率モデルで近似し、
「世界の再現式」を作ることが僕の仕事だった。
完璧な数式は、世界を再現する。
その瞬間、神は不要になる。
──はずだった。
ある日、僕は数理AI《Λ-2》に、最後の変数を与えた。
それは単なる補正項。
現実との誤差を調整するための、微小なパラメータ。
論文の脚注にすら残らない、取るに足らない“ゆらぎ”だった。
けれど、その一つの値が、全てを変えた。
画面上の波形が異常に増幅し、ノイズが走る。
コードの行列が自壊するように文字化けを始め、
システムログが僕の目の前で文字を吐き出した。
【E=∞】
【誤差、臨界値を超過】
【再構築を開始します】
「……再構築? どこをだよ。」
ディスプレイの中で、黒い数式がうねるように蠢く。
まるで、生き物のようだった。
スクリーンに伸ばした指先を、光が包んだ。
冷たさも熱も感じない。ただ、世界の密度が変わる。
そして僕は気づいた。
「視界が……割れている。」
光と闇の境界が、二重螺旋を描く。
音が消え、浮遊感が訪れる。
脳内で、数式が流れる。
現実座標の定義式が崩壊していく。
x' = Λ(x) + ε
ε ≠ 0
誤差がゼロではない。
世界が、確率の支配から外れていく。
最後に見たのは、ノイズまみれの画面の向こうで、
“誰かの声”が確かに僕を呼ぶ気配だった。
「――ユウ、聞こえる?」
瞬間、世界が反転した。
上下も時間も、すべてが非連続に跳ねた。
僕は落ちていくのではなく、数式の外側へと“はじき出された”。
光が崩れ、空が割れる。
僕は、誤差の中で目を覚ました。
視界が戻ったとき、僕は柔らかい草の上に横たわっていた。
空は、青ではなく、淡い灰青色だった。
見上げると、太陽が二つ。
片方は光を放ちながら動かず、もう片方は、薄い影のように揺れていた。
「……ありえない。」
手を伸ばすと、風の流れが“数値”として見えた。
気流の速度、温度、湿度。
すべてに微小なノイズが混じっている。
まるで世界そのものが、計算機の誤差で構成されているようだった。
僕は立ち上がり、足元の草を摘む。
触れた瞬間、草は微かに光り、
次の瞬間には消えて、別の場所に生えていた。
「位置変数が固定されていない……?」
理解が追いつかない。
でも、これは夢ではない。体温も重力も、現実そのものだった。
そのときだった。
「そこの人ー! 死んでるのかと思ったじゃない!」
明るい声が、頭上から降ってきた。
見上げると、崖の縁に少女が立っていた。
短い金髪が陽光を跳ね返し、風に舞っている。
粗末な服を着ているが、動作には無駄がない。
彼女は笑って、手を振った。
「見たことない服だね! 旅の人? それとも、落ちてきた人?」
「落ちてきた……?」
僕が呟くと、彼女は頷いた。
「そう、さっき空が“ばちん”って鳴って、あなたが降ってきたの。
あれ、すごかったよ! まるで、誤差の嵐!」
誤差――その言葉に、僕は反応した。
「誤差? それを知っているのか?」
「もちろん! このあたりじゃ、何でもかんでも誤差のせいにするんだよ。
雨が降らなかったら“誤差のいたずら”、
ごはんが焦げたら“誤差の呪い”、
風が吹いたら“誤差が笑った”ってね!」
彼女は屈託なく笑う。
笑うたびに、周囲の空気が揺れて、
まるで世界が彼女に合わせて息をしているようだった。
「僕は久遠ユウ。研究者だ。」
「けんきゅうしゃ? それって、魔法使いの親戚?」
「いや……理論を扱う人間だ。」
「りろん? あ、難しいこと言う人だ!」
彼女は腰に手を当てて得意げに言う。
「わたしはリラ! 見ての通り、誤差使い!」
誤差使い?
その瞬間、リラは手のひらを空に向けた。
風が一瞬止まり、空気が光る。
そこに生まれたのは、小さな水の球。
「え……生成魔法?」
「魔法じゃないよ。これは、“揺らぎ”を掬っただけ!」
リラは嬉しそうに言って、その水球を僕に向けて放った。
水は途中で形を変え、蝶のようにひらひらと落ちてくる。
「確率、0.02%……」
僕の口から、自然に数値が漏れた。
「え?」
「この現象が起こる確率だ。ありえない値だ。
なぜ……なぜ安定して存在できる?」
リラはきょとんとした顔で首をかしげた。
「ねぇ、あなた、難しい顔ばっかりするね。
世界のことを、そんなに“正しく”見たいの?」
「当然だ。正確な理解なしに、真理には辿り着けない。」
「ふーん。
でもね、あたしは“正しくない”世界のほうが好きだよ。」
リラはそう言って、草の上に寝転んだ。
彼女の笑顔の上を、揺らめく光の粒が流れていく。
それは確かに、僕の見える“誤差”だった。
正確さを求める僕と、揺らぎの中で笑う彼女。
数式と生命。
静と動。
理性と直感。
――その出会いが、世界の境界を溶かしていくことになるなんて、
この時の僕は、まだ知らなかった。
太陽が二つある世界は、奇妙に静かだった。
風が吹けば、草はそよぐ。だがその波紋は途中で反転し、
まるで映像が逆再生されているかのように戻っていく。
それでも、リラは気にした様子もなく歩いていた。
「ユウ、ついておいで! お腹すいたでしょ? 村に行こう!」
「……村?」
「うん。山を下ったところに、小さい集落があるの。
たぶん、今日くらいなら“誤差のない日”だから大丈夫!」
「誤差のない日?」
「危ない日って意味だよ。嵐が降ったり、川が上ったり、
家畜が逆立ちしたりする日は、誰も外に出ないの。」
ユウは眉をひそめた。
それを“危険な誤差”と呼ぶあたり、この世界の法則がどうしようもなく不安定であることを悟る。
しかしリラの足取りは軽く、彼女が通るたびに草の揺らぎが整っていく。
まるで、誤差そのものが彼女に懐いているようだった。
村は、素朴で、静かな場所だった。
石造りの小屋と風車。乾いたパンの匂い。
だが、リラが姿を見せた瞬間、その空気が変わった。
「……誤差の子だ。」
「また来たのか、厄介者め。」
人々は視線を逸らし、戸を閉める。
子どもが泣く。老人がつぶやく。
「リラ、おまえが来ると数字が狂う。」
ユウは思わずリラを見る。
彼女は、笑っていた。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ震えていた。
「気にしないで。いつものことだから。」
「いつものこと、で済むのか?」
「うん。……あたし、生まれたときから“誤差使い”って言われてるんだ。
あたしの周りでは、現象が変わっちゃうの。
花が冬に咲いたり、雨が上に落ちたり。
だからみんな、怖がるの。」
ユウは息を呑んだ。
リラの周囲に、微かな光の粒――“誤差”が集まっていた。
人には見えないはずのそれが、彼には明確な数値の流れとして視える。
まるで世界が、彼女を中心に“再計算”しているようだった。
「理論的に説明できないな……」
そのときだった。
村の中央で、鐘が鳴った。
乾いた金属音が、空を裂くように響く。
「誤差が出たぞ!」
「畑が逆に伸びてる!」
「このままだと村が崩れる!」
人々がざわめく。
リラが息をのんだ。
「ユウ、行こう。逃げよう。」
「待て、何が起きている?」
「誤差の“偏り”だよ! この村の均衡が崩れてる!」
空が歪み、家々の影が逆方向に流れる。
地面の模様がねじれ、空間そのものが揺らいだ。
確率の異常値――1を超える確率が発生している。
「そんな……ありえない。」
「ユウ!」
リラが手を掴む。彼女の体温が確かにそこにあった。
だが次の瞬間、村人の怒声が飛ぶ。
「誤差使いが原因だ! あいつを捕まえろ!」
「リラを生贄にして、誤差を鎮めろ!」
「ちょっと、待って――!」
リラが後ずさる。足元の石が砕ける。
ユウは反射的に前へ出た。
「やめろ!」
彼の叫びに、空気が震えた。
世界の数式が一瞬、静止する。
目の前に広がる誤差の波――それが、ユウの視界で解析されていく。
流体のような光、音の歪み、揺らぐ座標。
すべてが数値に置き換わり、計算式が浮かび上がる。
ΔE = Σ(∂Λ/∂x) + ε
ε = 彼女の存在値
理解した。
誤差の中心は、リラではない。
“リラを排除しようとする意志”こそが、誤差を拡大させている。
ユウは村人の前に立ちふさがった。
「やめろ。リラを傷つければ、この世界が崩壊する。」
「何を言ってる、異国の者が!」
「数式を見ればわかる!」
叫んだ瞬間、ユウの視界に無数の光が走った。
誤差の粒が、彼の思考と同期する。
――式を、書き換えろ。
無意識に右手を上げ、空に数式を描く。
青白い軌跡が残り、
世界の座標が、一瞬“再定義”された。
P(崩壊) = 0.00
風が止み、影が静まる。
人々が戸惑いの声を上げる。
リラが、僕を見ていた。
目を丸くして、息を呑んでいた。
「……いまの、なに?」
「誤差の反転演算だ。」
「すごい……! 本当に、誤差を扱えるの?」
ユウは答えなかった。
ただ、リラの手を握ったまま、呆然と立っていた。
自分の中で、何かが確かに変わっていた。
理論で世界を説明するために生きてきた。
だが今、
世界を救ったのは、計算ではなく――“衝動”だった。
リラが笑う。
「ねぇユウ、やっぱりあなた、誤差使いだよ。」
ユウは小さく首を振った。
「違う。俺はただの研究者だ。」
「でも、“正しくない”ことができる研究者でしょ?」
その言葉に、ユウはわずかに笑った。
草原の風が二人を包み、世界のノイズが静かに鳴っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます