第6章:10秒29のバグ
「――第一フェーズ、完了」
雫のその言葉は、まるで俺の10秒29という結果を、単なる実験レポートの締めくくりのように響かせた。
熱狂するスタンドの喧騒が、急に色あせて聞こえる。俺は、自分の体でありながら、自分の体でないような、奇妙な浮遊感に囚われていた。
「……蓮ッ!」
怒声に近い声で、俺は現実に引き戻された。
和泉 京介が、汗まみれの顔を歪め、俺の胸ぐらを掴んでいた。
「……京介」
「ふざけるな……! なんだよ、あれは!」
京介の目は、俺がスランプだった時とは違う、もっと暗い光を宿していた。嫉妬、混乱、そして恐怖。
「なんだって……見ただろ。俺が走って……」
「走る、だと? あんなものが、お前の走りか!」
京介は、俺の体を突き飛ばした。
「お前は、努力を馬鹿にした! 俺が……俺たちが積み上げてきたものを、あんな……あんなロボットみたいな動きで……!」
彼は、大学のエースだ。誰よりも練習し、誰よりも「感覚」を研ぎ澄ませてきた男だ。
その彼が、積み上げてきた全てを、俺の「物理(ロジック)」が一瞬で無に帰した。
俺は、何も言い返せなかった。
京介の言う通りかもしれない。あれは、俺の走りじゃなかった。
天野 雫というプログラマーが組んだ、完璧なシステムが走っただけだ。
「……お前は、何かを『使った』」
京介は、ドーピングでも疑うような目で俺を睨みつけ、そう吐き捨てて去っていった。
「違う……」
そう呟いた声は、誰にも届かなかった。
俺は、京介の背中を見送ることしかできず、硬いスパイクの感触だけが残る足元を見つめた。
10秒29。
その輝かしい結果が、今は鉛のように重い。
「――黒田さん」
いつの間にか、雫が俺の隣に立っていた。観客席から降りてきたらしい。
彼女は、興奮も祝福も口にせず、ただ淡々とタブレットの画面を俺に向けた。
「……なんだよ」
「あなたの勝利に水を差すようで恐縮ですが、新たなバグが発見されました」
「……は?」
俺は、耳を疑った。10秒29を叩き出して、まだバグ?
モニターには、俺の走りを解析したグラフが表示されていた。
「レース終盤、90メートル地点。あなたの慣性モーメントが急激に増大しています。ここ」
彼女が指差したグラフは、そこだけ異常なスパイク(突出)を示していた。
「……これが、なんだって言うんだよ」
「あなたの『感覚』が、最適化されたシステム(フォーム)に『抵抗』した結果です。あなたの無意識が、減速しようとする古い動き……例えば、ゴール前で力んで腕を横に振るような『バグ』を、強制的に実行しようとした」
ぞわり、と背筋が寒くなった。
無意識が、抵抗する?
「おかげで、終盤の角運動量が乱れ、コンマ02秒のロスが発生しました」
「ロス……? これで?」
「私のシミュレーションでは、10秒27。それが理論値でした。今回の記録は、成功であると同時に、危険な兆候(フラグ)でもあります」
雫は、初めて、俺の目をまっすぐに見た。
その瞳の奥には、研究者としての冷徹さとは別の、何か暗い、抑圧された感情が揺らめいているように見えた。
「……危険な兆候って、なんだよ」
雫は視線をそらすと、小さく呟いた。
「……以前、被験体がシステムを拒絶し、**応力(Stress)**の集中によって再起不能(クラッシュ)になったケースがあります」
「……は?」
「あなたの体は今、物理法則という完璧なOSで動いています。ですが、そのOSの上で動く『黒田 蓮』という名のアプリケーションが、深刻なエラーを起こしかけている」
彼女はそれだけ言うと、「研究室に戻ります。レポートを修正しないと」と背を向けた。
俺は、呆然とトラックに立ち尽くした。
10秒29の栄光は、一瞬で消え去った。
手に入れたはずの力は、俺の体を乗っ取ろうとするバグだらけのシステム。
そして、ライバルの憎悪と、雫の不気味な警告。
(俺は、本当に、速くなったのか……?)
掴んだはずの光は、俺の想像もしなかった深い闇の入り口に過ぎなかった。
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