カース・イン・ライティング

霧が沈んでいた。

光でも、音でも、温度でもなく、質量のあるものが空から降りてくるようだった。

波の音が港の縁で消え、聞こえてくるのは木材の軋む音と、潮に濡れた石畳を擦る小さな足音だけ。

明治三十年代の日本──近代化の熱気が都市部を覆う一方、ここは時間が止まったような海辺の町だ。いや、止まっているのではない。進みすぎて歪んだ時間を、後から貼り合わせたような場所。

ガス灯が霧の中で灯っている。だが光は遠くまで届かず、数歩先を照らすだけで、あとはぼんやりとした影が石壁や木造の家屋をゆらす。

港の荷揚げ場。木製の桟橋が海へと突き出し、船が数隻、黙って揺れている。人の気配は少ない。まるで何かを避けるように、この街は外から来る者を拒んでいた。

ジニアは黙ってそこに立っていた。

海を背に、上陸したばかりの彼の目に、まず飛び込んできたのは“静けさ”だった。だがそれは、平穏の静けさではない。空気そのものが、抑圧されている。湿度が重く、温度は低くないはずなのに、汗が出ない。

「……空気が薄いわけじゃない。圧がかかってる」

小声でつぶやく。肩にかけた革製の装備バッグから、小型の通信端末を取り出し、操作パネルをタッチする。機械はわずかにノイズを吐きながら起動した。

『ジニア、到着を確認。第一層視界、正常にリンク中』

通信の相手は、サンドラ──後方支援と情報分析を一手に担うパートナーだ。彼女は物理的にこの地にはいない。彼女の身体は欧州にある。ただし、彼女の“目”と“耳”はこの場にある。ジニアの装備した複合視野システムを通じて、すでにこの地の情報は並列処理されている。

「映像に遅延は?」

『0.3秒以内。音声同期は直結』

「助かる」

ジニアは顔を上げ、桟橋の先を見た。街の入り口に続く小径。木造の門が半ば壊れかけており、その向こうに続く道も、かつて舗装された痕跡だけが残る。

『……こっちでも確認した。周囲に有機反応あり。ただし、分類不能』

「能力者だろう」

街路の向こう、煙のように霧がたなびく一角で、人影が動いた。ジニアはその動きを目で追う。

人物──おそらくは二十代の男が、荷物を持ち上げたかと思えば、腕をひねるようにして軽く振った。次の瞬間、手にしていた荷物がふわりと浮き、霧の中を滑るように前へ進んだ。明らかに手を使っていない。空気そのものを押し出すような動き。念力か、空間転位か、いずれにしても自然ではない。

「この距離で誤差なく制御……能力の精度も高い。素人じゃないな」

『現地の“処理部隊”かもね。能力を見られても問題がない。むしろ“見せてる”』

「見せてる……ふむ。能力者が自衛と対処を兼ねて動いてる街か。なら、俺たちのような部外者を監視する目もすでにあると見ていい」

足元の木板がきしむ。ジニアはゆっくりと桟橋を渡り、石造の岸辺に降りた。

そこから先は町並み──いや、“旧城下”と呼んだ方が早い造りだった。木造家屋が並び、平屋と二階建てが交互に入り混じる。電柱の姿はあるが、電線の通る先がはっきりしない。ガス灯と電気灯の中間、つまり技術の継ぎ接ぎ。建築も制度も、思想も混在している。

『変な都市だね。制度も法も継ぎ接ぎ。能力の規制が成立しないはず』

「もしくは、成立させる気がない。国家ではなく、集団の論理で成り立ってるようだ」

ジニアはふと立ち止まる。視界の端に、石積みの壁が崩れた箇所があった。黒く焼け焦げた跡。焦げた木材、粉々になった瓦、砕けた陶器の破片。

「……焼却痕。事故か?」

『断定できない。温度痕から見て、人為的な火炎。魔法由来の可能性がある』

「あるいは処理だ。死体、あるいは汚染物の焼却」

『……“呪術”処理の線も捨てきれない。現地には専従の焼却師がいると記録にある』

「その技術、近代医学とは無関係だろうな」

ジニアは肩越しに街を振り返った。建物の奥から、再び能力行使の痕跡が見えた。風が逆流し、木の扉が音もなく閉じる。窓のガラスが光の粒を跳ね返し、霧がまたひとつ渦を巻いた。

港の水面に、淡い影が揺れていた。

曇天の下、波の光もなく、ただ色の抜けた墨のような波紋が広がっては消える。漁船は静かに揺れ、その上に座したジニアは目を閉じたまま、耳だけを働かせていた。サンドラの声が鼓膜に届くのは、その一拍前の静寂を鋭く切り裂くような、繊細な周波の中でだ。

「・・・現地の追跡ログ、最初の数件だけは確認できた。でも、それ以降は記録自体が無い。人間の記憶にも残ってないように見える」

「情報を消せる能力か、記憶にフィルターをかける何かか。どっちにせよ、そんなことができるなら“能力を隠して生きる”方向性じゃないな」

ジニアはそう言いながら、静かに身を起こす。漁船のへりに手をかけ、港に向けて降り立つと、そのまま歩き出した。サンドラは背後から微細な干渉波を送る。互いの位置を補正し、視点を擬似的に共有する“共視機構”だ。

「もう一つ、気になるのは痕跡の『消え方』だ。誰かに襲われて消えたとかじゃない。町の記憶から丸ごと『欠落』してるような感覚」

「能力者の消失に気づけるのが俺たちだけなら、話が早い」

「ただし、現地にまだ痕跡があると仮定するなら、その場に行く必要がある」

「その通り」

ジニアは帽子を押さえ、煙った町並みへと足を踏み入れた。

ここは“江戸の残響”と呼ばれる地区──明治になってなお、江戸の町割りを維持している、旧市街の一角だった。細い通り、石畳の音、縦に裂けた提灯の下で、露店が灰色の声で物を売る。

火を操る能力者は、ここでは“焼却人(しょうきゃくにん)”と呼ばれ、死体処理や呪物の浄化に従事していた。毒を制する者は“廃薬師(はいくすし)”と呼ばれ、反転した医学として扱われていた。

──だが、それは十年前の話だ。

「記録では、未来予知者のひとりは“残映型”。現実を切り取って反復できるタイプ。もうひとりは“圧縮型”。推定演算を数値にして処理する。どちらも低燃費、つまり高頻度運用が可能」

「・・・・・・つまり、即戦力」

「いや──“毒”の存在が最も問題だ」

ジニアの目が細まる。毒を体内で精製し、霧や飛沫で拡散するタイプの能力者。これが事実なら、感染症と化学兵器の中間に位置する危険性を持つ。常在菌の変異、環境型ウイルス、蠱毒──それらすべての中間的存在で、かつ意図的に拡散可能であるという一点で、明確な人道的脅威だった。

「人体由来の毒性進化・・・それが成されたなら、そりゃ世界地図も書き変わる」

「それを“自衛のため”に使っていた者が、いま消えている──不自然だよね」

町の一角、路地裏で古い便所の脇に立つと、紙張りの障子に「閉鎖」の札が貼られていた。ジニアは足元を見て、小さな泥の痕に指を当てる。

「三日前に開いた形跡。足跡のサイズ──11インチ未満。体重は45〜50キロ前後。・・・子どもか」

「能力者が保護していた子供じゃない?当人が消えるなら、せめて誰かを逃すはず」

「・・・なら“残映”の欠片がまだある」

ジニアはそう呟くと、小石を拾い、それを指で弾いて壁面に当てた。乾いた音。そこに反応したのは、僅かな空気のゆらぎだった。思考の残滓──もしくは、能力の自動再生。感応の痕跡が存在するなら、ここにはまだ“残っている”。

「やはり、先に誰かが来た──か」

次にジニアが向かったのは、旧防火区画の一つだった。江戸時代の火除地に作られた“安全帯”のはずが、いまは廃材と灰で満たされていた。黒く染まった屋根瓦の下に、何かを燃やした跡──炭と灰の中間。自然発火ではなく、火力制御の末端に見える。

「ここで“能力を使った処刑”があった」

「確認済み。市内で三件。呪殺と判断されているが、法的処理は未定」

「隠す気がないということか」

ジニアはそう言って、足元の灰を手で掬い上げる。粒子の細かさと残留熱の計測から、そこにいたのが火の能力者であり、対象が既に弱っていたことも把握する。

「順番を崩して殺してる。相手が“完成前”だった──つまり、蠱毒のプロセスが途中だった」

「逃がすには早すぎた。殺すには遅すぎた」

「そして、能力者の敵がここにいる」

ジニアの視線が、町の西側──寺院の並ぶ地帯に向かう。瓦と木組みの密集するその一帯。そこには、口外を禁じられた能力者の名が並ぶとされる。

「いまから会いに行く。──“目撃者”にな」

街の西側、山際に沿って建てられた古寺群。

その一角に、ジニアの足音が響いた。ここは明治以前から呪術や異端、民間信仰の収集と管理を担ってきた“隔離区”──江戸幕府によって成立し、明治政府によって形式上は廃止されたが、実際には民間の力によって存続している。

寺ではない。名ばかりのものだ。だがその石畳と崩れかけた山門には、どこか異様な整合性があった。歪みかけた世界に、かろうじて接続している──そんな印象を与える建築だ。

サンドラの通信は正常だった。

『位置確認完了。ここからは上位視野での観測も可能になる』

ジニアは頷き、山門をくぐった。足元に転がる札、壁に打ち込まれた呪具、そして湿った空気に染み込んだ灰の匂い。

「・・・・・・何かが処理された跡だな」

主殿とおぼしき建物は半壊していた。屋根が落ち、壁の一部が抜け落ち、内部が外から覗ける。だが、中心に置かれた“それ”は未だ健在だった。

──棺。

高さおよそ180センチ、黒漆の塗られた木製。封印具が複数重ねられており、蓋の一部には呪文と見られる焼き込みがある。

だが、蓋は半ば開いていた。

ジニアは静かに近づき、膝を折る。中を覗いた瞬間、視界に白と黒が反転するような錯覚が走った。

『──ジニア、今ノイズが。何か干渉受けた?』

「・・・・・・布だ」

棺の中には、黒く染まった布が折りたたまれて残っていた。元は白だったのだろう。しかし、煤でもなく血でもなく、まるで“重金属の酸化”のような異様な鈍い黒が染み込んでいる。

「これが触れていたのは──何かを封じるためじゃない。“抜けた”痕跡だ」

ジニアは慎重に布を手に取る。その瞬間、空気の層が波打つ。

『ジニア、周囲にノイズが拡大してる。映像解析、明らかに位相ズレてる』

「・・・こいつは“存在”じゃない。人間の死、記憶、蠱毒の結果として──ここに“残った”情報体だ」

布から手を離す。空気が微かに震え、何かが彼の視界の外で一瞬だけ形を成した。

「人間を材料に、未来を視た上で“悪意だけを鍛え抜いて”作られたもの・・・。呪いの発端でも怪物でもない、“抽出結果”だ」

『それが──両面宿儺?』

「まだ断言できないが、封印が破られ、こいつが動き出したなら──今頃、街のどこかで“毒”が歩いてる」

ジニアは立ち上がる。棺の縁に手を当てた。

「つまり、この街に蠱毒が歩いてるってことだ」

「見せたいものがある」

案内人の男はそう言って、寺院の裏手にある石段を指さした。ジニアはその足元をひと睨みし、サンドラとの通信を維持したままゆっくりと降り始めた。湿った石、地中から滲む腐敗した空気。

そして、その奥に待っていたのは、牢だった。

「ここは──?」

「元々は隔離用の檻です。昔から、手に負えない能力者や異形を収容していた場所。けれど今は違う。宿儺の“余波”が、ここの囚人たちに影響を与えている。あなたなら観察できるでしょう」

石の扉が開く。錆びた格子の向こうには、朽ちた藁床と、複数の人間の影──いや、正確には“残骸”が横たわっていた。人の形をしていながら、その関節の折れ方、皮膚の爛れ、目の濁り──何かが違う。

『ジニア、視覚フィードに歪み。生体としての“応答パターン”が不自然。これは──』

「模倣されてる。人間の情報構造だけを維持した“模造品”だ」

案内人が背後で動く気配。ジニアは反射的に振り返る。だが、扉は既に閉じられていた。

「……さて、あなたにはもう少し、“役目”を果たしてもらいます」

数名の男たちが、影から現れる。どれも民間の服装、だが目の奥に異様な光を宿していた。誰も能力を発動していない。ただただ、生贄を囲む儀式のように、静かに立ち塞がる。

『ジニア、回避指示──』

「──待て」

その瞬間、空間が歪んだ。

何の予兆もなかった。ただ音もなく、そこにいた者たちの“身体の一部”が消えていた。片腕、頸部、腹──どこかが欠け、悲鳴すら上げられずに崩れ落ちる。

『処理完了。干渉源の除去を優先した。通信は問題なし』

ジニアは眉ひとつ動かさず、崩れた死体の上を越えて歩き出した。サンドラの判断は最速だった。間に挟む猶予はなかった。それだけのことだ。

「現地の判断より早かったな」

『選択肢を“生かす”より、排除の方がリスクが少なかった』

鉄格子の鍵を蹴り壊すと、その奥に繋がる通路が現れた。暗い。だが、その先に何かがある──そんな“空気の密度”を感じる。

囚人たちのうち数名は、既に動けない状態で拘束されていた。痩せ衰え、表情すらなかった。だが、その中に、一際異質な痕跡があった。誰かが、明らかに“実験”を行っていた。

「棺の……再使用か?」

奥にある空間には、かつての封印棺と同型のものが置かれていた。内部には白布──だが染み一つなく、清浄に保たれている。

『視認確認。現地で作られた模倣封印具。素材は不純、刻印のレベルも低い。成功率は皆無に近い』

「試した痕跡はある」

近くの台に置かれた文書に、二名分の記録があった。年齢、性別、健康状態、そして“投入時刻”と“消滅時刻”。

「即死か。変質も、適合もなし。死んで終わり」

『宿儺の“器”として、適合条件が未明なまま使った──もしくは、“誰でもいい”という幻想を持っていた』

「こいつは、“選ぶ”側だ。相手を、選んでる」

ジニアは棺の蓋を静かに閉じた。

その瞬間、かすかな音がした。風の音とも違う、鉄が軋むような、空気の裏で擦れるような──そんな音だった。

「始まってるな」

薄暗い寺の地下から脱出してすぐ、ジニアは唐突に“人間らしい空間”へと連れられた。

街の一角──古い屋台が並ぶ通り。赤提灯がぶら下がり、焦げた醤油の匂いが鼻をくすぐる。焼き魚、味噌の香り、煮物の湯気。どこを見ても庶民的な光景。

だがそれが逆に不気味なほどの落差だった。

「……飯、か?」

目の前に置かれたのは、大ぶりな丼に山盛りの蕎麦。天かす、ネギ、濃いめのつゆ。完全に“和”である。

ジニアは箸を手に取った。だが、手が止まる。

「この……細い二本の棒で、何をどうしろと……」

小さな指で箸を握る。だが、挟んだ蕎麦はぷるぷると震え、無情にも滑り落ちる。再度挑戦、今度は少しつかめたかと思えば、そのままそばが跳ねて隣の皿へ。

『ジニア、落ち着いて。箸は力を入れると──』

「うるさい!! なんでこんな非効率な道具で食事しなきゃならないんだッ!!」

──怒鳴った直後、彼の目に涙が浮かんでいた。

「ぐ……う、うわぁああああぁぁああああああん!!!!!」

箸を投げ出し、そばに頭をぶつけ、ジニアは号泣した。

「食べたいのに食べられないんだよぉ!!なんでぇ!? 何でこんな道具使うのぉ!!? 嫌だよおおぉぉぉお!!! そばが逃げるぅ!!!」

完全に崩壊していた。

周囲の客たちが驚き、店主が慌てて近寄る。

「ぼ、坊や……だ、大丈夫かい?」

「落ち着いて、ほら、お箸こうやって……お兄さんがやってあげようか……」

「すごくお腹すいてたのかな……」

誰もがジニアを“泣き喚く子供”として扱っていた。事実、身長も顔立ちも、そう見えなくもない。

──そして、その光景をリアルタイムで視認していた人物が一人。

サンドラ。

『……っは、ふふっ……』

彼女は通信越しに笑いを漏らした。

『かわいい……』

ジニアが器用にすすることもできず、無力にそばを前に泣き崩れているその姿を見て、彼女は小さく溜息をついた。

『仕方ないな……』

その瞬間、店先の空気が微かに揺れた。ジニアの視界に入らないほど繊細に、しかし確実に、そばの一部が箸ごと宙に浮き、まるで意思を持ったかのようにジニアの口元へと向かう。

「うぇっ!? な、何、今度は何が──むぐっ!?」

──そば、口内に強制投入。

そのまま嚙まずに呑み込んでしまい、ジニアは一瞬むせる。が、すぐにその味に反応する。

「……おいしい……」

涙が止まらないまま、震える声でぽつりと呟く。

「くそっ、なんで……こんなにおいしいのに……たべられない……くっそぉ……」

涙と鼻水と蕎麦と怒りと感謝が入り混じり、ジニアはもはやカオスの塊だった。

『もう少し練習すれば、ひとりで食べられるようになるよ』

サンドラの声は、どこまでも優しかった。

「死因は即死に近い。ただ、どれも少しずつ違う」

ジニアは実験棺に投じられた二体の遺体を改めて調べていた。表皮の焼け焦げ、粘膜のただれ、筋肉組織の部分壊死。毒か火か、それとも何か別の異常が──

「症状はバラバラだが、パターンは“綺麗すぎる”ほど整ってる。偶然じゃない」

『能力による即死処理。しかも“型”がある』

「一つ一つは致死の限界を狙ってくる。火傷は深度Ⅲ、毒は神経系への直撃。呪殺かどうかは分からんが、いずれも“躊躇がない”」

遺体の側には、破片すら残っていない衣服の一部があった。爆発や切断ではなく、構造から“解けた”ように消失していた。

『明らかに選別がある。人間のどの層をどう壊せば即死するか、それを“知ってる”』

「つまり──設計されてる。殺すために」

ジニアは立ち上がり、装備箱を開いた。中には最低限の荷物。だが、その奥から取り出したのは、いくつかの金属製の筒だった。

「拳銃はいつも通り。信頼できるものを使う。ただし──」

バッグの底から引き上げられたのは、手のひらサイズの爆発物。

「今回は、“使い捨て”でいく」

並べられた弾頭付きの筒が6本。

「衝撃信管:直撃即爆。フラグ:破片殺傷。対戦車:圧力貫通。フラッシュ:視覚奪取。スモーク:遮蔽。ガス:誘導式封鎖」

『ずいぶん物騒な持ち込みね』

「警告射撃って概念はもう捨てた。最初の一撃で仕留められなければ、死ぬのはこっちだ」

ジニアは左目をゆっくりと閉じた。

「視界は託す。反射で見たら終わりだ。俺は撃つことだけに集中する」

『受信完了。第一視野、切り替え中。感度そのままで補正入れる』

グレネードの一つ、破片タイプを握りしめる。

──動いた。

無言で、目の前にある“気配”へ向けて全力で投擲。

着弾と同時に拳銃を構える。音速で照準、発砲。

銃声の後、硬い金属が弾かれるような音。わずかな反響で、ジニアは敵の位置を把握した。

「弾いたか……」

間髪入れず、グレネードをもう一発。

「……手榴弾には反応しなかった。未来予知で事前把握していない。つまり、予知の持続時間は短い」

銃声を辿ってこない。敵の位置移動もない。

「聴覚ではなく視覚、あるいは思考の波形を追ってる。未来予知と合わせて、接近前の判定を済ませてる可能性が高い」

ジニアは腰を落とす。

「追跡型……だが、こちらの動きに対しては反応している。観察はしている。ならば──」

敵が炎を用いてこない。

「火力は準備に時間がかかるか、リソース消費が激しい。即応できない可能性あり。けれど、未来予知で補正されると動作の遅延は意味をなさない」

視界に異常はない。気体も感じられない。

「毒のガスは今のところなし。ただし、スモーク内で使われたら判断できない。先に打ち込むのが最善」

残りのグレネードを確認。

「次の手順──フラッシュとスモークを組み合わせて視界を奪う。ガスで動きを封じ、破片で追撃」

ジニアは右手にスモーク、左手にフラッシュを持ち、投擲のタイミングを計る。

「予知できないタイミングで一気に仕掛ける」

空気が静まった。

次の瞬間、ジニアは口を開いた。

「来い。蠱毒の王──“見ないまま、殺す”」

「なんで頭を狙うか、わかるか──」

ジニアは、血の混じった空気の中でつぶやいた。

「──思考が、遅れるからだ」

未来予知。反射防御。予測回避。

どれも、“脳”が中心にある。

それもそうだが自ら思考出来ていない場合致命的な欠点にもなる。

視覚からの入力、聴覚からのフィードバック、内部演算──その全てが頭蓋の中に詰まっている。

それを揺らせば、予知も反応も、ほんのわずかでも遅れる。脳震盪は単なる損傷じゃない。“判断力”そのものにノイズを入れる技術だ。

「脳震盪でぶれるのは、現実じゃない。未来の予測精度そのものだ」

敵の身体は動いている。だが、その挙動は明らかに鈍っていた。予知が正確に働いていない。

それを裏付けるように、先ほど放った一弾が肩に掠った。回避の“予知”が遅れたか、計算の“幅”がずれていたか。

ジニアは再び足を動かす。

蹴り上げ、離脱。

射撃、回避。

小さな動きで、相手の反応時間を測る。

『予知のリソースにズレが出てる。さっきの衝撃で演算負荷がかかった』

「……効いてるな」

ジニアは口の端で笑った。

「当て逃げじゃない。“ジャストアウェイ”──そこを、どけってことだ」

距離を詰める。拳銃を構える。

1発目──眉間の中心。

2発目──左のこめかみ。

3発目──顎の下から上へ。

弾丸が骨を砕き、内部の液圧を爆発させるように脳組織が跳ねた。

敵の体が大きく揺れる。反射的に手が伸びてくるが、ジニアはすでに動いていた。

「予知より速く──」

カカトが宙を裂く。

回し蹴り。

最初の頭が砕けた。骨が折れ、内部の圧が外に漏れる音。

敵の身体がさらにぐらついた。バランスが完全に崩れる。

その胴体を支えるもう一つの頭──それすらも狙い撃ちする。

──ふたつ目の頭が、潰れた。

皮膚が裂け、頭蓋が沈み、破裂した組織が霧に混じる。中枢処理は、完全に停止した。

音が止まる。霧が揺れる。死の気配が拡散する。

「──これで終わりだ」

ジニアは、息を吐いた。

靴底は削れ、銃身は熱を持ち、残弾はほぼない。

膝が震える。呼吸が浅くなる。肺に入り込む鉄と血の臭いに、喉が詰まる。

『……やったね』

通信が返ってくる。

『頭部両方、脳圧反応なし。中枢活動ゼロ。確認完了』

ジニアはゆっくりと腰を落とし、膝に手を置いた。

頭が痛い。耳鳴りもする。身体がこの戦いに耐えきっていないのが分かる。

「こっちの未来は、俺が選ぶ」

その声は、ささやきにも近かったが、霧の中に静かに染み渡っていった。

静寂が訪れた。

だが、問題はそこからだった。

ジニアはすぐに死骸へと近づこうとしたが、空気に含まれる“何か”がそれを阻んだ。高密度の毒素、もしくは呪的な残留反応──どちらにせよ、生物の接近を拒む濃度だった。

「焼くのは……無理か」

火を使えば、空気に混じった毒素を広域に拡散させることになる。それは都市一帯を死地に変える危険性すらあった。

「水で中和……いや、拡散するだけだ」

大量の水を流しても、それは“薄める”だけであり、致死性を下げる保証はない。むしろ広げてしまえば取り返しがつかない。

『銀山なら、反応が起きる。毒が金属と接触すると変質する。最低限、それで“存在を察知”できる』

「……つまり、封印に適した場所だな」

日本には、かつて毒性鉱物や水銀混じりの地脈と共に、封じられた銀の山がいくつか存在した。死骸をそこに運べば、直接的な封印は難しくとも、少なくとも“動き”が観測できる。

『空間転移は……ジニア、あなた自身で行くしかない。私が触れたら、このまま世界中に波及する』

ジニアはうなずいた。

「了解。全責任、俺が持つ」

転移先の座標を、地中の銀鉱床に合わせて算出する。

術式を自力で発動──視界が反転し、重力が軋むような感覚と共に、空間が歪む。

──転移完了。

その瞬間、ジニアの頭に、鈍い痛みが走った。

「ッ──……」

脳の奥から焼けるような痛み。音が歪み、視界が断続的に白黒に明滅する。

周囲の支援要員が苦悶の声を上げる。

『──ジニア、どうしたの?』

「……っ、こっちの調査班は……誰一人応答がない。反応も消えてる」

毒ではない。匂いも症状も異なる。だが明らかに、“脳”に来る。

頭痛が……止まらない。死骸に近づいた人間は、俺を含めて全員、脳に直接干渉を受けた。

生きている個体より、死骸のほうが危険──それが現実だった。

蠱毒の構造は死んでも崩れない。それどころか、固定化されることで“災厄そのもの”と化す。

「……動かすだけでも人が死ぬなか」

『封印を優先。運搬ではなく、“沈める”手段を取る』

ジニアはうなずいた。封印とは、管理することではない。“誰も触れられない場所に葬る”ことだ。

いま、彼らの選択肢はそれしかなかった。

宿儺の遺骸──それは「災厄の核」であり、存在するだけで人を殺す“負の中枢”だった。

銀山は、ただの鉱山ではない。

──その場所こそが、“地図に存在しない墓場”になる。

銀山での封印作業から数時間後──

ジニアは再び町の外縁部に戻っていた。

脳の芯にまだ余韻が残る。だが、任務は終わっていない。

そして彼の前に現れたのは──一人の男だった。

「お疲れ様です。あなたが…ジニアですね?」

凛とした声音。明治日本の官僚のような、だがどこか“軍事的”な緊張感を纏った所作だった。

「……あなたは?」

「鞍井友希。連邦捜査局、日本方面の協力担当です。現地調整は私が受け持っています」

彼の隣には、一人の女性が立っていた。

年齢は二十代前半に見える。和服だが、意匠には明らかにヨーロッパの影響がある。外套の縁に西洋魔術式の文様が縫い込まれ、傘のように広がる袖口が陰影の深い布地を揺らしている。

──魔女か。

その視線は、明らかにジニアを警戒していた。

「……その目、懐かしいな。俺が“敵”だった時代を知っている目だ」

魔女は言葉を返さない。ただ、その警戒が少しだけ緩んだ。

鞍井が口を開く。

「彼女はシャーロッテ。保護指定中の魔女です。あなたがアメリカの超能力関係者と分かって、少し安堵したようです」

ジニアは苦笑する。

「皮肉なもんだな。俺も昔、こういう視線で見てた側だった」

「敵意を抜かずに協力できるのは、魔女の礼儀だと彼女は言っていました」

場に一瞬、沈黙が落ちた。

その空気を破ったのは、鞍井の次の一言だった。

「──それはそれとして、今回あなたが殺した“個体”の中に、実は私が依頼していた人物がいました」

ジニアの眉がわずかに動く。

「……俺への恨み言か?」

「いえ、逆です。あなたの判断を支持します。ただ、改めてあなたに依頼したい案件がありまして──彼女の後任という形になります」

シャーロッテが再びジニアに視線を向けた。今度は、敵意の色は薄い。代わりにあるのは、“評価”だった。

「彼女の評価は厳しいですよ? 気に入られれば、ですが」

「なら、結果で応えるしかないな」

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