第15話 招待状
フォルビア侯爵家の書斎の扉を開けると、弾かれたように顔を上げるリディアの姿があった。フォーサイシアから帰って来てから久しぶりに会う少女は少し緊張した顔でヘレーネを迎えるとぎこちなく微笑んだ。
「久しぶりね。リディア」
「一週間ぶりぐらいかな?」
「それぐらいになるかしらね」
挨拶の軽い会話をしてから扉を閉め、ゆっくりと書斎を眺めた。左右を本棚に囲まれ、扉の正面の壁にはこの国の地図が描かれた大きな布がかけられている。
フォルビア家の家紋も代々の当主の肖像画も無い、ただ国を思う侯爵の人柄が出ている書斎だった。本棚に並ぶ本も国の歴史に関わる物や法に関する物、近隣諸国を詳しく記した本や伝記、手記、流通や貿易、兵法についてなど多岐にわたる。
地図の前に置かれた大きな机は綺麗に片づけられており、大切な書類もそうでない書類も引き出しの中にしまわれているのだろう。インク瓶もその傍に立てられているペンも丁寧に扱われているのが解る。
「フォルビア侯爵様は綺麗好きで、そのお人柄も潔癖でいらっしゃるから」
「そうでもないよ。起き抜けのお祖父さまは届けられた書簡に目を通しながらボロボロと朝食を食べこぼしてセヴェレーニによく叱られてるし」
首を竦めて祖父の隠しておきたいだろう部分を惜しげも無くばらすとリディアは大きな地図を見上げた。その視線を辿れば北の地にあるセクト鉱山の麓にあるラティリスへと導かれる。そして一緒に旅した思い出がヘレーネの頭に次々と蘇った。
「楽しかったね」
思わず自分がいったのかと思う程、同じ瞬間に同じことを思っていた。驚いて少女を見るともう一度「楽しかったね」と繰り返して今度は自然な笑顔を向けてくる。
身長はあの頃に比べると少しだけ伸びた。少し痩せて女性らしい線を描くようになってはいるが、まだ顔には幼さが色濃く残っている。緑の瞳が大きいから余計にそう見えるのだろう。
もうあのチリチリと涼しげな音を奏でる鈴が付いた髪飾りはしていない。魔除けの御守りを必要とするほど弱くは無いのだ。
「そうね。本当に楽しかったから、また行きたいけど」
それは叶えられない望み。
「みんなでは無理かもしれないけど、行こうと思えば何処にだって行けるよ。ヘレーネの立場が変わったとしても」
「侯爵様から全部聞いたの?」
フォーサイシアから戻ったらリディアに全て話すといっていたので、宣言通り侯爵は孫にヘレーネの生まれと過去を話したのだろう。逃げないと決めたのに、心の中でその事実に動揺している自分がいる。
「フォーサイシアでお祖母さまがアルベルティーヌ様のお話をしてくださったからその時に少し。戻って来てお祖父さまに残りを」
リディアはスカートのポケットに手を入れて直ぐに取り出すと、掌の中に乗せた物をじっと見つめた。
それは羊の小さな人形。木と羊毛で作られたそれはリディアがデュランタで購入した土産で、親しい友人である七人に贈られたお揃いの羊。頭部につけられた革ひもで鞄などに下げられるようになっている。
ヘレーネもリディアに貰って学生鞄につけていた。
「わたしなにも約束できない」
ごめんねと告げられて足元がぐらぐらと揺れた様な気がした。名門でヘレーネの後見人であるフォルビア家を得体の知れない人間に継がれては困ると、孫娘であり友人のリディアを上手く誘導して侯爵家の後継者としたのには、確実な協力者になるという目論見があったからだ。
それなのになにも約束できないとは。
「協力しないって意味じゃないよ」
「じゃあ」
どういう意味だ。
「わたしはまだなにも解らないから、ヘレーネの頼み事を上手く叶えられるか自信無い。解らないことを協力もできない。だから」
「約束はできないということ?」
真っ直ぐ見つめて頷くリディアを見たら「そんなことでは困る」とはいえなかった。侯爵があの子は真っ直ぐすぎて少々扱い辛いと孫娘を評していたなと首肯して諦める。そこが良い所で、そこが難点でもあるのだ。
彼女の性格は解っていたのに。
「それじゃあ私の頼みを今回は聞いてくれないかもしれないわね」
「わたしが嫌がるような頼みごとなの?」
「そうね。利害は一致するけれど、リディアは嫌がると思う」
眉を寄せて首を傾げるリディアに持ってきていた封筒を手渡した。
上等の紙に封蝋の紋章はグラジオラスの花。
金の箔で押された差出人の名前はこの国の王のもの。
「これ」
ローム王の名を見つけて青い顔を上げるリディアに「招待状よ」と説明する。
「今度王主催の大規模な舞踏会が開かれる。ロッテローザ王女の結婚を祝う物で隣国ショーケイナからも沢山の招待客が訪れる予定よ。それにリディアにも出席して欲しいの」
「それが頼みごと?」
慎重に尋ねるリディアの後ろにセシルの影を見た気がした。疎遠になっていた時の彼女は簡単に従わせることができたが、仲直り後の密な時間の中で色々なことを教えられ迂闊な言葉や返答はしなくなっている。
本当に厄介な人物である。
「それも、よ」
「じゃあ本当の頼みごとは?」
「セシル・レイン」
瞬きをしてヘレーネが口にした名前を呟くと、不思議そうな顔を一瞬浮かべて直ぐにその意図に勘付き怯えた瞳で首を振る。
「どうして?このままだとセシルは学園を去り、ディアモンドを出るわよ。そして二度とここへは戻らない。それでもいいの?」
リディア自身セシルがずっとディアモンドにいると思ってはいないはずだ。いずれは訪れる別れの予感に不安を抱き、悲しみと恐れで悩んでいる。
だからこれはお互いのためにもなる提案なのだ。
ヘレーネにもリディアにとっても大きく見て得はあっても損は無い。
「リディアはセシルについてどれだけ知ってる?」
「ヘレーネの方が、セシルのこと詳しいと思う。でも。いつかわたしがセシルを受け入れることができるだけの心が育ったら教えてくれるって」
子ども染みた約束を信じてヘレーネの口からセシルについて聞くことを拒む。その約束が果たされることが無いことを知っているはずだ。
大切な友人に纏わる情報を他人から聞くのは我慢ならないのだろう。
リディアの心が育ったらという曖昧な言葉は体の良い誤魔化しで、約束という形すら無い不安定な物だ。
それでも信じているのだと思えば、悲しくあまりにも憐れだ。
「その時が来る前にセシルはリディアの元からいなくなるわ」
「そんなこと」
「後期分の学費が支払われていないの。晴れて窮屈な学園から解放される。それをずっとセシルは待っていたから笑顔で去って行くわよ」
「……かもしれない。それでもわたしはセシルの嫌がることはしたくない。セシルは自由じゃないと死んじゃうから」
セシルの本質を知らないはずなのにリディアは自由を取り上げたら死んでしまうと嘆く。そしてそれに繋がる行動はしたくないと断った。
それが永遠に友人であるセシルを失うことになったとしても。
「強いわね。リディアは」
「そんなことない」
きゅっと唇を噛みしめてもう一度地図を見上げる。
その横顔には強い決意しか見えず,不安な気持ちなどどこにも見当たらない。
「きっとセシルの全てを知っても貴女は変わらず友人と呼ぶ」
ノアールもリディアと同じでセシルの過去も生まれも育ちも全て受け入れることができるだろう。だからこそセシルは二人を選んで深く絆を結んだ。
セシル自身無意識で自覚も無かったようだが。
「ヘレーネのこともわたし友達だと思ってるよ。今でも変わらず」
右手には羊を握り、左手には招待状を持ちゆっくりとこちらへ顔を向ける。
その瞳は明るく希望に満ちていた。
嘘も計算も無い、素直な気持ちが表れている。
「だから一応頼みごとの内容を聞いておく。どうして欲しいの?」
「いいの?」
「その通りにするかどうかは約束できないけどね。聞くだけなら」
聞いてしまえば迷って少なからず苦しむだろうに。
黙ってこのまま別れてしまえばいいのに、友達だから聞くのでいってみるだけいってみたらと笑ってくれる。
「セシルと一緒に出席して欲しい。ただそれだけでいいから」
本当はもっと詳しい計画を話して協力して欲しかったが、王位継承者としての立場では無くただの友人のヘレーネとしてはそれだけが精一杯の頼み事。
じっと見つめてリディアがそれだけでいいのかと問う。
だがそれ以上の頼みなどできなかった。
「それだけよ」
「解った。一緒に行くかどうかはよく考えてから決める」
「ありがとう」
弱々しい笑みしか浮かべられないヘレーネに友人の少女は屈託なく微笑む。
きっと王子として城に迎えられることになった後でもリディアは変わらない喋り方と態度で接してくれる。
そう願っている自分がいることに苦い笑みを刻む。
「お祖母さまがいってた。王ほど国の犠牲になる者はいないって」
「フィオナ様がそんなことを」
「覚えておきなさいっていわれたよ。だからヘレーネ」
──頑張らなくていいんだよ。
伝えられた言葉に胸を突かれ泣きそうになった。
今まで必死で期待に応えようと生きてきた自分を認めて労ってくれたような気がして。
「ありがとう」
約束はできないといいながら、できるだけ協力はしたいと思ってくれているのだ。
だからきっとフォルビア侯爵が断言したようにリディアはヘレーネの力になってくれる。
信じていいのだ。
セシルを連れて出席してくれるかは解らないが、そのための下準備は万全にしておく必要がある。心の中でセシルに対して「覚悟しておきなさい」と宣戦布告した。
必ず手に入れてみせると奮い立たせてヘレーネは満面の笑顔でリディアと別れ、書斎を後にした。
外で待っていたライカが素早く身を寄せて「本気なのか?」と鋭く聞いてくる。それに笑顔で是と答えた。
「危険分子を取り込めば自分の身を危うくするぞ」
「そんなにセシルは危険かしらね」
「レインという名と血が危険なんだろうがっ」
「そしてその知識と技術もね」
その特異な体質が原因で放浪するしか身を護る術の無かったレインはその結果沢山の知識と技術を身につけている。その力を手に入れることができればと請い狙う権力者たちは多い。
だが手に入れたと思っていたら逆に支配され、全てを失うことになる。
そうやって多くの金と地位を持つ人間がレインに挑み敗れてきた。
「だからこそ必要なの。レインと手を結べれば私は一目置かれるようになる。それだけの力があるのだと知らしめることができる」
「そうやってまた利用するのか」
女を利用するやり方をライカが好まないのは知っている。それでも必要ならば取り込んで従わせ、進むべき道に立ちはだかる困難を排除し速やかに目的を遂行するのだ。
女だから男だからと遠慮していては巫女が稼いでくれた一年という月日を無駄にしてしまう。
進むと決めたからには手加減しては到底到達できない道だ。
「ライカも覚悟を決めて。これからも私と共に歩んでくれるつもりなら」
横を向き舌打ちしたライカの顔には苦い物が浮かんでいるが、そこに拒絶は無く従う意志のみがある。
「さあ。これから忙しくなる。まずは侯爵とグラウィンド公爵に計画を話し協力してもらう。そして宰相閣下を懐柔する」
「それで後悔しないんだな?」
最終確認にヘレーネは朗らかに微笑んで頷く。
例え後悔しようとも、今は自分の判断を信じる。
「必ず望む結果を引き寄せてみせる」
歩き出した自分の後ろを確かにつき従ってくる気配。
初めて会った時からライカはとても頼りになる人物だった。
近くに心強い存在が居てくれるというだけでヘレーネは立っていられる。
迷わずに進んで行けるのだ。
何度もそれでいいのか?と確認し、自分の代わりに憤慨してくれる相手がいるから安心して。
不安は無い。
今は後悔など恐れずにただ前を見るのだ。
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