第9話 肝心なこと


 紅蓮のいない穴を埋めるべく新しい人材を雇うかと思っていたら、追加補充など考えていない所長によって連日扱き使われているノアールは朝方に帰ってきてばたりとベッドに倒れ込んだ。


懐かしい自分のベッドと感触と匂いに誘われて眠りへと落ちそうになる。

授業があるのに――。



「だめだ……眠い」


 腕っ節の強い紅蓮とは違い深夜の揉めごとを説得という形でしか治められないノアールには頭と体力を使う過酷な日々。

 流石にそれが三ヶ月近く続けば限界で、心の底から速く紅蓮に帰って来て欲しいと願うばかり。


「おい。ノアール朝食くすねてきたぞ」


 同室のベルナールは毎日朝食を皿に持ってきてくれるが嫌いな肉も問答無用で一緒くたに乗せられている。

 今までなら絶対に口にしなかっただろうけれどノアールは文句を言わずに食べるようにしていた。


 そうしなければ身体が持たない。


 授業を受けることも、仕事をこなすこともできないのだから好き嫌いなどいってはいられない。そのお陰か最近は病気も無く体調も良い。気が張っているからともいえなくはないが、それでも授業を休むことなく続けて出席している自分を褒めてやりたい。


「んー、ありがとう」


 両腕に力を入れてなんとか起き上がるとベルナールから皿を受け取る。

 目蓋は重く身体は軋みを上げているがフォークを使って口へと運んだ。麺を塩と唐辛子で炒めた物と、スクランブルエッグ。そしてハムとウインナー。それからライ麦のパン。


 朝から香辛料のきいた麺は辛いがそれでも胃袋へとおさめる。

 無心で貪り食べ終えた所でベルナールがミックスジュースの入ったコップを差し出してくれた。

 朝は果物のジュースではなく、野菜ジュースの方が好みだがそれも飲み干す。


「毎日大変だなー」

「……まあね」


 胃袋が満たされたお陰で目が冴えてきた。昔は満腹になると眠気が来るので脳のための食事で十分だったことを考えると随分身体も変化してきていると思う。


「顔洗ってくる」


 タオルを手に部屋を出て、洗面所で顔を洗うと更に頭がはっきりとしてくる。眼鏡をかけ直して部屋に戻ると皿とコップを片付けに行ったのかベルナールの姿は無かった。

 その間に服を脱いで新しい肌着とシャツとズボンに着替えると、授業が終わるまで風呂に入れない不快さが少しは紛れた気がした。

 流石に冷たい水で濡らしたタオルで身体を拭ったら風邪を引く。今は風邪など引いている暇は無いのだ。


「そういや。ノアールはセシル・レインと仲良かったよな?」


 戻ってきたベルナールが授業の準備をしているノアールに声をかける。それに「うん」と返事をすると少年がまたキラキラと輝く瞳で近づいてきたので身構えた。


「なに?また変なこというつもり?」

「変なことって失礼だな。お前も男なら興味あんだろ?」

「いや。別に」

「お前ほんとに男なのか?」


 疑わしげな目にまた変な誤解を持たれないように「当たり前だろ!」と噛みついた。ベルナールが「怪しいな」と横目で見ながら「じゃああの噂は違うのか?」と首を傾げたので苦笑した。


「また噂?碌な噂流れてないよね。フリザードは」

「お前の家貴族だったよな?」

「そうだけど」

「じゃあ“騙りのレイン”って知ってるだろ?」

「騙りの、レイン?」

「なんだよ、知らないのかよ!まあ、なんか都市伝説的なやつらしいから仕方ないのかもしれないけどなー」


 その響きがいい意味を持って使われていないのは解る。

 騙りとは騙すという意味だ。


「それがセシルと関係あると?」

「って噂だ。変人ってとこからレインの名字に掛けて誰かが言い始めただけかもしんないけど。ノアールなら知ってるかなって」

「……なにも聞いてない」


 彼女が自分を光の下では生きられない、執着すれば他人を不幸にするのだと、そして血が穢れているのだといった。

 セシルの乾いた心と考え方は通常では受け入れがたい物だ。

 それでも彼女は友人として失いたくない存在であることは変わらない。


 きっとその噂で流れている“騙りのレイン”というのはセシルと同じレインなのだろう。


「その“騙りのレイン”ってのは相手を虜にするのが巧いらしい。閨での睦言とその技術は類い稀な物らしくて、体験したものは他の女と寝ることなどできなくなるってさ。どんなもんなんだろうなー」

「ベルナール!また」


 一度ならず二度までも親しい友人を桃色の妄想に使われて黙ってはいられない。

 腕を振り上げて頭上に勢いよく下せば「痛えよ!」と抗議される。


「なんだよ!いいじゃないか!想像だけなら迷惑かけないだろ!」

「そんなこといって、またリディアの時みたいになったら困るから」

「なんだよ!独り占めかよ!羨ましすぎだろ!ノアールばっかり狡い!」

「狡いって意味解んないよ、ベルナール。そんなに女の子と仲良くしたかったら努力して彼女作ればいいんだ」

「努力したってできないもんはできないんだ」


 開き直ったベルナールを呆れて見つめ、ノアールは鞄を肩にかけてドアへと向かう。

 急がなければ始業の鐘が鳴る。

 ベルナールも鞄を担いで出てきた。

 廊下には人気も無く、みんなもう学園へ行ったようだ。


「ノアールは経験無いんだろ?いや、そんだけ興味ないっていいながらやることやってたらちょっと軽蔑するけど」


 無視して階段を下りていると後ろから腕を回されて首を絞められた。丁度片足を踏み出した所だったから腕が喉に食い込んで息ができなくなる。


「いいよな。初めてでも相手がレインなら優しく教えてくれるもんなー」


 苦しんでいるノアールに気付かずにベルナールは妄想と僻みに夢中だ。確かにフィリエスが学園に訪ねてきた後で塞ぎ込んでいる時に嫌なこと全部忘れさせてあげるとか、その辺の女よりは上手い自信があるとかいっていた。


 そういえばあの時も「あたしを嫌いになればいい」とかいっていた。


 全てが噂の“騙りのレイン”へと繋がって行く。


「べ……るなる」


 そろそろ限界だ。

 腕を叩くとようやく気付いてベルナールが解放する。


「悪い。妬んでいる間に気付かない殺意が芽生えたらしい」

「芽生えさせないでよ。そんなもの」

「おっと。鐘だ」


 ノアールの横を擦り抜けてベルナールはさっさと先へ行く。

 呼吸を整える暇も勿体無くて急いで階段を下りた。


 たとえどんな過去があろうともやはりノアールの知っているセシルの姿は変わらないし、築いてきた物や思い出は楽しい物ばかりで。偏見や差別に惑わされるほど弱い絆ではないと思っている。


 泣き方を知らないセシルが悲しい時や辛い時に笑うのではなく泣けるようにしてあげたい。

 その方法は思いつかないけれど、きっと今までの恩返しになるはずだ。


 贈り物として。

 涙は救済になる。


「悲しい時に笑うなんて、そんなの不健康すぎる」


 悲しい時に泣けないのだから、きっと嬉しい時に涙が出ることも彼女は知らないだろう。


 自分達よりも沢山の事を知っているのに、肝心なことを知らないのだ。


 だったら。

 教えてあげよう。


 幸せと涙を。

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