第8話 名づけられぬ感情
薬品棚の整理をしているとドライノスが準備室へと入ってくる。こんなに寒いというのに年中同じローブを身に纏っている彼女には暑いとか寒いと感じる感覚が無いのだろうか。
過酷な環境にも対応するように身体が鍛えられていると自負してはいるが、さすがのセシルも冬用の服は身につける。
「寒い!見てる方が寒いからなんとかしてくれない?」
「己が快適だと思っているのに、他人の体感温度など気にしてなんの得がある?」
不思議そうな顔で損得の話をするドライノスは、ここディアモンドで知り合った中で一番変わっていると断言していい。自分のことも他人のことも頓着しない彼女は植物学の研究と、それに付随して薬学の知識と技術で商売をすることにしか興味が無い。
講師として雇われていながら生徒を指導することに熱意が無いのは講師失格であないのか。
「もういいよ。あんたにはなにをいっても改善する努力しないんだろうし」
「賢明だな」
セシルの隣に立ち棚から目当ての物を数点取ると作業台へと向かう。その背中を見送りながら持っていった幻覚を及ぼす薬草と、強い催淫効果のある薬草たちの用途に思いを馳せてため息を吐く。
「またか……」
くつくつと喉の奥で笑ってドライノスが「今回は惚れ薬を所望されてな」と聞いても無いのになにを作るのか報告してくる。
「それを惚れ薬とはいわないと思うけど?相手の同意が無ければ犯罪だよ」
「レインのように相手をその気にさせる技術があれば世の男どもは私になど頼ってこないだろうが。残念ながら男は金に物をいわせて女を従わせるしかないようだ」
「商売繁盛良かったね!」
嫌味を込めて言った所でドライノスは愉快そうに笑うばかり。
真面目に相手をしていても疲れるだけなので、ほどほどの所で引くに限る。
ただ学園の中で調合されるべきではない物には深い懸念を抱くが。
「もし生徒の手に渡ったらどうすんのさ」
「ここにはレインしか入れまい?それともレインがこの薬を生徒に渡すとでも?」
鍵を持っているのは事務管理室とドライノス、そしてセシルだ。
講師が使っている準備室には特殊な魔法がかけられており、鍵を持っている者にしか開けられない。針金ひとつで開けられない扉は生徒も盗賊も太刀打ちはできないのだ。
「レインには必要のない物だろう?」
「そりゃそんな物使わなくても相手に夢を見させることは出来るけど。もしかしたらそれをドライノスみたいに売り物にして稼ぐようになるかもしれないよ?」
「成程。それなら大歓迎だ」
「はあ?なんで?」
「必要ならばここの道具も材料も全て使うが良い」
「だからなんで?」
どうしてだか諸手を挙げて賛成するドライノスにセシルは呆れ、そして疑問を抱く。
高価な薬草も純度の高い薬を作る為の道具も使っていいと許可されるほど信用されているとは思えない。
「そうすればここの学費を稼ぎ出すことなど簡単だろう?」
「学費?なんのこと」
顔を顰めてドライノスの真意を問うと「おや?」という顔で逆に首を傾げられた。
「学生課からなんの連絡も行ってないのか?」
「学生課?なにも——」
そこでようやく気が付く。
今が後期分の授業料を納める時期であるということに。
そして学費を納められていない時にも学生課から連絡がある。
「そっか」
本当にようやくである。
一年半。
長かった。
「やはりここを去るつもりか」
ほっとした顔のセシルに講師は感情の薄い表情でぽつりと呟いた。
「あたしは根なし草だよ。知ってるでしょ?」
「決められた生き方になんの意味がある?お前には沢山の才能が有り、そして幾つもの道があるというのに。なぜその生き方に拘る」
必死で引き止めようとしているドライノスにセシルは苦笑して、意外と情が深い一面を自分にも向けてくれていることにほんの少しだけ感謝する。
「なににも縛られず自由に生きることが信条なんだ。それが性に合ってる。それにレインがいる所には必ず不幸が訪れる。あたしはみんなに幸せになってもらいたいんだ」
家族と向き合って自分の進む道を勝ち取ったノアール、それから困難な道を選んで進もうとしているリディア。
過酷な運命に翻弄されるヘレーネと、己を殺して尽くすライカ。そして真剣に心配してくれるドライノス、そのドライノスを温かく見守るアイスバーグ。
故郷で暴れているだろう記憶が無くても能天気な紅蓮に、魔法の才能を開花させキトラスへ留学しているフィル。
叶わぬ恋に熱を上げているバーネット。
沢山の人達がセシルの周りにいる。
みんなに幸せな人生を歩んでほしいから。
「さよならも悪くないよ」
もう二度と会えなくても彼らが幸せな未来を生きていけると知っている。
だから別れは悲しいことではなく、むしろ喜ぶべきものだ。
セシルのような異質な物を抱えては波乱を呼ぶばかりで幸福は遠のいてしまう。
溶け合うことの出来ないレインという名の血は、どの場所でも浮いて叩かれ疎まれる。
それでいて人の目を惹かずにはおられないその血に人々は惑わされ狂う。
「みなはそれを赦さないぞ」
灰紫色の瞳がじっとりと睨む。
もとより赦して貰おうなどと思っていない。
「だろうね」
「私はお前が欲しい」
リディアと同様直球の言葉に面食らう。
「それが肉体的な意味ならお別れの挨拶代わりにお相手しても構わないけど」
「茶化すな。私が男ならば婚姻という形で手に入れることは可能だろうが、女である以上不可能だ。お前のような優秀で飲み込みの速い助手を手放すことになるとは無念だよ」
「本当に過剰評価し過ぎだよ、ドライノスは」
「私の私財を
本当に悔しそうな顔のドライノスにセシルは笑うしかできない。
レインの一生を手に入れるには一国の王ですら難しい。
底なしの欲望であっという間に食い潰す、まるで害虫のような人種なのだから。
「無理だよ。ドライノス」
「理解している。それにここに残れば利用される」
「心配してくれるの?あたしはただで利用されるような愚か者じゃないよ」
「リディアとセレスティアを楯に取られても?」
瞠目してセシルは黙る。
そうならないためにヘレーネの秘密を探っていたが、それもまた無駄になった。
いや全てのことに無駄など無い。
こういう歴史があったのだと、レインの中でフィライト国の事実として受け継がれていくのだから。
「お前はここで奪うことは無く、人に与えるばかりだった」
「そんなことない」
なにを与えたというのだろう。
与えられたのはセシルの方で、そしてその心地良さに我を失いそうになった。
そして同時に上手く名前を付けられない感情の心地悪さも味わった。
「リディアとセレスティアに深い影響を与えたのは間違いない。彼らは強くなり、己が夢を抱くに至っただろう?」
「影響?与えたのはあたしじゃない。リディアはルーサラに、そしてノアールは自分自身で選んだんだ」
セシルは常に掻き回して面白がっていただけだ。
「リディアが暗示を解くために薬を飲んだのはセシル、お前がいたからだ」
ドライノスが初めて読んだ名前は温かく響いて掠れた声が耳の奥を擽る。
こんな声で名前を呼ばれたらアイスバーグも夢中になるに違いない。
呼んでやってよと頼んでもきっと無表情で断るだろう。
「あのことを乗り越えたことでリディアだけでなくお前はファプシスも救ったのだ。そして遠いラティリスまで行きセレスティアの家族を和解させることまでやってのけた」
「あたしは、なにもしてない」
「ラティリスでの働きは十分価値のある物だった。私はそう評価している」
「評価なんて」
「望んではいないのだろう?」
苦笑してドライノスはセシルの肩を二度叩いた。
「私はお前が傍にいて不幸だと思ったことは一度も無い。むしろこの幸運に感謝すらしていたよ」
心の底を揺さぶる感情はなんだろうか。
喜びでも嫌悪でもない。
また名の無い感情に足元を掬われそうになっていて、セシルはドライノスの言葉を黙って聞いているしかできなかった。
「そしてお前の周りにいるみんなも同じ気持ちだと断言できる。それだけは忘れるな」
ドライノスは作業台に戻り、後は黙々と調合に没頭する。
その後ろ姿を眺めながら名づけられない感情に一番近い物を見出して震えた。
それは。
恐怖だった。
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