第6話 訪問
フォーサイシアへと向かう馬車は除雪された街道をゆっくりと走って行く。
太陽の光が温かく注いでいるので凍結の恐れは無さそうだ。
じっと窓の外を眺めていたヘレーネの目に斜面に並んだブドウの樹が見えてきた。雪に埋もれてそれがブドウの樹なのだとは一見解らないが、この地域がブドウの産地であり上質なワインが有名だと知っていれば、その豊かな丘陵地に行儀よく並んで植えられているのがブドウの樹だと推測する事は難しくない。
そして広がる草原に沢山の厩舎が立ち並ぶ長閑な景色。馬たちは寒さなど気にせずに雪を跳ね上げて楽しげに駆けて行く。
「いつ来ても良い所だと思わない?」
隣に座るライカに同意を求めるが、彼はただ黙って目を閉じている。
ヘレーネとアルベルティーヌが会うのをライカは嫌っているのだ。一年に一度訪れることになっているその日を複雑な気持ちで待っているヘレーネの気持ちを知っているから。
住人よりも馬の方の数が多いとさえいわれているフォーサイシアは貿易都市として栄えるコーチャーから比べれば随分静かだ。閑静と言えば聞こえがいいが自然が奏でる音と、人々のおっとりとした喋り声だけが流れるだけの田舎町。
ディアモンドの人の多さも、コーチャーの騒がしさも無いこの町はヘレーネの記憶の中で特別で印象深い物で刻まれている。
アルベルティーヌ第二王妃。
彼女は王の慈悲により後宮からここフォーサイシアへと移り住んだ。
それが約十八年前。
ディアモンドから遠く南東へと下りた海の中にある小国ナモレスク。
珊瑚礁に囲まれた小さな国だが海の恵みに助けられ、気候も穏やかなその島はミルトニア海の真珠と呼ばれている。白い砂浜と緑豊かな国は小国ながら独自の発展を遂げ、国民全てが満ち足りた楽園のような場所だった。
ナモレスクの王族と国民の距離は近い。
小さな国の王族は近所付き合いのような関係で民と友好的な関係を築いている。開放的な王族と国民は馴れ合いだけでなく、確かな信頼関係で結びついていた。
そんな垣根の無い環境で育った第三王女であるアルベルティーヌがフィライト国の王と婚約を結び、第二王妃として迎えられたのは残念ながら僥倖では無かった。
勿論アルベルティーヌは快く快諾し、祝福と共に故郷から送り出され期待と不安を胸にやって来たはずだ。
ナモレスクからやって来た銀色の髪に海の青より更に深い紺色の瞳をした少女は大変愛らしく、その白い肌と輝く様な美しさで真珠の姫と持て囃された。王も遠くから嫁いできたアルベルティーヌを気遣い優しく扱ったと聞く。
「住む世界が違うというのは悲劇だとしかいいようがない」
流れていくフォーサイシアの景色がヘレーネを受け入れることは無い。
同じようにアルベルティーヌもまたディアモンドの王族と貴族の世界に馴染むことなど不可能で、親しみやすさは媚びていると取られ、気安い喋り口調は品が無いと謗られた。
開放的とは程遠い保守的で利己的な世界に受け入れられることも、またそれに染まることもできないアルベルティーヌは徐々に萎縮し部屋に引きこもるようになった。
そして七年。
彼女は王との間に世継ぎとなる子を宿すことができずに離縁を迫られた。
ローム王の判断では無く、四大公爵と元老院が痺れを切らして動き、そしてアルベルティーヌはその離縁を受け入れようとした。
「また遠い道のり海を越えて帰っていくのを思えば忍びない。折角手にしたナモレスクの真珠を私は護れなかった。護れなかった私がそなたを引き止める資格などは無いのかもしれないが、このフィライト国からその輝きを奪わないで欲しいのだ。どうか私の手の届かない所へと行ってくれるな」
王は自分の至らなさを嘆き、そして失うものの大きさを憂えた。
王城に居場所の無いアルベルティーヌをローム王はディアモンドから馬で二日の場所にあるフォーサイシアへと屋敷を用意させ移り住まわせた。
こうして悲劇の第二王妃はフォーサイシアでひっそりと暮らしている。
「行くぞ。ここからは歩きだ」
馬車が停まり扉を開けてライカがさっさと下りて行く。
ヘレーネはその後に続き外套の前をかき寄せた。冷たい風が容赦なく襲い、体温を奪っていくので降り積もった雪を掻き分けながら歩き出す。
下りた場所はフォルビア侯爵の屋敷より東側の町外れ。
これより先に民家は無く、“英雄の森”を迂回しながら伸びる街道はヤング火山の麓にある湯治場として名高いアガパンサスへと続いている。
街道へは向かわずに“英雄の森”の方へと向かう。道はあるのだがその上に雪が降り、行く手を阻むように白い世界が広がっている。
ライカは背中に荷を担ぎ、両手にも荷を下げて歩いているが、ヘレーネを追い越して先へどんどん進みながら道を作ってくれた。黙々と仕事をこなす友人の背中を申し訳ない気持ちと、悔しい思いで眺める。
本来ライカは無口な方ではないし、自分の意見を曲げるような男ではない。
もっと物事はっきりいい、気の乗らないことはしない性格だ。軽口も冗談も言う軽快な人間なのに、それを全て殺してヘレーネのことを一番に考え動いている。
ヘレーネの好きだったライカが急速に消え、友人だったはずがいつの間にか従者のように振る舞っている。
それが堪らなく辛くて寂しい。
いつまでも友人でいて欲しかった。
せめて他に誰もいない時ぐらいは友人として接して欲しいのに。
それも叶わないようになっていくのか。
ヘレーネよりよっぽどライカの方が覚悟し、腹を括っている。
「なに笑ってやがる。気持ち悪い」
自嘲の笑みを浮かべたヘレーネを振り返りもせずにライカが注意する。後ろに目があるからでは無く、ヘレーネの性格と今までの付き合いの中での推察から導き出された言葉。
ライカには隠しても全て解ってしまう。
「気持ちが悪いって失礼しちゃう。不敬罪で牢に放り込んでやろうかな」
「……まだそんな力ねぇだろうが」
「あってもそんなことしないよ。ライカには感謝しかないのに」
誰よりも理解してくれる存在を手放す愚か者がどこにいるのか。自分の人生よりもヘレーネの人生に寄り添うことを選んでくれたライカの期待に応えられるように生きることしかできないのに。
「見えてきたぞ。相変わらず第二王妃が住んでいるとは思えねぇ屋敷だな」
“英雄の森”の傍に建つその屋敷は小さな母屋と温室が並んで建てられていた。庭は無く、屋敷を囲む塀に絡む蔓草が枯れて物悲しい。無人の門を開けて中へと入るが、咎める者も歓迎する者もいなかった。
「この雪では仕方が無いわよ」
ヘレーネが訪れるのはいつも雪深いこの季節。
雪が溶けて春が来ればあちこちに花が咲き、夏には青々とした草木と爽やかな空気、秋には紅葉と葡萄の収穫。冬以外は様々な色に彩られた美しい景色を臨めるのに。
フォーサイシアは雪の白さと銀色に輝く光の印象しかない。
厚い一枚板の玄関扉を叩くと中から応えがあり直ぐに開けられる。暖かな風と薪の匂いにヘレーネの心も体も暖かくなった。
「これは、これはヘレーネ様。遠い所お越しいただき有難うございます。寒うございましたでしょう?どうぞ中へ」
出迎えてくれるのはいつも同じ年老いた侍女。名をパメラという。彼女はやんわりと微笑むと中へと誘い、ヘレーネを居間の暖炉へと急がせた。そしてライカが背負っている荷を下ろすのを手伝う。
「アルベルティーヌ様はいつもの場所ですか?」
「左様で御座います。奥さまはほとんどの時間を温室で過ごされますので」
「先にご挨拶をしてきます」
外套を脱いで暖炉傍のフックに掛けるとポタポタと水滴が床に落ち絨毯に染みをつける。冷え切った身体が温まるのも待たずにヘレーネは温室へと向かった。
一階に居間と台所、水回りがあり二階にアルベルティーヌの私室と寝室、そしてパメラの部屋があるのみで屋敷というよりも家といった方が正しい。
しかし設えられている調度品は歴史的な値段も価値も高く、市民が手に入れることはできない物で囲まれている。女二人で生活するには少し物騒だが、静かな暮らしを望むアルベルティーヌの希望で護衛は置かれていない。
「アルベルティーヌ様。ヘレーネです。御挨拶に」
水回りのある部屋の前を通り過ぎた所にある温室への入り口を潜って中へと入ると、冬の太陽の熱だけでは不可能な温かさがそこにはあった。
ヤング火山の熱を利用して温めているのだと昔説明を受けたが、どうやって離れた場所にあるヤング火山の熱をここまで引いているのかヘレーネには理解できていない。しかも魔法は使っていないというのだから驚きである。
「アルベルティーヌ様」
第二王妃は質素なドレスに身を包んでいても、その美しさが損なわれることは無かった。
蕾をつけた薔薇の枝を愛しそうに撫でながら、次の瞬間には鋏でその枝を切落とす。紺碧の瞳がヘレーネを捉えて、嬉しそうに細められるのを見ながら胸を焦がす激しい思いに翻弄されそうになる。
「お久しぶりで御座います。アルベルティーヌ様におかれましてはご機嫌うるわ」
「ヘレーネ。堅苦しい挨拶はやめにしませんか?」
今年四十を迎えるアルベルティーヌは未だ少女のような顔立ちで跪くヘレーネの前に立ちそっと手を伸べた。温室の植物の手入れを生き甲斐にしている彼女の手は傷だらけで、
「私は美辞麗句を扱えない田舎育ちの女ですから。そんな風に挨拶されるのは嫌いだと何度いったら解ってくれるのかしらね」
「申し訳ございません」
やれやれとため息を吐く王妃を苦笑いで見上げて、ヘレーネはその手を取りそっと口づけた。土の匂いがする。
「今年もナモレスクからの商品を沢山お持ちしました。お気に召していただけるといいのですが」
「大丈夫よ。アルガス殿の用意する商品に外れがあった
アルベルティーヌはエプロンを脱いで勢いよく振り下ろし、ついている葉や枝を払い落として腕に掛けると切り落とした枝や葉を入れたバケツを持って奥へと進んで行く。数種類の薔薇の木の間を抜けると、オリーブの木とその傍に小さなテーブルと椅子が置かれていた。
休憩用のテーブルに用意されていたのは氷で冷やされた硝子の容器に入ったローズティ。
温室の温かさは春の陽気よりも、夏の始まりを予感させる暑さに近い。そのため少し動くと汗ばむほどだった。
「植物の世話をするのは楽しいけれど、やはりパメラとしか喋ることができないのはとても退屈なのです。だからこうして季節ごとに若い子が訪ねて来てくれるのをとても楽しみにしているのよ」
グラスにローズティを注いで笑顔でヘレーネの前に置く。
アルベルティーヌの元には春夏秋冬の各季節にフォルビア侯爵が選んだ商人の子が贈り物を手に訪ねて来る。年齢はヘレーネと同じ十七歳だが性別はばらばらだ。
春には軍港の街アリッサムの商人カクタスの息子でギリアム。夏には魔法都市トラカンの魔法道具を扱う商家のパド・トオドという少年。秋にはディアモンドの高級洋裁店を経営しているバンクス家のエルティアナ。
どの子も銀髪に青い目をしている。
アルベルティーヌが子どもを産んだという噂が流れている以上、彼女に近づく年頃の子どもを誰もが勘ぐって見る。王子だといわれてはいても、似ていれば少女であろうが、もしかしてと思うだろう。
ヘレーネがアルベルティーヌの産んだ子であるとばれては困る。
だがせめて一年に一度くらいは成長を見せてやりたいというフォルビア侯爵が、素性を探られ知られる危険性を孕んでも合わせてやりたいと考えた苦肉の策。
「冬に訪れることになるヘレーネには大変な苦行であるのかもしれないけれど」
綺麗に纏め上げられた長い髪に手をやり、真珠でできたピンをひとつ引き抜いた。アルベルティーヌはそれを目の高さまで持って行きにこりと微笑んだ。
「ミルトニアでとれるこの真珠の髪飾りは貴方が初めてここを訪れた時に贈り物として持ってきてくれた物。私のお気に入り」
白銀の真珠よりも少しピンクがかった真珠は粒が大きく、またアルベルティーヌの銀の髪に馴染んで上品に輝く。美しくあるより、可愛らしく存在するピンクの真珠はまるでアルベルティーヌのようだ。
「もうこれが最後の訪れになるのだと思うと寂しいわ」
「アルベルティーヌ様。御存じで」
「いくらここが静かな田舎であろうとも、王都から二日ほどの距離。噂話は風に乗ってこの家にも届けられるのよ」
ふわりと微笑んだ悲劇の王妃はヘレーネを真っ直ぐに見つめて「いいのよ。無理しなくても」と囁く。
「あそこはね、恐ろしい所。私たちのように普通の暮らしを望む者にはとても生きていけない世界。どこにでもついて回る視線と陰口、そして笑顔で毒を注ぎ込む。自分の部屋にいるのに心が休まることは無く、傍に味方のいない者には救いが無く、まるで永遠に続く責苦のよう。ここへ来て私ほっとして、ようやく自分で呼吸ができるようになったのよ」
それなのに。
「貴方をあんな所に行かせることになるなんて」
大きく揺れた瞳から溢れた大粒の涙がポロリと頬を伝う。そのゆっくりとした動きをヘレーネはどこか冷めた思いで見つめていた。
「カールレッド王子が健やかに成長されることを信じ、それだけを願っていたのに……」
はらはらと泣き崩れる第二王妃は王妃の王子の病を嘆く。
王妃が初めての子どもであるロッテローザを身籠ったのは王と一緒になってから二十年も経っていた。七年子を宿さなかったアルベルティーヌが離縁されそうになったのに、二十年も子を成さなかった王妃が大事にされていたのは王妃が前王の妹君の娘で、ローム王とは従妹の関係にあたるからだ。それ故尊重され、王妃の懐妊を心待ちにされていたのだ。
「もって三ヶ月、巫女の力を借りて一年程だそうです」
「不憫なカールレッド王子。可哀相なヘレーネ」
真珠の髪飾りを握り締めてアルベルティーヌは首を振る。
せめて貴方が王子では無く、姫ならば——今更悔いても仕方が無いことを呟き、また涙を流す。
「私はフォルビア侯爵の力を借り一年で王位継承者として立つことになります。もうここを訪れることはできなくなりますが、アルベルティーヌ様を忘れることなど決してありません。このフォーサイシアは第二の故郷でもありますから」
「ヘレーネ!嫌なら嫌だといってちょうだい!国を貴方が背負う必要など無いのです。責任を感じる必要も無い。だから、嫌ならば」
「私にフィライト国を捨てて、別の国へ行って暮らせと?」
「ナモレスクは住みよい国です。あそこなら受け入れてくれます。アルガス殿に頼めばそれも可能なはず」
涙に濡れた瞳に強い懇願の色を滲ませて必死でアルベルティーヌはヘレーネの弱い決意を砕こうと縋る。
本当に捨てて別の場所で新しい人生が送れればどんなにいいか。
「今ここを逃げたら、私は自分を赦すことができなくなります。数少ない友人や家族を手放して、たった独りで生きるなどできません」
「貴方が拒めば王位継承権が他の者に行くだけの話。貴方が嫌がった所でこの国が亡ぶことは無いのよ?」
ローム王に子は二人。
そして隠された王子がひとり。
だが王位継承権は王の弟であるトラカンの領主チェンバレン=プリムローズとその子どもたちにも権利はある。
ヘレーネがいなければ間違いなくカールレッドの次の継承者としてチェンバレンの息子を迎えることになるだろう。
だがそれを王もそしてフォルビア侯爵も躊躇し、またグラウィンド公爵も賛成しない。
理由は王弟であるチェンバレンが好戦的な性格で、領土を広げることを主張しているからだ。プリムローズ公爵の息子も気性が荒く暴力的で、もし王座に就くことがあれば領土拡大を掲げ戦を始めることになるだろうと懸念している。
今の良好な隣国関係を崩すことを望まない王と侯爵、そしてグラウィンド公爵がヘレーネを庇護するのにはそういった思惑もあった。
「確実に戦になります。それでも?」
「貴方が王の子であると名乗り出ればプリムローズ公爵は黙ってはいないでしょう。本当に王の子であるか徹底的に調べられる。そして貴方の過去を探ってはあら探しをし、弱い部分をついてくるでしょう。それでも貴方は立っていられる?」
「私だけでは無理でしょう。ですが私を信じて支えて下さる方がいてくれる。これから多くの諸侯に協力を得られるように働きかけなければならないけれど、私はひとりではないのです」
ひとりならば逃げていた。
逃げられていた。
でも熱心に協力してくれるフォルビア侯爵や、傍で護り支えてくれるライカ、そしてセラフィス家の父と母の思いが、希望がヘレーネの背中を押して励ましているから。
「どうして茨の道を選んで歩めるの。私にはそんな勇気も力もなかったのに」
「私にもありません。ですが私は男ですので」
歩めなくとも歩まねばならない。
「さあ。今回の贈り物は父の自信作です。見てやってくださいませ」
アルベルティーヌの手を引いて温室の出入り口へと向かう。
その姿は仲睦ましい母と娘のように他の者には見えただろうか。
そうならいいと思いながら温かな温室からひんやりとした廊下へと踏み出した。
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