第二十二章 もし世界が終わるとしたら

マコと並んで、村の外れを歩いた。


そこには、ただ自然しかなかった。

光と、緑の調和。

生き物の気配はあっても、人の営みを感じさせる音はほとんどない。


足元には踏み固められた土の小道が伸びていて、

木漏れ日がマコの小さな背中を柔らかく照らしていた。

髪がきらきらと光を返すたびに、何かが胸の奥でふるえていた。


(……知識としては、わかっている)


この視覚効果がセロトニンを刺激し、

先日までの異常事態によって過剰に分泌されたアドレナリンやドーパミンの疲弊を

緩やかに癒してくれている。


どこまでいってもこれは生理現象の連鎖で、

理屈に置き換えれば簡単なことだ。


けれど──


それでも、今この瞬間に感じている“これ”は、

知識なんかじゃ説明のつかない感覚だった。


まるで、身体の奥から熱が滲むような。

胸の奥に、ひどく懐かしい何かが戻ってくるような。


マコが振り向いて、無邪気に笑った。


「こっちだよ!」


その声に、カナメは少しだけ息を詰めた。


もし世界が終わるとしたら。

この光景を、もう一度思い出せるだろうか。


そのとき、自分は人間として死ねるだろうか。


そんなことを考えながら、カナメはまた一歩、土の道を踏みしめた。


たどり着いたのは、川だった。


ここももちろん、人工的に整備された自然だ。

けれど、HOPEが設計しただけあって、その精度は信じがたいほど高い。

清流は底まで透き通り、揺れる水草が光を反射していた。


マコは何のためらいもなく靴を脱ぎ、裸足で水に入った。

小さな足が冷たい川面を蹴り、透明な飛沫があがる。


「あっ! 魚!」


はしゃぐ声が、川辺にこだました。

その無邪気な笑顔を見ていると、この世界が終わるなんて、どこか遠い作り話のように思えた。


(……きれいだな)


ただ、それだけのことに胸が詰まった。

気づけば、頬を涙が伝っていた。


(セナ……)


この景色を──君にも見せたかった。


もし一緒にここに立っていたら。

もし、この光と水の音を感じられていたら。

きっと……死にたいなんて、思わなかった。


マコが水から上がり、濡れた足を気にしながら近づいてくる。


「……だいじょうぶ?」


問いかけに、言葉を探した。

でも声は出なかった。


(……ごめん)


カナメはただ、小さく首を振った。


しばらくのあいだ、何も言えずに泣いていた。


マコは隣に座り、濡れた足をぶらぶらさせながら、何も言わず一緒にいてくれた。




しばらくそうしていると、カナメの胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ静まっていくのを感じた。


ふう、と小さく息をついてから、そっと問いかける。


「……マコは、将来……何かしたいこととか、あるの?」


マコは目を丸くしてから、川面を見つめ、うーんとうなった。


「……お肉屋さん、かな!」


振り返った顔は、太陽みたいに明るかった。


「ぷっ……あははは」


「もー! なんで笑うのぉ!」


ぺしっ、と小さな手がカナメの肩を叩く。

痛くもない、その感触が妙に愛おしかった。


「ごめん、ごめん。……あまりに、いい夢だったからさ」


それは本心だった。


人のために食料を用意し、分け与え、対価をもらう。

奪わない。独り占めしない。

その営みは、人間の社会性の最も美しい形だ。


しかもマコがそれを言うとき、そこには計算も見返りもなかった。

ただ、誰かの役に立ちたい気持ちだけが透けて見えた。


(……すごいな)


この子は、世界がこんなふうになっても、

こんな当たり前の“ささやかな幸せ”を信じている。


それだけで、十分だった。


胸の奥が、少しあたたかくなる。


「……いい夢だな」


ぽつりと呟いた言葉が、川の音に溶けて消えていった。


しかし──この世界は終わる。

それはもう、避けられない。

時間も、そう長く残されてはいない気がした。


この晴れた空も、もしかしたら……最後のご褒美かもしれない。


「……マコ」


「ん?」


「もし……この世界が、もう終わるとしたら……何がしたい?」


マコの顔が、少しだけ曇った。

さっきまで川ではしゃいでいた笑顔が、遠ざかっていく。


「あ……いや。……もしもの話だよ」


カナメは慌てて言葉を継いだ。

けれど、マコの瞳は真剣なままだった。


「……私は……」


一拍置いて、マコは唇を噛んだ。


「……パパのお墓に、行きたい」


「……」


その言葉は、思ったより深く刺さった。


HOPEが誕生して以来──

人は“死なない世界”を手に入れた。

病も、事故も。

ほとんどの死は制御されるようになった。

だからこそ……マコの父が死んだというのは、たった一つの事実を示していた。


自ら、死を選んだのだ。


「……パパはね。私が五歳のとき……自己終末願いを出したんだって」


マコの声が、少しだけ震えていた。

でも目はそらさなかった。


「ママも……本当は、止めたかったんだと思う。

だけど……そこまで強くは言わなかった。お墓の場所も教えてくれない。」


川の音が、妙に遠く感じられた。


「……そっか」


それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。


この世界がどれだけ進歩しても。

人が望むのは、幸福だけじゃない。

救えない痛みが、きっとどこにでも残っている。


それを知っているのに、

この子はまだ、こんなふうに笑えるのか。


胸がひりついた。


「マコ…」


二人の背後から声がして驚いた。


ユウナが会話を聞いていたようだ。


「マ、ママ…あのね…私…」


「お墓に行きたいの?」


カナメは口を挟めない。


マコは、地面を見ながら言った。


「うん…」




ユウナは軽く目を伏せると、しっかりとマコを見据えていった。


「いいわ。行きましょう。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る