第二十章 母娘

森を抜け、草の背丈が徐々に低くなっていく。


ようやく視界が開けたその先に──村があった。


「……あれが、自然共生特区……?」


カナメは足を止め、思わず息を呑んだ。


HOPEによる補助がない状態での歩行、それも重いバッテリーを背負っての移動は、身体にこたえた。


汗が首筋を伝い、呼吸も荒い。それでも彼の胸の奥には、不思議な“満足感”が芽生えていた。


苦しい。


だけど──気持ちいい。


久しぶりだった。こんなふうに、体を酷使していることが“生きている実感”に繋がるのは。


村は思ったよりも整備されていた。

ボロボロのテントや泥の家を想像していたが、そこには素朴で温かな木造の住居が並んでいた。


舗装はされていないが、土の道はきれいに掃き清められており、菜園には野菜が整然と植えられている。


空を見上げれば、電線が網のように張り巡らされていた。都市部で見るような高圧ケーブルではない。手作りの電柱に、錆びたボルトで無理やり留められたような、ちぐはぐな設備だったが──それでも、確かに“人の手”で作られたインフラだった。


「……なんだ、ここ。普通に……ちゃんとした田舎じゃないか……」


カナメがそう呟いたその時、どこかから人の気配が近づいてきた。


「おい、マコか!? 無事だったか!都市部に行ったって本当か!」


中年の男が駆け寄ってきた。ひげ面に深いしわが刻まれているが、目は優しい。


「うん、ごめんなさい……でも、ちゃんと見つけてきたよ!」


マコが振り向いて、大きなバッテリーを背負ったカナメを指差す。


「ほら! おっきなバッテリー! これで井戸のポンプ、また動かせるよ!」


「かぁ~!……お前なあ、何もあんな地獄みたいな場所に行かなくたって……」


男は苦笑しながら、マコの頭をくしゃくしゃと撫でた。そしてその隣に立つ、ぼろぼろの青年に気がつく。


「……そちらは?」


マコが振り返り、少し誇らしげに言った。


「この人が、助けてくれたの。私ひとりじゃ、きっとバッテリーなんて運べなかった」


カナメは軽く頭を下げた。


「ただの通りすがりです。……たまたま、声を掛けられただけで」


「そうか……それでも、礼を言うよ。ありがとう。マコはうちの希望なんだ」


“希望”──その言葉に、カナメの胸がわずかに痛んだ。


もう何度も裏切られた言葉。


信じたものに踏みにじられてきた理想。それでも。


この村には、まだ希望を信じる声があった。


男にバッテリーを手渡すと、背中から一気に重みが消え、カナメの足取りがふらついた。

そのまま地面にへたり込むと、疲労と安堵が一気に押し寄せる。


「おいおい、大丈夫か? ……マコ、あんちゃん、けっこうやられてるじゃねえか」


男は少し戸惑ったように眉をひそめながら、カナメの腫れた頬に目をやった。


カナメは、しばし口を閉ざし、炎の揺らぎを見つめる。


「……軍に対するデモ隊の暴走に巻き込まれたらしくて…」


それだけ言って、また黙った。


「……そうか。ひでぇな、まったく」

男は火ばさみで薪を動かしながら、静かに呟いた。

その声音に、責める気配はなかった。


男は溜息をつくと、カナメに視線を戻し、どこか申し訳なさそうに言った。


「ちょっと待ってな。うちに、あんちゃんと体格が近いやつがいてな。新品じゃねぇけど──まだ着れる服がある」


そう言って数分後、男は上下の作業着と、分厚い登山用の靴を手に戻ってきた。


「これ、着替えな。サイズ、たぶんぴったりだ」


「……え、いや……いいんですか? 本当に」


「いいのいいの。お前さん見りゃ、どんだけひどい目にあったかわかる。ほら、遠慮すんな」


カナメはしばし黙ったまま、手渡された服と靴を見つめていた。


ただの布と革。だけど、それがこんなにも温かく感じるのは──

久しく“人の優しさ”に触れていなかったからだ。


「……ありがとうございます。助かります」


服を着替え、靴を履くと、体が少しずつ“人間”らしさを取り戻していく気がした。


「HOPEが止まって──みんな、おかしくなっちまった」

男は、焚き火の薪をくべながら、ぽつりと呟いた。


「俺たちでさえ戸惑ってるよ。電気は足りねぇ、獲物も逃げちまう。動物が全然、罠にかかってくれなくてな。」


カナメは火に手をかざしながら、黙ってその言葉に耳を傾けた。


「だけどな……心だけは、俺たち、捨ててねぇつもりだ。

ちょっと希望が通らねぇからって、誰かを殴ったり、襲ったりなんかしねぇ。

俺たちにとって希望ってのは、“叶えてもらうもん”じゃねぇ。

“信じ続けるもん”だ」


焚き火の炎が、ゆらりと夜空に揺れる。

その言葉は、カナメの胸の奥で、じわりと何かを溶かしていった。

何年ぶりだろう。誰かの言葉に、心が揺れたのは。


「──あ、ママー!」

マコがぱっと立ち上がり、駆け出していく。

その先には、焚き火の明かりに照らされた女性の姿。

マコを抱きしめ、何かを耳打ちされると──その女性はカナメの方に深くお辞儀をした。


カナメは、座ったまま、軽く頭を下げて応えた。


「……どうなっちまうんだろうなぁ、この世界は」

男がつぶやく。

火の爆ぜる音だけが、返事のように聞こえた。


「ここも、いつまでも安全ってわけじゃねぇ。あんたみたいに、ここにたどり着く人間が増えてきてる。……今のところトラブルはねぇが、みんな不安なんだよ」


しばらく黙ってから、カナメは静かに言った。

「……僕は、長居する気はないけど」


男は、少し声を張って訂正する。

「いやいや。そういうつもりで言ったんじゃねぇ。まずは、身体をいたわりな」

その口調に気遣いがにじんでいた。


本音だった。

でもカナメは、もう訂正するのも、言葉を探すのも──少しだけ、億劫だった。


「……まぁ。せめて、子供たちだけでも……安全に過ごしてもらいてぇな」


焚き火の火が、ふっと揺れる。

あたたかくも、どこか儚い。


無駄なんだよ。

どれだけ誠実に生きても。

欲望に従っても。

結末は同じだ。


──すべて、那由他に飲まれて消える。


《どうせなら、楽しんでから死ね》


それが神の意志だと、人類は知る由もない。

けれど──人類は、放っておいても結局そうなった。

奪い、殺し、犯し、快楽を貪る。

少しでも、“自分”という生命体を喜ばせるために。


理性なんて飾りだった。

誰もが、自分のためだけに動いている。

弱い個体は搾取され、踏みつけられ、絶望の中で消えていく。


……だったら、もう。

我慢なんて、する必要はないんじゃないか。


ゆっくりと、カナメは顔を上げた。

夜空に焚火の煙が上がっていく。

この宇宙が白く包まれるその日まで──


(怪我が治ったら、軍に戻ってみよう……)


まだ、生きていてくれたなら。

エリが安全でいてくれるなら。

きっと、あの人は……また、自分を受け入れてくれる。


そして那由他が、すべてを包むその時まで。

──ふたりで、どこか遠くへ逃げよう。


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