第十九章 ガムテープの靴
カナメは──
服をはぎ取られ、ごみのように打ち捨てられていた。
土と血に塗れた身体。
口の中には砂と鉄の味。
全身が悲鳴をあげているのに、涙も出なかった。
地獄のような時間。
何度も土下座をさせられ、靴の裏で頭を踏みつけられた。
笑い声が聞こえる。
動画を撮る音も、デバイスのライトも。
すべての行為が──意味などなかった。
だが、彼らにとってはこの上ない快楽だったのだ。
執拗で、狂気に満ちていて、恐ろしかった。
人ではなく、“群れ”だった。
理性を失った何か。
それが今の人間だった。
冷えた夜風が、皮膚を刺す。
カナメは、近くに転がっていた死体に手を伸ばす。
「……ごめんな」
そう呟きながら、その服を剥ぎ取った。
血の乾いた臭いと、まだ温もりの残る布地。
それを身にまとい、フラつきながら歩き出す。
当てもない。
行く宛てもない。
だが脳裏に浮かぶのは──軍のことだった。
あの無秩序な暴徒が、あの狂気が、軍の施設になだれ込んだら……?
(……エリは……どうなる?)
想像すら、したくなかった。
エリが、あの獣たちの手にかかる姿など──耐えられるわけがない。
しかし。
いまのカナメには、それを止める力も、
怒る気力も、誰かを信じる勇気すら、もう残っていなかった。
ただ、寒さと痛みに震えながら、
踏みにじられた人の心と、砕けた希望の残骸を、
ぼろぼろの足で踏みしめて──彼は、歩き続けていた。
そのときだった。
「……大丈夫?」
小さく、でも不思議と届く声だった。
カナメはビクリと肩を震わせ、警戒心をむき出しにして振り向いた。
そこには──十歳ほどだろうか、
小柄な少女が、ぽつんと立っていた。
「……なんだ。僕に話しかけたのか?」
「うん。お兄さん、靴履いてないでしょ?
ここ、ガラスもいっぱい落ちてるし……危ないよ」
その無垢な声に、カナメは戸惑った。
だが同時に、心のどこかが強張る。
(罠かもしれない。声をかけて、油断させるためか?
……まさか、こんな子供を囮に?)
今の世界では、どんな裏切りも想像できた。
希望を失った人間は、誰よりも残酷になれる。
カナメの心には、もう“信じる”という言葉など残っていなかった。
「……これ」
少女はリュックをごそごそと探り、ガムテープを差し出した。
言葉ではなく、行動だった。
それが、カナメの胸の奥で何かを微かに揺らした。
無言で頷き、カナメは近くに転がっていた死体から服を裂き取った。
両足に丁寧に布を巻きつけ、ガムテープで外側から固めていく。
少女は、それをじっと見つめていた。
余計な言葉も、表情もなく──ただ、黙って。
カナメは即席の靴を作り終えると、そっと地面を踏みしめ、
軽く跳ねてみる。
「……悪くないな」
小さくつぶやいたあと、少女の方を一度だけ見やり──
「……ありがとう」
それだけを告げて、踵を返す。
立ち去ろうとした、その瞬間──
「あっ……あのっ!!」
急に上ずった声が、背中に刺さる。
(やっぱりな……)
一瞬にして、脳裏に警戒がよぎる。
(タダで済むはずがない。頼みごとか? 罠か? まさか……)
カナメは振り返りながら、目だけで周囲を探った。
逃げ道、死角、暴徒の影──すべてを一瞬で探りながら。
少女は──頭を深く下げていた。
その小さな背に、不釣り合いなほどの“重さ”がある。
「……私、自然共生特区に住んでるんです」
そう名乗った少女の言葉に、カナメはわずかに眉をひそめた。
自然共生特区
HOPEによる生活支援を一切受けないと決めた者たちの集落。
つまり、自給自足の暮らしを選んだ者たちが集っている。
希望が“叶えられてしまう”この時代にあって、
彼らはあえて不便を選び、“かつての地球”を取り戻そうとした。
その理想が拓いた土地は、
AI文明から切り離された──最後の孤島のような場所だった。
資源は乏しく、生活は過酷。それでも彼らは“人間らしく生きる”ことに意味を見出していた。
HOPEが停止し、絶望が世界を覆い尽くした今、そこはある意味──“最も安全な場所”とも言えた。
「そこに……これを運びたくて……。
手伝ってもらえませんか……?」
カナメの目が、少女の背後に引き寄せられる。
──大きなバッテリー。
軍用のものか? いずれにせよ、少女一人で運べる代物ではない。
しかも今、この無秩序の中を?
死体が転がり、火炎瓶が飛び交う都市を──この子が、一人で?
カナメの胸の奥で、なにかが軋む音がした。
優しさでも同情でもない。
ただ、“あまりにも非合理”だという、現実への違和感。
自然共生特区の人々はなにも文明のすべてを否定しているわけではない。
照明や井戸水のポンプなど、最低限の電力が必要だった。
彼女は本気で……それを成し遂げようとしているのか?
カナメは、完全に信じたわけではなかった。
けれど、少女がくれた“ガムテープの靴”が、想像以上にまともな仕上がりだったこと。
それだけで、疲れ切った心には十分すぎる“判断材料”だった。
「わかった。運ぶのを手伝う」
カナメは、ゆっくりと少女の顔を見た。
まだあどけなさの残るその表情に、打算も下心も見つからなかった。
あるのは、ただ真っ直ぐな必死さだけ。
「ほんと!? ありがとう…!」
少女はほっとしたように小さく笑った。
その笑顔を見たとき、カナメの心に、かすかな“熱”が灯るのを感じた。
希望ではない。
信頼でも、優しさでもない。
──せめて、この子ひとりくらいなら。
バッテリーは大人でもきつい重さだったが、カナメは黙ってそれを背負った。
ガムテープの靴底からじわじわと痛む足の感覚がある。だが、それさえも現実に戻る感触として、どこか心地よかった。
「どこまで行くんだ?」
「自然共生特区の北端です。山のふもとに、村があるの」
「この騒乱の中を、ひとりで来たのか」
「うん…だって、誰かがやらなきゃ…」
そう言って、少女は前を向いて歩き出した。
誰かがやらなきゃ──
その一言が、カナメの心を刺す。
今の自分は、何者だ?
共鳴者でも。救世主でもない。
絶望に呑まれて、ただ沈みかけている人間だ。
それでも、今、誰かを支えて歩いている。
それだけで、ほんのわずか──
世界が“マシ”になるような気がした。
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