第十八章 悪意のない悪魔
トボトボと、当てもなく歩く。
カナメにとって、もはや進む方向すら意味を成していなかった。
何を見ても、何を聞いても、すべてがどうでもよかった。
軍にも、帰りたくない。
帰れば、きっとまた頼られる。
「君しかいない」と、また背負わされる。
だが、今の自分はもう、誰かの期待に応える柱になどなれそうになかった。
それに──
今エリに会えば、縋ってしまう。
縋ったその先に、自分の心がどうなるか……想像するのも怖かった。
もう、自分が何を求めているのかさえ、わからない。
感情が千切れ、混ざり、溶けてしまった。
ただひとつ、確かなのは「空虚」だけだった。
そんなときだった。
視界の端で、何かが揺れた。
前を見ると──
一人の子供が、泣きながら、通りの真ん中をさまよっていた。
カナメはハッとし、駆け寄ろうとした。
……しかし、遅かった。
叫び声。
地響き。
怒号の洪水。
デモの集団が、角を曲がったその瞬間、津波のように押し寄せた。
誰も止まらない。
誰も気づかない。
小さな身体が、波の中に呑まれる。
押され、蹴られ、踏みつけられ、潰される。
「やめろ……!おい!やめろ!!」
カナメの声など、誰にも届かない。
群れは通り過ぎていった。
やがて、瓦礫のように転がる、小さな身体。
カナメは駆け寄り、少女を抱きかかえる。
「……おい、おい!! しっかりしろ!!」
少女の唇が微かに動いた。
「……マ……ママ……」
掠れた声。
それきり、動かない。
「ああ……大丈夫だよ。僕が見つけてやる。ママを……ママを……だから……」
だが、少女の瞳はもう、どこも見ていなかった。
「……だから、死なないでくれよ……」
遠くからやる気だけは立派なデモ隊の雄たけびが耳に届く。
憎しみが込み上げてくる。
何に?
サルどもか?
神か?
それとも──自分か?
救えなかった。
たった一人の、小さな命すら。
知識があっても、技術があっても、願いがあっても、何も届かなかった。
カナメは立ち上がる。
ふらつく足で、さきほど少女を押し潰した群れの向こうへ歩き出す。
拳を握っていた。どこへ向かうのか、答えはなかった。
だが──何かを、終わらせたかった。
数ブロック先。
見えてきたのは、無数の群衆。
怒号。火の粉。黒煙。
軍の正門だった。
……このデモは、軍への抗議だ。
HOPEが止まり、世界が崩れた責任を、
人々は「自分たちを守れなかった軍」に押しつけていた。
(……ふざけるな)
カナメの喉奥で、何かが燃えた。
感情なのか、本能なのか。
いや──
これは、“絶望の発火点”だ。
何かが壊れた。
カナメの中で、限界を超えた何かが爆ぜた。
「いい加減にしろッ!!」
振り絞った怒声。
けれど、その叫びはサイレンと怒号と罵声の奔流にあっけなく呑まれた。
──それでも。
目の前の数人が、ピクリと振り向いた。
いやな空気が、一気に濃くなる。
「……ああ?」
「なんだてめぇ……偉そうに」
男の一人が睨みつける。
すぐに別の男が指さして叫んだ。
「おい……こいつ、軍のIDぶら下げてやがるぞ!!」
瞬間。
数人の表情が、明らかに変わった。
怒り。
憎悪。
そして、今こそ晴らせる“鬱積”。
「軍の犬じゃねぇか!!」
「テメェらのせいで、俺たちは!!」
理屈など、もう意味を成さなかった。
ただ、ぶつけたかったのだ。
この世界の崩壊に対する、説明のつかない怒りを。
「“てめぇだけ”は許さねぇ!!」
次の瞬間──
誰かの拳が、カナメの顔面を打ち抜いた。
視界が歪む。
倒れ込んだところへ、靴が、拳が、膝が、次々に襲いかかる。
「……ッぐぅ!」
「おらああああ!!」
「てめえらのせいで俺は!!全財産失ったんだ!!」
血の味が口いっぱいに広がる。
耳鳴り。
激痛。
叫び声と怒鳴り声がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
もう、何が起きているのかさえ、わからなかった。
わかっていたのは──
「人は──こんなにも、簡単に“悪魔”になる。」
それが、カナメが最後に理解したことだった。
ただのリンチでは終わらなかった。
彼は足を掴まれ、地面を這わせるように引きずられた。
アスファルトが肌を裂き、骨のような音が何度も鳴った。
(殺されるのか……僕は、こんなところで……)
人を殴り、蹴り、引きずりまわして。
何が楽しいのか。
イヤ──楽しいのだ。
それが、この光景のすべてを物語っていた。
殴っている者は、ほぼ全員が笑っていた。
誇らしげに。
仲間と目を合わせ、拳を突き上げ、まるで英雄のように。
「軍の犬が泣いてます!ハハハ!」
「おい、もっとやれよ!映せ映せ!配信しろ!」
デバイスをかざす者までいた。
カナメは、血に染まった視界でぼんやりと空を見上げながら思う。
(……人間って、なんだ?)
軍がHOPEを止めたわけじゃない。
HOPEが止まった理由を、こいつらは何も知らない。
神による介入など、知る由もない。
ただの故障かもしれないのだ。
(……いや……)
ただの故障だったら──どうするんだ。
一時的なバグでした、復旧しました。
その一報が明日、世界に届いたら。
この地獄を引き起こしたこいつらは、どんな顔をするのだ。
きっと言う。
「いや、あれは仕方なかった」
「軍が信用できなかったせいだ」
「俺は悪くない。社会が悪いんだ」
──そうやって正当化し、誰も罰せられない。
誰も、罪の意識すら持たない。
(…………こんな奴らを、僕は……)
大事にしていたはずの…
“誰かのために”という信念が、ボロボロと崩れ落ちていった。
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