第十七章 思い出と奈落

カナメは、都市を駆け抜けた。

──まるで一気に“未来の崩壊”を体験するかのように。


ところどころで暴動が起き、

道端には大量の血痕と、散乱したガラス片が光っていた。


核燃料車が、至る所に乗り捨てられている。

HOPEによってリスクが制御されていた頃は“安全”だったその乗り物も、

今では──冷却系の異常によって「微量な放射線漏れ」を起こしている可能性がある。

目視では判断できず、高濃度ではないにせよ、蓄積すれば体内に深刻なダメージを与えるレベルだ。

カナメは、そんな車両に不用意に近づかないよう、細心の注意を払いながら、ユキの自宅を目指した。


マンションの入り口。

そこに──生首が、落ちていた。


足が止まる。

背筋が凍る。

喉の奥が急激に乾く。


ユキ……?


一瞬で、最悪の未来が脳内を駆け巡った。


だが──違った。

他人だ。


カナメは、ほっと息を吐いた。


……彼は気づいていなかった。


「知人でなければ、死んでもどうでもいい」

そんな──人間特有の、醜い本音。


今の彼には、それすらも“認識できない”のだった。




マンションの廊下は比較的平和そうだった。


セキュリティのあるマンションだからだろうか、外部からの被害が感じられない。




ユキの部屋が見えてくる。


しかし、その扉は開け放たれたままだった。


いやな予感がする。


カナメは小走りに扉へ駆け寄った。




入り口から廊下が見える。


暗がりの中、何かが何かに馬乗りになっているのが見えた。




ドン!






ドン!!




「くそが…くそがよお…ちょっといい女だからってなめやがって。


いつも俺を目で口説いていたくせによぉ…」


馬乗りになった男が何かを殴り続けている。




ドクン!っと心臓が跳ねる…




殴られているのは…


ユキだった。




呼吸が荒くなる。




「…ユ…ユキ??」




ばっ!っと馬乗りになった男が振り返る。




「お…俺じゃないですよ?この女がおかしかったんです。俺を誘惑して…な?」


狂ってるのか?


なぜ同意を求める??




カナメの理性が焼ききれる。


彼もまた、HOPEの恩恵を無くした状態でこんな悪意にさらされたことがなかった。


ゆっくりと扉をくぐり…


玄関にあった置物を手に取る。




そのあとのことは覚えていなかった。




カナメは、廊下で痙攣している男を放置したまま、まずは出血を止めようとした。


だが──呼吸が、もうなかった。


顔面は、ひしゃげていた。

あまりに深く陥没した骨。

血が、間欠泉のように口と鼻からあふれている。

どれだけ殴られたら、人の顔がこんなになるんだ。


止血だけでは、もう間に合わない。


カナメは一瞬だけ躊躇した。

……これで助かるはずがない。


それでも──手を止める理由にはならなかった。


血まみれの胸に手を置き、全体重をかけて圧迫を始める。


「ユキ……」


胸骨が軋む感触。

赤い飛沫が頬にかかる。




なのに、思い出が止まらない。




心臓マッサージをしているのに




思い出が止まらない。




「カナメ——プリン食べたい」


「カナメってホント頭いいよね」




やめろ




まだ死んでない




なんで…




なんでこんなことを思い出す!!




「カナメ。私も…勉強してみようかな」






「うぁあああああああああああ!!!!」




ドン!!!




カナメは両腕を廊下にたたきつけた。



ユキは──死んでいた。

脈はなく、瞳孔は開き、胸は動かない。

カナメがいくら心臓マッサージをしても、

血は止まらず、皮膚の温度は下がっていく。


「……なんで」


ふいに、声が漏れる。

頬を伝う涙の感覚が、やけに冷たい。


「なんで……だよ……」


何のために、あれほどの未来を見てきた。

何のために、自分はここまで孤独に耐えてきた。

何のために、セナは犠牲になった…




やがて、カナメはユキの手をそっと離した。


静かに立ち上がる。

ふらつく足取りで、マンションの階段を昇る。

踊り場で、反転し、さらに昇る。

誰にも声はかけられない。

誰もいない。


最上階まで来ると、風が強かった。

フェンスを握る手が、震える。


眼下には、破壊された街。

道の上を這い回る人々。

暴力。悲鳴。強奪。

かつて“人間”と呼んでいたものたちが、

もはやチンパンジー以下の生命体にしか見えなかった。


──セナ。

お前の気持ちがわかったよ。

これが、見えていたんだな。


(救う価値なんて、なかったんだ)


静かに、カナメはそう呟いた。


闇夜のはるか向こう。


大きな


本当に大きな白い月が


笑っていた。



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