第十二章 那由他突入

アルバ・リング


セナがヴァックスの操縦桿を握る。

周囲に響く電子音、わずかな振動──

だが彼の瞳は、ただ前だけを見据えていた。


「エネルギー値、収束。構造安定域、確認」

「セナ様、転送座標──ロック完了」


オペレーターたちの報告が次々に飛び交う。

だが、彼の耳には遠くの波音のようにしか届かない。

セナの意識は、すでに“こちら側”から離れかけていた。




──静かだった。

異様なまでに、静かだった。


ゲートの閃光がうねり、空間が歪む。

次の瞬間、ヴァックスの船体がゆっくりと浮き上がる。


「カナメ。聞こえてるか?」


《ああ。すべて順調だ。脳波も安定している。》


「そうか。じゃあ、行こう。」


セナはひとつ息を吐き、

ブラックホールに呑まれるように──

ヴァックスごと、ワープへ突入した。


転送が完了したその刹那、

セナの目の前に広がったのは、“那由他の手前”だった。


無限に広がる白。

巨大な壁のように、宇宙を遮る純白の存在が、視界を支配している。


(きれいだ…)


《……》


セナの思考と共鳴したとき、カナメは気づいた。

彼は“美しさ”に異常なほど敏感だ。

その感性ゆえに、セナは人類に絶望していたのかもしれない。


だが──


ここは違う。

那由他がもたらす未知の干渉が、空間に満ちている。

美しさは、やがて異常に変わる。


既知の法則が、微かに、確かに揺らぎ始めていた。


HOPEの反応──ゼロ。


「カナメ。“未来構造の逸脱”ってアラートが出た」


《わかってる。僕の時も同じだった。……あの時は意味がわからなかったけど…》


セナの手元の計器は、すべて正常を示している。

だが──異常は、確実に起きていた。


カナメはHOPEの出力を上げる。那由他の領域でHOPEが反応できなくても、ここは違う。セナが感じたことをカナメがHOPEで演算し、伝えることができる。




「何かわかったか?」


《ああ。“未来構造の逸脱”──

これは、五次元とも異なる“時間概念”が、ここに混ざり込んでいるせいだ》


《思い出してくれ。あの神話の話を──

つまり、“神の世界”の時間が、僕たちの次元に漏れ出してる。HOPEにはそれが認識できない》


セナは小さく目を見開いた。


「……なるほど。いよいよ、本格的にSFじみてきたな」

《僕たち自身が、十分SFじみてると思うけど?》


セナは、ふっと笑った。

「──確かに。違いない」




那由他に接近していく。


黒い手は現れない。


まるで──もう、わざわざ引き込む必要すらないと知っているかのように。

“どうせお前たちは来る”。

そんな無言の応答が、空間そのものから滲み出ていた。


「那由他に接触する。」


ヴァックスの船体を包む空間が、ゆっくりと“白”に染まり始める。

──境界を越える。


空間がねじれ、時間が滲み出す。

“物理”というルールが、ゆっくりと溶解していく。

名を持っていたものが、意味を持っていたものが、次々とほどけていく。


セナの視界が、白に覆われる。


白。

白。

白。


ただ、永遠の白。


自我がほどけ、

座標が消え、

時間が──落ちる。


・・・


気づいたとき、セナは立っていた。


「……なんだ? ヴァックスはどこに……」


《セナ。落ち着こう。それは幻覚じゃない。

実際にヴァックスは“消滅”している》


「なるほど。意識体である人間だけを残してくれたのか」


《ああ。……対話する気があるのかもしれないな》






──そのときだった。




ヌルッと


何かが、セナの意識に触れた。


「うっ!」




それは言葉でも、音でもない。

ただ、脳をなでられた感覚がした。




セナは静かに目を開けた。


見えたのは


目の前の真っ白に浮かぶ…




わずかに灰色の「人型の影」だった

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