第七章 中区ノード《リバー》

軍の最重要機関である中区ノード──

そこは、HOPE全系統の中枢にして、人類すべての“未来的意志”が束ねられる源泉だった。


その場所に、カナメは一人、足を踏み入れる。


ここにあるのは、名を《リバー》と呼ばれる思考の流域。

全世界の演算を束ねる巨大知性。

その名は、かつてHOPEの母体を設計した星川博士が付けたものであり、カナメにとっては──ある種の皮肉でもあった。


「名付ける」という行為がどれほど人間的で、どれほど傲慢か──

だが、“那由他”といい、“リバー”といい、星川博士の命名センスは嫌いではなかった。


リバーとのリンクが開始される。


アクセス認証を終えると、リバーの演算核が自動的に最大出力へと移行する。

カナメが中に入った瞬間から、数千万件/秒の精密演算が開始され、“未来”が順序立てて整理されていく。


これは、“希望”を扱う装置でありながら、“絶望”の予感までも組み込む装置だった。

そして今、リバーが解析するのは──


「那由他の出現によって破綻しかけている、“この宇宙の未来”そのもの」


──中区ノード《リバー》とのリンク中、カナメの脳は限界演算に突入していた。


その姿を、作戦会議室の巨大スクリーン越しに見つめる一同。

だが、何も音は聞こえない。HOPEを介したリンクに“会話”は存在しない。

それが、この知性の次元で行われるやり取りの常だった。


「……さて」


長い沈黙のあと、セナが静かに口を開く。


「まず、“那由他”は、私たちの知る物理法則とはまったく異なる原理で動いていると考えられる。」


誰もが無言で頷く。

直感であれ、理屈であれ、それはすでに共通認識となっていた。


「“白化”とは、世界が消えているのではなく──“戻っている”のかもしれない。

創造の前、ビッグバン以前。

この宇宙が“作られる前”の状態へと。」


空気が凍りつく。


「つまり、“無”ではない。“本来の原初”だ。

当然、私たちには認知も観測もできない。共鳴者とて例外ではない。

……カナメは、HOPEの過剰使用が、これの“引き金”となっていると仮定した。

……だが、対処法は──不明。」


震えるような沈黙が広がった。

その場にいた者すべてが、言葉を失った。

それはもう、“科学”ではなかった。

“次元の問題”ですらなかった。

まさに“神話”の領域との邂逅であり──

人間があまりに無力であるという、どうしようもない真実がそこにあった。


「──そこで、カナメは一つの選択肢を挙げた。

HOPEの“使用”を、一時的にでも止めるべきではないか、と。」


バン!


センイチ大将が音を立てて立ち上がる。


「ば、ばかなッ!そんなこと……!

今の人類からHOPEを取り上げるなど、可能なものか!社会は崩壊する!」


「……ああ。話を最後まで聞きなよ、大将。」


その声色は、明らかに違っていた。

カナメとは異なる。

言葉に刺があり、目はどこか“見下ろしていた”。

まるで、別の次元から現れた捕食者のように。


センイチは本能的に“震え”を覚える。


「今の人類に、いきなりHOPEの支えを絶てば、

社会は一気に崩壊する。精神構造がもう、保てない。

現代社会は、とうの昔に“滅びていてもおかしくない構造”だ。

それをかろうじて“支えている”のが、HOPE。」


「快楽にまみれ、倫理は腐敗し、意志は希薄になった。

そんな今の人類に、HOPEの光がなければ、一夜で破綻する。」


そしてセナは、やや小さく続けた。


「──でも、カナメは“信じてる”らしいんだよ。

人間は、そこまで捨てたもんじゃないって。」


その言葉は、カナメが“味方”であることを示すものであった。


だが同時に──

それが“セナの考えではない”ことも明確だった。


まるで、


「俺は、信じていないけどな」


──そう言っているようだった。






誰も言葉を紡げない。

必要なことはすでに、過不足なく共有された。

セナの無機質な合理性が、「これ以上の会話は意味をなさない」と告げている。

言葉の余白は、沈黙という形で部屋を満たしていた。


その沈黙を割るように、

「ウィン」という機械音が天井からこだました。


会議室のドアがスライドし、

白い蒸気をわずかにまとった男が姿を現す。


カナメだった。


額には薄く汗。

鼻を白いハンカチで押さえている。

どこか、重力に抗うような足取りで壁に手を添えながら、一歩ずつ会議卓へと向かってくる。


その姿を見て、最初に動いたのはエリだった。


「だ、大丈夫? ちょっと見せて!」


「大丈夫だよ。エリはほんと大げさだなあ」


「いいから!」


エリは迷いなくペンライトを取り出し、カナメの瞳孔をチェックする。

手つきは震えていたが、プロフェッショナルの眼差しだった。


「意識は? ちゃんとある?」


「ああ。問題ない。リバーの演算が速すぎて、一時的に毛細血管が破裂しただけだ」


安心と、同時に冷や汗が伝う。

世界の崩壊がリアルに始まりつつある今、

この男の知性と精神は──最後の砦だ。

共鳴者の喪失は、そのまま希望の喪失と直結する。


その重みを、エリは痛いほど理解していた。


カナメは少しだけ深呼吸をしてから、全員に視線を向けた。


「みんなも聞いてほしい。正直言って、那由他の“拡張”が続く限り、この宇宙に逃げ場はないかもしれない」


重い空気が、ゆっくりと部屋に染み込んでいく。


「でも──それでも無意味に人類を混乱させるわけにはいかない。

 それは、君たちもわかってるよね?」


誰も答えない。

だがその沈黙は、否定ではなかった。


「凛として構えよう。誠実に、“可能性”を模索しよう」


その言葉に、複数人が涙をこらえきれなかった。

だがそれは絶望ではなかった。

勇気に動かされた、静かな決意の涙だった。


そんな様子を、セナは横目に見やり──

小さくため息をついた。


「……ネズミが」


そう呟くと、無言のまま窓の外──那由他の方向へと目を移した。


そこにはまだ、“白”と“虚無”の境界が、微かに揺れていた。


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