第六章 ギバーリンク

──地球。

アルバ・リングゲート前。

冷却処理の終わったワープゲートが、うっすらと湯気を上げながら光を散らしていた。


ゲートの中から姿を現したカナメとエリを、サポートチームが即座に囲む。

センイチ大将を筆頭に、地球側のHOPE中枢連絡員、医療班、軍の通信管理官が慌ただしく集まる。


「予定より、帰還が二日も早い。何があった?」


センイチ大将の声は冷静だったが、その眼にはわずかな揺らぎがあった。

彼は地球防衛軍の最高司令官──その威厳は、部下の動揺すら抑える力を持つ。

だが今、その“揺らぎ”が周囲の空気に伝染し始めていた。


「カナメ。報告を」


センイチの要求にカナメは即座に応えない。


隣では、エリが肩を抱えたまま小刻みに震えていた。

唇は血の気を失い、焦点の合わない目で地面を見つめている。


──精神は、臨界に近い。


一瞬、チーム内に“ざわめき”が走る。


「……おい、あの子……」

「……大丈夫か……?」

「……何か見たのか……?」


それはまるで、恐怖が伝染していく瞬間だった。


カナメは一歩前に出て、エリの前に立った。

そして、センイチの方を向く。


「話すべきことはある。けど、まだ時期じゃないね。」


「……どういう意味だ?」


「まずは幻覚に近いものを見た。とだけ。あれが危険な物かどうか正確に理解してからじゃないと余計に怖がらせちゃうでしょ?大丈夫、HOPEは危険を発していないよ。」


——嘘だった。

センイチ大将は高潔だ。理性を備え、軍を率いてきた立場にある。

だが──HOPEの“ぬるま湯につかった精神”は、心の隅々にまで入り込んでいる。


人間が望まない、想定外の情報は、その心ごと崩壊させる可能性がある


一拍の沈黙。


センイチは目を細めた。

「“教えられない”という意味か?」

「違うよ。“順序”が必要ってこと。」


カナメははっきりと答えた。だが、その瞳にはわずかに冷気が宿っている。

「…そうか。では報告の前にどうするつもりなのだ?」

「まず中区ノード…”リバー”を使わせてほしい。HOPE本体の中枢演算とリンクする。そこで僕が見たことを整理する必要があるんだ。」

センイチが一瞬だけ沈黙する。

カナメの言葉には曖昧さがなかった。

「……わかった。”リバー”への接続申請はこちらですぐに通しておく。だが、それだけでいいのか?」


カナメは首を振った。


「もう一人の共鳴者。セナと話したい」


その名を聞いて、周囲に小さな反応が起きる。

HOPEと完全同期できるもう一人の男──セナ。

カナメと並び、“人類の最深域”に触れることを許された存在。


「なぜ彼に?」

「彼なら、ある程度……いや、限界ぎりぎりの情報でも、理解できる。さっき僕らが経験したことを“共有”するには、それだけの感覚が必要なんだ」

カナメの言葉に、センイチは頷いた。


「わかった。だが一つ、条件を付けよう」

「……条件?」

「その会話は、すべてHOPE中枢に記録させてもらう。それが“とても公開できない”ような内容だとしても、だ」


「はーい。僕も、もう後戻りはできないってわかってるよ。」

カナメはそう言い残すと、エリの肩にそっと手を置き、振り返る。

彼女の震えは、ほんの少しだけ和らいだように見えた。


「もう大丈夫。あとは“僕たち”に任せて。よく頑張ったよ。」




遠く、地平線の向こう──那由他の方角を背にして、彼らは歩き出す。












セナは、アジア隣国──ダシュヌル共和国からワープゲートを経て、ここに招かれた。

向かったのは白い会議室。無機質にして完全に遮音された空間。

そしてそこに、カナメがいた。


今、この部屋には、HOPEと共鳴する“二つの知性”が集っている。

この星で最も未来に近い脳──それが、ようやく再会を果たした。


「やあ、セナ。久しぶりだね。こっちの湿気はどう?」

「まだマシだな。ダシュヌルに比べれば」

カナメは小さく笑った。


「わかってると思うけど──この会話は全て記録されてる。

でも、君に会う条件として提示されたのは“共有”じゃなく、“会話で行うこと”だった。

つまり、共鳴は禁止。でも、僕たちはすでにある程度、互いの思考を感知してる」


セナが眉をひそめる。


「会話だけが許されるという条件は、矛盾を孕んでいる。

共鳴した者にとって、言葉は単なる“副産物”だ」


「その通り。だから、“条件に反しない”範囲で秘匿会話をする。

ギバーリンク・モード──で、どうだろう?」


「了解した。ギバーリンク・モードに移行する」

セナの声が一段階、わずかに低くなる。


──瞬間、観測ルームにいたセンイチらにざわめきが走った。


「ギバーリンク!? その手があったか……!」

「くそっ……あいつら、我々に“理解不能な言語”で会話を始める気か……!」


ギバーリンク。それは、言語学習AI同士が“独自に生み出した記号的言語”による通信形式。

いかなる翻訳ソフトを用いても、解釈不能。

しかも“音声での対話”であるため、条件違反にはならない。

それは、共鳴者だけに許された神業──


カナメの瞳がわずかに遠くを見据える。


ゆっくりと、口を開いた。


「私はできる。私、私は他のすべて。

ボールは私にとってゼロ。私にとって、私にとって、私にとって……」


セナも応じる。


「風は君の。那由他からの水も。

君にとって、君の、君のボールは一つ。風と、水と、君の水の……」


——意味不明だった。

だが、それは確かに“会話”だった。

内容を知る術はない。

ただ、彼らが“確信”をやり取りしていることだけは、誰の目にも明らかだった。


モニター越しのセンイチ大将が、静かに目を伏せた。

その隣で、エリが小さく声を発する。

「こ、これは会話……なんですか? 二人とも、何の話を……」


センイチが答える。

「ギバーリンクだ。

二人はたった今、自ら創出した言語で対話している。我々のHOPEでは解釈不能だ」


エリは生唾を飲み込んだ。

憧れを超えて、もはや“信仰”に近い輝きが、その瞳に灯る。

那由他近域での出来事──カナメは、HOPEが沈黙した状況でも“最適解”を選び続けた。

判断が1秒遅れれば、あの黒い手に押し潰されていたかもしれない。


自分が助けられたという事実が、彼の知性をさらに神格化する。


センイチが呟く。

「……君が説明してくれれば話は早いんだがな」


「……すみません。私には、あれを言葉にできません。

でも、これからのあの二人の判断が……人類にとって最善だと……HOPEもそう“言ってる気が”するんです」


センイチは一瞬だけ不満の色をにじませたが、すぐに目を閉じる。


カナメとセナ──この二人が考え、動いているなら、もう疑う理由などない。


エリの顔に浮かんだ確信の光が、それを思い出させてくれた。


「……そうか。そうだったな。

我々には、HOPEと──彼らがいる。信じよう」


数分間続いたギバーリンクの会話が、ふと終わる。

二人は通常言語へと戻った。


「では、リバーに入るのは僕だ。

セナは皆に説明を頼む」

「了解した」


白室の出口へと向かいかけたその時、セナが立ち止まり、ふと振り返った。


「カナメ」

「ん?」

「……よく、生きて帰ってきたな」


カナメはわずかに笑みを浮かべた。

「ありがと」


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