第五章 アルバ・リングにて

カナメとエリが簡易ワープで辿り着いたのは、宇宙ステーション《アルバ・リング》。

那由他からの影響が届かないとされる、限界距離ギリギリの観測拠点。

二人は探査艇ヴァックスを後にし、急ぎ地球への帰還ゲートへと歩を進める。


リング内部は異様なほど静かだった。

人工重力は安定し、空調も正常に作動している。

ただし──その冷却された空間には、緊張に濁る二人の吐息だけが白く漂っていた。


「……な、なんだったの、あれ……!? 幻覚よね、ねぇ!?」


エリの声が跳ねるように響く。

声色は高く、顔は蒼白。

まるで精神が那由他の“内側”に取り込まれたかのようだった。


ゲートにたどり着いたその背後──

視界の向こう、リングの観測窓からなおも“黒き手”が追い縋るように迫っていた。


「き、来てる……!! 来てるよ、カナメ……っ!」


「わかってる。大丈夫だよ。」


カナメはできるだけ穏やかに、言葉を選んだ。

だがその落ち着いた口調は、逆にエリの不安を煽った。


「な、なんでそんな落ち着いていられるのよ!

もしここが破壊されたら…もう誰も──この場所にたどり着けなくなるのよ!?」


だが、カナメには理解できていた。

ここは那由他の影響範囲を外れた領域──すなわち、HOPEの “領域”。

未来は不明瞭ではあるが、“重大な危機”がないことだけははっきりと伝わってくる。

HOPEが沈黙していない以上、それは“死”や“破滅”が間近に迫っていないという証拠だ。


──だからこそ、彼は断言した。


「あの“手”は、ここには届かないよ」


「——っ!?!?」


エリの目が見開かれる。

理屈も理由も頭に入らない。

パニックに染まった彼女の中で、HOPEの信頼性もカナメの冷静さも、すでに“理解の外側”へと飛んでいた。


窓の向こうには、なおも那由他の“白”が佇み、

そこから滲み出るように、あの“黒き手”が空間を裂きながら伸び続けている。


──視界のどこを見ても、ただ“異常”しかない。

その存在の理屈が分からないからこそ、恐怖は終わらない。


「さ。必要なデータはすべて手に入った。あとは地球に戻るだけだ」


カナメはそう言って、ゲートパネルの起動を確認した。

その声は淡々としていたが──その目には、確かな決意の炎が宿っていた。


ゲートはまだ完全には開いていない。

人間が通過できるまで、あと十数秒の安定化が必要だ。

だが、その“わずかな待機”こそ、エリにとっては拷問のような時間だった。


「こ……怖い……! あれが何だったのかも、これから何が起きるのかも……なにも分からない……!」


カナメは優しくエリを抱きしめる。


「普通の反応だよ。むしろ、君が正常だ。あれを前にして、冷静でいられる方がおかしい」


「でも、あなたは……」


「僕は、共鳴してる。HOPEと。情報を処理できる分、まだ保っていられるだけさ」


彼は淡々と語った。それが彼の優しさでもあった。


寄り添いすぎない、だが決して見捨てない距離で、彼はエリを支えていた。


「ここから、どうするの……?」


エリが問うと、カナメはしばし沈黙したのち、小さく頷いた。


「このまま地球に戻る。大丈夫。あの手はアルバ・リングに届かない。そしてHOPEの中枢へ。……あれが“何か”を、計算する必要がある」


そのとき、観測ドローンのひとつが微かな振動を感知した。アルバ・リングの遥か向こう、黒い背景を裂くように、光を吸い込む“指”のようなものがゆっくりと伸びてきていた。


「カ……カナメ……!」


ゴゴゴゴ!


宇宙船に謎の振動が響く。




エリの奥歯が鳴る。


しかしカナメは全く動じない。


「なにも心配ない。落ち着いて、呼吸して」


「そ、そんなの……っ!」


「大丈夫。君を守る。約束する」




窓のすべてが“黒”に染まるその瞬間


ピタっと振動が止まった。




“黒き手”が止まったのだ。




「ワープ座標固定完了。入場可能です」


AI音声が響く。

—―今のカナメにはありがたい無機質さだった。


「さ。行こう。」


エリの震える手をとって、カナメはゲートの向こう。


うっすらと移動先が移った空間へ歩き出す。


アルバ・リングの出力が上昇する。


そして、白い残光を残しながら、二人は消えた。


向かうは地球。再び、希望と絶望の境界線へ。

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