第四章 那由他近域

セリオス宙域にある那由他観測ステーション《アルバ・リング》。

那由他の影響を受けない限界距離に浮かんだその施設で

カナメとエリは、ここで数週間にわたり、那由他の遠隔観測を続けていた。


HOPEのメンテナンスの際、エリが感心したように言った。

「この小さな基盤にくっついてる部品……これがHOPEなのね」

カナメは頷いた。

「そ。正式名称は“予定観察事象固定装置”。

まだ決まってもいない未来を、人間の都合のいいように導いてくれる装置だ」


エリは少し笑って、タブレットを見つめた。



「まるで神様の代行者ね。願いが叶う前に、叶う道筋まで作ってくれるなんて」



「ただし、“人間が想像できる範囲の未来”に限って、だよ」



カナメの声は静かだった。

「HOPEは、希望が定義できるからこそ反応する。けれど──“希望そのものが通じない空間”に行くなら話は別。」




その言葉の意味を、エリは後になって痛感することになる。




「那由他に近づいて、直接のデータを取りたい」

カナメの志願を受けて、探査艇ヴァックスが発進した。


二人はヴァックスのワープシステムを起動し、目標座標「那由他近域」へのジャンプを敢行する。

HOPEによる自動制御は、那由他の縁付近では正確な予測を維持できないため、

操縦はすべて手動。


カナメ自身の判断に委ねられることとなった。


ワープゲートが晴れる。

そして今──

宇宙船の前方だけが、まるで巨大な壁に塞がれている。


地球から見た那由他は、あくまで“白い球体”だった。

だが接近した今、それは球体などではなく、空間を完全に遮る、途方もなく大きな“白の壁”にしか見えなかった。


「……まるで、宇宙がここで終わってるみたい……」


エリがつぶやく。

その視線の先には、奥行きも凹凸もない、ただ白で塗り潰された“平面”が広がっていた。


「ブラックホールと違って、引き寄せる力はない。

でも、“前に進めない”って意味では、こっちの方が怖いね」

カナメの言葉に、ヴァックスの航行システムが反応を失い、微かに軋む音を立てる。


HOPEによる予測制御は、那由他に近づいた瞬間、突如として機能しなくなった。「やっぱり、那由他近域ではHOPEの反応が消える……」


エリが眉をしかめ、座標パネルを見つめる。

ヴァックスが那由他の縁に近づくにつれ、艦内のセンサーにわずかな揺らぎが現れ始めた。


境界線の外──正確には、まだ那由他の“手前”であるはずの宇宙空間。


だが、そこはすでに“普通”ではなかった。


カナメが不意に眉をひそめた。


「数値は……どれも正常範囲。重力も、粒子も、背景放射も。」


「なのに…HOPEがアラートだけを出してる」




「え? だってHOPEは反応しないんじゃないの?」

エリが眉をひそめる。


「うん、でも警告はログだけに出てる。一般計器が正常なのにアラート…」

カナメは空を見つめながら続ける。

「未来予測システムがリスクを感知してる。でも、根拠となるデータがない。

全部が、完璧に整ってるのに──」




エリは、言いようのない不安に襲われた。



HOPE誕生以降、人類の科学は常軌を逸した速度で発展してきた。

その恩恵にあずかる中で、彼女もまたどこかで「もはや人類に未知などない」と思いかけていたのかもしれない。


彼女は、そっとHOPEのアラートログを開いた。

「データはキレイそのもの……」

タブレットに浮かぶ警告文を指差し、呟く。

「“未来構造の逸脱”──こんな警告文初めて見たわ」


「僕もだ」


カナメは頷く。

「HOPEは“人間の未来的意志”に反応する。

観測される前の“意味ある未来”を物理的に定義する装置だ。

でも、那由他の近傍では“希望”そのものが通じない。

HOPEはそれを、予測することも、理解することもできない」


「……つまり… “何もない”…ってことよね?」

エリの言葉に、カナメは沈黙で応じた。


HOPEは何かを警告している。

だが、それが“何を”なのか──この宇宙の中で、誰も言葉にできない


そのとき──


艦内モニターのひとつが、微かな“映像ノイズ”を検出した。


最初は些細な乱れだったが、やがてそこに、不規則でありながら不思議な“反復”が混ざりはじめる。




「見て。これ……ノイズじゃない」


エリが声を潜めた。




断片の中に、人の“目”のような輪郭が浮かび上がる。


明確な像ではない。だが、確かに“見られている”という直感が背筋を撫でた。




「……大きな目のように見えるね」


カナメは小さく呟いた。


だがその声音には、警戒でも恐怖でもなく──


ただ、確信に似たものが混じっていた。


エリがおびえ始める。


HOPEが沈黙し、空間が揺らぎ、


“観測されること”の意味すら不明になるこの場所で──




いま、何かがこちらを見ている。──そんな気がした。




「接近限界距離まで、あと120秒」


艦内AIの自動音声が告げる。だがその声すら、どこか“録音された幻聴”のように響いた。




カナメは、ゆっくりと目を見据える。


「エリ。まずは至近距離での観察だけだ。冷静に、事実だけを集めよう」




その瞬間だった。


エリの操作する端末に、ふいに“未承認の通信”が割り込んできた。




「……今、何か入ってきたわ」




画面には、すでに“消失認定”されたはずのセリオス駐屯チーム──


《エクリプス3》の識別コードが表示されていた。


カナメは首をかしげる。


「《エクリプス3》……? でも、そんなはず……」




カナメがすぐに視線を落とす。


「あり得ない。エクリプス3は、セリオスごと五年前に那由他に飲まれたはずだ。


帰還記録も、通信ログも、何一つ残していない」




数値にエラーはない。通信は明確に、今“発信されている”。




「アルバ・リングでのHOPEの予測にも、この信号はなかった。


それ自体が……起きてはならないことのはずだ」




カナメの声音が低くなる。




まるで、“向こう”が何かを返してきたようだった。




ログ再生が自動的に開始される。


──ザッ……ザザ……。




『……カナメ……エリ……


聞こえてるなら……応答してくれ……


ここは……時間が……戻る……いや、違う。重なってる……


生きてるのか……それも、もう曖昧だ。


HOPEは止まった。


俺たちの意志は……もう未来にならない。


もしこれが外に届いてるなら──頼む、助けてくれ。


那由他は……那由他は……』




──音声が、そこで唐突に途切れる。




艦内には、息を呑むような沈黙が落ちた。


カナメとエリは、目を見合わせたまま、しばらく動けなかった。




なぜ、“あれ”は──


カナメとエリがここにいると、知っていたのか。




そもそも、彼らは今も生きていたのか?


それとも、これは“過去”の断片が、歪んだ現在に混ざり込んできたのか。




だが一つだけ確かなことがある。




──この信号は、那由他の“内側”から届いた。




「一体、中はどうなっている……」




思わず漏れたその言葉は、誰に向けたものでもなかった。




カナメの頭脳が、熱を帯びるような感覚に包まれる。


演算でも予測でもない。


ただ、“未知を知りたい”という、純粋すぎる衝動。




こんな感覚は──いつ以来だろう。


彼自身も思い出せないほど、遠い過去の“ときめき”だった。



「時間が…重なってると言っていた…」


「……5次元を言語化しようとしているのか?」


「いや……違う」




カナメの声は、思考とともに静かに染み込むようだった。




「なんだ……この違和感……」




演算は静かに回っている。理論も破綻していない。


なのに──脳の奥、演算が届かない“何か”が、ざわめいていた。




まるで直感が、理性よりも先に危機を感知しているような──そんな感覚。




「言葉にできない……けど、ここは“外側”じゃないのかもしれない」




「え?」




「いや……まだ確信じゃない。ただ、通信が来たこと自体が、“観測を拒む空間”という定義と矛盾してる。


もしHOPEが間違っていたとすれば……


僕たちは今、“内側に触れた”んじゃなくて、“向こう側に目を向けられた”……」




「観測したのは、こっちじゃない……ってこと?」




カナメはにこっと微笑んだ。




「かもね」




超常の現象が立て続けに起きている──エリの精神状態が限界に近いことを、カナメは察していた。


少しでも平静を装うことで、不安の伝播を防ぐ。それが今の最適行動だ。




「とりあえず、ここに長居するのは危険かもし──」




──その瞬間。




「ぎゃあああああああああああああッ!!」




艦内通信機が暴走したように、凄まじい絶叫が船内に叩きつけられた。


船内の照明が狂ったように点滅する。


「ひっ……!」




エリの顔が蒼白に染まり、硬直する。




だが、カナメはすでに動いていた。


カナメは正面の那由他を見据えたまま、ヴァックスを後方に急加速させる。


HOPEは沈黙したまま。


だが──彼の脳のブーストは生きている。


思考の加速は、わずかコンマ数秒で「最優先は離脱」と結論を下していた。




「まずい……これは——“補足”されてる。逃げるよ!」




艦内が揺れ、外の宇宙が“低く唸るような振動”を発していた。




「ワープまで──10秒!」




その瞬間、カナメは見た。




那由他が、揺らいだ。




まるで水面のように、平面が波立つ。




──そして、ゆっくりと拡張しながら…


“そこ”から、黒い手が、現れた。




指の一本一本が空間の裂け目を這い、


音もなく、だが確かに、こちらへと伸びてくる。




「い、いやああああ!!」




エリの悲鳴が爆ぜた。


だが、カナメの目は一切ブレない。




無表情で迫る“手”を視認し、


速度、サイズ、到達タイミング──全てを即座に予測する。




「……追い付かれるまで、3秒」




カナメは呟くように言った。




「間に合う」




──ヴンッ!!




閃光一閃。


ヴァックスは空間ごと消え去った。




次の瞬間、黒い手が“そこ”を握り潰した。




だが、そこにはもう何もなかった。


わずか0.3秒前に、すべては“別の時空”に移っていた。


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