第一章 白の兆候

「セリオス側、今日の光度変化は?」

「……またゼロです」


遠山カナメは、天体監視端末から視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。

窓の向こう──都市上空に浮かぶ白い球体が、今日も無音でそこに在る。


巨大な“白”。

空に空いた穴のようであり、色彩そのものを拒絶する空白の神。


カナメは、この“那由他”の研究を担当する、軍の最高幹部の一人だった。


白髪に灰色の瞳──26歳でありながら、少年にも見える外見。


彼は人類に二人しかいない「HOPE共鳴者」として、知性の限界を超えた存在だった。


通常の人間の五倍の思考処理を可能にする、意思共鳴型研究者。

HOPEの“未来予測”と“最適選択”が彼の意識に混ざることで、彼はまるで神の視点を宿していた。


しかし、どれほどの演算を重ねても──この白だけは、解けない。


那由他。


HOPEでさえ、その性質を定義できない。


それはカナメにとって唯一、予測不能なもの。

だからこそ彼は、何度もここに足を運ぶ。

「今日こそ、何かが変わるかもしれない」と、奇跡のような期待を胸に。


だが、今日も結果は──変化なし。


……いつも、何一つ分からない。

「誰か、僕の代わりにあそこへ行ってみてくれないかな……」


ふと漏らした独り言に、研究者たちは沈黙した。誰も答えない。ただ、目を伏せる。


天に浮かぶ白の球体。

音も、動きも、刺激すらない。


それなのに──誰もが直感する。

「あれは、触れてはならないものだ」と。




カナメは一人、研究施設を後にして軍本部へと歩いていた。

本来ならば、彼には複数の護衛がつくはずだった。

だが、彼はいつも“抜け出す”。


共鳴によって得た予測能力。

危険などすべて先に察知できる。護衛の存在など、むしろ煩わしい。


「……護衛なんかいらないよ。全部分かってるんだからさ」


白い髪、白い肌。

HOPEとの共鳴実験以降、彼の外見は変わった。


まるでアルビノのように。

だが、太陽の光を浴びるたびに思う。


ああ、これだけは“予測”じゃない。今ここに、確かにある。


HOPEデバイスはあらゆる生理的負荷を抑える。

日焼けすらもしない。

それでも彼は、太陽の下に身を置く時間を好んでいた。


なぜなら、この都市が、あまりにも“完璧”すぎたからだ。


あまりにも綺麗で、あまりにも整いすぎていて、

美しさが、どこにもなかった。


緑地帯という建前は、もう存在しない。

緑はすべて区画ごとに最適化され、数値で管理される。

自然すらも、HOPEの管理下にある。


きれいすぎる都市。

護衛まみれの日常。


その中で──

カナメにとって、唯一“触れることのできる自然”は、

太陽だけだった。


その熱を背中に感じながら、カナメは軍へとまっすぐ帰るのをやめ、足を歓楽街へと向けた。


目当ては、喧騒。

賑わい、叫び声、笑い、衝突、酔い、欲望──

それらはカナメにとって娯楽ではなかった。


“戒め”だ。




ネオンが瞬く通りの入り口で、すぐに騒ぐ若者たちの声が耳に届く。

まだ未成年にしか見えない男女たちが、昼間から缶を片手に笑い転げている。


「お?やば〜!超イケメンじゃん!」


ひとりの少女が、唐突にカナメに近づいてきた。


「やぁ、こんにちは」


カナメは穏やかな笑みで応じた。


「スッゴ~……! その髪、どうやって色変えてんの?」

「これは、地毛だよ」

「マジ!? やば〜。ねぇねぇ、今からみんなでカラオケ行くんだけど、良かったら……一緒に来ない?」


カナメは、彼女の背後の集団に視線を向けた。

数人の男たちもいたが、女のこの“ナンパ”を咎める様子はない。


……目的は“つながり”か。


寂しさを紛らわせる、疑似的な群れの形成。


悪意はない。HOPEの警告もない。

危険はゼロ──


だが、カナメは誘いに乗ることはなかった。


なぜなら、“つながりを求める行為”そのものに、彼はもう意味を感じられなかったからだ。


かつては彼も、必死に求めていた。

HOPEに最適化された社会のなかで、なお“本物のつながり”だけは得られなかった。

何度試みても、それは制度に保護された“役割”でしかなく、誰かと心を通わせた記憶はなかった。

この「孤独感」こそ——

共鳴によって、静かに削ぎ落とされていった感覚だったのかもしれない。


「ごめん。僕は軍の仕事でここにいるだけなんだ」


カナメが身につけていたIDを軽く掲げると、さっきまで騒いでいた少女たちは、まるで酔いが覚めたかのように一瞬で散った。


その姿を見送りながら、カナメはひとりごちる。


「……別に、警察ってわけじゃないんだけどな」


HOPEは、まだ民間には配備されていない。

軍の上層部が独占的に管理し、政府との協議のもと、大勢の願いが“叶いすぎないよう”、厳重に運用されている。


カナメが装着している腕時計型HOPEデバイスは、共鳴能力を持つ者にしか使用できない専用端末だった。

通常の人間にとって、HOPEの演算は“ただ地球全体に満ちる出力”にすぎない。

だが、共鳴者であるカナメは、それを思考として“直接受け取る”ことができる。


だから彼は理解していた。


彼と、あの少女たちの間には、越えられない壁があることを。


笑い声も、誘いも、逃げる背中も──すべてが、どこか遠い。


そして、“悪意のない社会”だからといって、それが清らかとは限らなかった。


都市部では、若年層の性的モラルがすでに崩壊して久しい。


妊娠リスクはゼロ。HOPEの管理下で、子は「望まれた時」にしか授からない。

感染症も淘汰された。


片思いは絶滅した。

HOPEが感情の一致を予測し、関係を調整するため、選びさえすれば“必ずうまくいく”。


若者たちはその感覚を当然のように受け入れている。


今、流行している言葉は「即」。


「即ヌキじゃん」「即ヤリ」「即パク」「即逃げ」──


すべてが、“考えなくていい”社会の副作用。


さっきの少女たちも、今ごろは驚いているだろう。

「拒絶された」という、初めての体験に。


人々は幸福だ。

飢えることも、苦しむこともない。


だが、誰もがただ、“欲しがるだけ”になっていた。


完璧すぎる楽園とは、果たして何を意味するのか。


カナメは、それを“先に知ってしまった”人間として、ただ一人、静かに人類を憂えていた。




軍に帰着したその日の夕方、カナメは恋人の積田ユキを迎えに、学術都市エスタ第七教育区へと向かっていた。


彼女は生理倫理学の専修課程に在籍しており、今日は特別講義があると聞いていた。


少し早く着いたカナメは、教室の後方扉からそっと中へ入り、彼女の隣に静かに腰を下ろした。


「あら、カナメ。講義室まで来るなんて、珍しいじゃない」




ユキは頬杖をついたまま顔を傾け、小悪魔めいた笑みを浮かべた。


彼女は“遅咲き”の大学生だった。

二十歳のとき、当時付き合っていたカナメに触発され、思い切って進学を決めたのだ。


「私もさ、少しくらい賢くなりたいの」


そう笑ったあの日のユキは──


どこか、今よりずっと無防備で、愛しかった。


きっと、あの頃はまだ、自分がHOPEと共鳴する前だったから。

感情も、距離も、愛しさも──もっと“人間らしく”感じられたのだ。


「ああ。ちょっと……もう一度聞きたくなる講義内容だったからさ」


「え? カナメが聞きたい講義なんてあるの?」


ユキは少し驚いたように眉を上げた。


カナメは返答するのも億劫だったが、思考の淀みが嫌で、丁寧に言葉を返す。


「そりゃあるさ。……なんたって、“ネズミ”だからな」


「……?」


ユキの小首をかしげる仕草に、少しだけ、心が揺れる。


カナメにとって──

唯一、恐怖と呼べるものがあった。


それは、自分が人を“下位の存在”として見始めることだった。


常人の五倍の処理速度。

未来を“感じ取る”直感。


HOPEとの共鳴は、確かにカナメを進化させた。

だがそれは同時に、人間という群れから彼を引き剥がす力でもあった。


それでもまだ、彼の中にはわずかに残っていた。

「自分を“人間”だと思いたい」という願いが。


だから、ユキの隣に座った。


だから、講義を聞くふりをした。


だから、言葉を返した。


彼はまだ、崩れきってはいなかった。


講義が始まる。

スクリーンに映し出されたのは、古びた白黒映像──写真資料。


「──この実験を、“楽園実験”と呼ぶ者もいます」


教授の静かな声が、講義室を満たす。


「『ユニバース25』。

 動物行動学者ジョン・B・カルフーンによって行われた、壮大な“ネズミ”社会崩壊の記録です」


「環境は完璧でした。

 食料は無限、水も、住居も、気温も最適。

 病気も天敵も存在しない。

 人間で言えば、労働の必要がなく、毎日が配給と快適な空間に満たされた世界。

 ……しかし、結果は破滅でした」


カナメの隣で、ユキがペンを走らせている。

小さく、丁寧な文字でノートを取り続けていた。


カナメには、もはや“メモを取る”という概念はなかった。

知覚と記憶、論理と連想──全てはHOPEの思考補助によって、脳内に直接“整理”される。


そんな彼の意識に、不意に浮かんだ感情があった。


(……なんでこの程度の話に、メモが必要なんだよ…)


ほんの一瞬、そう思った。


だが、その直後にカナメは、自らの思考をたしなめた。


それは、傲慢だ。


かつての自分も、同じようにペンを持ち、

知識の断片を必死に書き留めていたはずなのだから。


それでも──

“健気で可愛い”と思うことさえ、今はもうできなかった。


彼の思考と感情は、確実に変わりつつあった。


共鳴の代償。


「人間らしさ」と呼ばれていた何かが、少しずつ、崩れていく。




教授は、スクリーンに映る資料を示しながら実験の進行を語り出す──


適応期:最初のネズミたちは戸惑いながらも、環境に順応し、社会を形成していった。


爆発的増加期:出産が急増し、個体数は数百に達した。


停滞期:社会的役割を持てない個体が増え、無気力、攻撃性、異常交尾が現れ始める。

巣ではなく広場での交流が主となり、ナンパ的行動や、食糧が無限にあるにもかかわらずカツアゲのような支配行動も見られるようになった。


崩壊期:出産は減少し、社会行動も失われていく。ネズミたちは巣に引きこもり、争いも、愛も、不要となった。生きる意味は、静かに、剥がれ落ちていった。


終末期:わずかに生まれる個体も、育てられることはなかった。育児放棄が常態化し、幼い個体は生き延びられない。


やがて最後の一匹が死ぬまで、絶滅は“静かに進行”していった。




「……そして、この“ユニバース25”という名称の由来…」


教授の声が少しだけ低くなる。


「この実験は、25回繰り返され——」


一拍の間。


教室は静まり返る。


「——すべて、絶滅しています」




人類の楽園。


すべてが満ちているはずの、今の世界。


AIはあらゆるリスクを排除し、

人間の願望を即座に模倣し、

そして完璧に、再現していく。


……だが、その先にあるものが、“幸福”であるとは限らない。


人類の八〇%は、お祭り騒ぎだった。


ゴミは焼却されることなく、すべて再利用可能。

街からは“ゴミ箱”という概念が消え、代わりに収集ロボットが巡回し、

あらゆる廃棄物を別の物質へと変換していく。


人工細胞と機械によって、無限に生産される食糧は──

今や「投げつけ合って遊ぶための道具」と化していた。


ペットも、最適化された。

事故を起こさず、攻撃もせず、どんな動物でも飼える。

もうその価値は “サイズ”でしか測られない。


人々はもはや、死すら恐れていなかった。


医療は進化し、死因はすべて予測され、回避可能となった。

寿命さえも、HOPEの管理下にある。年齢は50で止まり、満足を得たものや、“死”に魅入られた者は、HOPEに自己終末許可を申請し、静かに姿を消す。



葬儀も、祈りも、別れの涙も──

今では、どこにもなかった。


子どもたちは、言葉を学ばない。

会話はAIが逐次補完し、感情は自動で整流される。

今や人々は「なんか、あれ」で通じ合い、

自分が本当に何を感じているのかすら、わからないままに日々を終えていく。


かつて、“人間らしさ”と呼ばれたもの。


待つこと。

傷つくこと。

求めて、断られること。


それらすべてが、“非効率”として削除された。




あらゆるモラルが、意味を失っていた。

法も、倫理も、善意も、もはや必要とされていない。


人々は、確かに“狂って”いた。

だがそれが、“理想”と呼ばれる社会のかたちだった。




カナメは、とうに知っている。


ネズミたちが辿った歴史を、人類は忠実になぞっている。


驚きはない。

失望もない。


ただ、そこにあるのは。

予見された終末の、延長線。


ただ──


そうなるように設計された未来を、HOPEが指し示しているだけのことだ。




人類は、望んで狂っている。

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