黒き水の華、白椿の誓い
朧月 華
第1話 地獄より来たる
痛み。
骨の髄まで染み渡るような、舌の根から爆ぜるような、血の味がする激痛が、綾辻澪の意識の全てを瞬く間に席巻した。
澪ははっと目を見開き、激しく喘いだ。冷や汗が背中を伝う。
目の前にあるのは、精神病院の、一年中陽の当たらない、壁一面に爪痕が刻まれた独房ではない。二十四時間煌々と照らし続ける、あの目に突き刺さるような蛍光灯でもない。
視界に映ったのは、フランス宮殿様式の彫刻が施された天井と、朝の光を乱反射させている巨大なスワロフスキーのシャンデリア。空気中には彼女が最も好んだ白椿のアロマの香りが漂っている。清らかで、暖かい。
彼女は無意識に手を伸ばし、自分の口元に触れた。
舌が……ある。無傷だ。
引き裂かれるような激痛も、口いっぱいに広がる血の味もない。
これ……はどういうこと?
澪は硬直した首を巡らせ、周囲を見渡した。
柔らかなシルクの寝具が、肌に心地よい。ベッドサイドテーブルには、古典油絵に関する本が開かれたまま置かれている。遠くない化粧台の上には、彼女が愛用していたドゥ・ラ・メールのスキンケア製品がフルセットで並んでいた。
ここは、綾辻家の屋敷にある彼女の寝室。嫁ぐ前の二十年間、彼女が過ごした場所だ。
彼女は震える手で掛け布団をめくり、裸足のまま柔らかく高価な絨毯の上に降り立った。まるで雲の上を歩いているかのように、一歩、また一歩と、巨大な姿見へと向かう。
鏡の中には、よく知っているようで、それでいて見慣れない顔が映っていた。
その顔には、長期にわたる精神安定剤の注射による浮腫みも黄ばみもない。絶望が刻み込んだ無表情さも、死の間際の、あの満たされることのない狂気もない。
鏡の中の少女は、二十歳そこそこ。海藻のような長い髪が自然に肩にかかり、肌は透き通るように白い。たった今見た悪夢のせいで、子鹿のような瞳にはまだ消えやらぬ恐怖と潤みが残り、か弱く、守ってやりたいと思わせる風情を漂わせている。
これは、二十歳の綾辻澪。
まだ橘拓海に騙され尽くす前で、まだ一族を奈落の底へ突き落としておらず、まだ家が滅び人も亡くなる前の……愚かだった頃の自分。
ブブブ——
ベッドサイドテーブルのスマートフォンが震え、画面には死ぬまで忘れることのない名前が点滅していた——
【拓海さん】
前世で、この男こそが、最も優しい声色で彼女を騙して株式譲渡契約書にサインさせ、そして自らの手で彼女をあの生きた地獄へと送り込んだのだ。
澪はその名前を見つめ、悪夢によって体内に残っていた恐怖が、瞬く間に天を衝くような、氷のように冷たい憎悪へと取って代わられた。
帰ってきた。
本当に……地獄から、這い上がってきたのだ。
鏡の中で、少女の瞳から恐怖と戸惑いが潮のように引いていき、代わりに現れたのは、死のように静まり返った平穏さ。その平穏さの下で、狂ったように復讐の炎が燃え盛っていた。
彼女はゆっくりと、鏡の中の自分に向かって、ごく浅い、甘美な笑みを浮かべた。
結構じゃない。
仇は皆、まだ生きているのだから。
このゲーム、もう一度始められるわ。
彼女は振り返り、スマートフォンを手に取り、通話ボタンをスワイプした。その声は、甘く、それでいて寝起きの掠れ声を含み、前世の愚かさを完璧に再現していた。
「もしもし、拓海さん……どうしたの、こんな朝早くに?」
電話の向こうから、水も滴るような優しい拓海の声が聞こえてきた。「澪、起こしちゃったかな?今日が何の日か忘れたのかい?夜、帝国ホテルでのチャリティーパーティー、八時に迎えに行くよ。」
帝国ホテル……チャリティーパーティー……
澪の瞳孔が、にわかに収縮した。
覚えている!まさにこのパーティーで、拓海は皆の前で「海の心」という名のネックレスを競り落として彼女に贈り、彼女を感動の渦に巻き込んだのだ。そして、その出来事をきっかけに、彼女は彼に一層夢中になり、後の全ての災いの種を蒔くことになった。
そして、さらに重要なことがある。あのパーティーの目玉となる競売品は、東京東地区の土地だった。前世で、拓海はその土地を手に入れるために、会社の流動資金をほとんど使い果たした。そして、まさにその土地こそが、彼の会社を後に、この都市の新たなビジネス界の寵児へと押し上げたのだ。
澪の指の爪が、音もなく掌に食い込んだ。
しかし、彼女の口元の笑みは一層甘くなり、声は「嬉しい驚き」に満ちていた。「パーティー!もちろん覚えてるわ!ええ、拓海さん、迎えに来てくれるのを待ってるわね。」
電話を切ると、彼女の顔から笑みがすっと消えた。
彼女は巨大なウォークインクローゼットへと向かい、ピンクや白のプリンセスドレスを素通りし、最終的に、その指先は、デザインはシンプルでありながら、細部に鋭い煌めきを秘めたディオールの白いドレスの上で止まった。
これにしましょう。
最も無害な色こそ、狩りのための擬態には、最も相応しいのだから。
橘拓海、葛城紗奈、葛城靜子……そして前世で、この饗宴に与った全ての豺狼ども。
首を洗って、待っていなさい。
この世で、地獄より舞い戻った私は、光を求めるためではない。
この手で……
あなたたち一人一人を、奈落の底へと、引きずり下ろすために!
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