第28話 幸せな誕生日
談話室での思い出話は、花畑が出来上がりそうなほど弾んでいた。シアンは自分の記憶にない話を聞けることが面白く、ブルーも自分の知らないシアンの話を楽しんでいるようだった。中には「昔のことでしょ!」と言いたくなりそうな話もあったが、記憶のないシアンには興味深かった。
「シアンが産まれた日」セレストが話す。「お父様は大喜びだったのよ。産まれた報せを受けて仕事を放り出して帰って来たものだから、オペラモーヴ卿が引きずって連れ帰ったわ」
その姿が容易に想像できる、とシアンとブルーは笑った。それでも一時帰宅を許したのはオペラモーヴ卿の優しさだろう。産まれたばかりの我が子に一目でも会いたいと思うのは、きっとどの父親でも同じことだ。
「それから毎日、早く帰宅するために必死に仕事したのよ」
「当然だろう」ゼニスは肩をすくめる。「仕事でシアンに会えないのが辛く感じたものだ」
「父様ったら」と、ネイビー。「事務所ではあんなにキリッとしているのに、シアンの前ではデレデレだったのよ」
「あら、あなたたちだってそうよ」セレストが笑う。「手が空いたときに何度も会いに来ていたじゃない」
「それはしょうがないじゃない? 定期的にシアンの顔を見ないと勉強に集中できなかったんだから」
シアンはよく泣く赤ん坊だったとネイビーは話していた。おそらく、シアンが泣くたびにそわそわしていたのだろう。
「もちろん、ブルーが産まれたときもそうよ」セレストは微笑む。「あなたたちの一歳の誕生日はお祭り騒ぎだったわ」
「まあ」と、アズール。「毎年お祭り騒ぎのようなものだけど」
フォトアルバムは何冊もシアンだけで埋め尽くされており、ブルーの写真にはほとんどシアンが一緒に写っている。写真機は一般に広くは普及していないが、これだけの枚数を残せるのはさすが名門サルビア家と言える。
「誕生日が来るたびに、お前たちはできることが増えていく」
思い出を懐かしみながら言うゼニスは、優しい笑みでシアンとブルーを見つめた。慈愛に満ちた瞳であった。
「その成長を見届けられることが私の喜びであり、誇りだ。お前たちは私の自慢の子どもだ」
セレストも同意するように、そうね、と微笑む。
「あなたたちは大きな怪我や病気をすることなく、ここまで立派に育ってくれた。あなたたちの成長が私たちの喜び。これからも元気で笑っていて」
シアンとブルーは強く頷く。ふたりの幸福は家族が与えてくれたもの。無病息災で暮らすことがせめてもの恩返しだろう。そうでなくても、シアンは毎日、笑って過ごすつもりだ。愛情には愛情で応えるのが礼儀である。
「ところでシアン」と、セレスト。「今後の目標は何かしら?」
「直近の目標で言うと、王立魔道学院の入学試験に合格することです。将来的に父様の補佐になることを念頭に……でも、魔法学の研究もしたいですし……」
うーん、とシアンは首を捻る。王立魔道学院の講師に選ばれたとして、その道も魅力的だ。
「なので、どの道を選んでも困らないだけの知識を身につけようと思います。そのほうが勉強にも張り合いがありますし」
「素晴らしいわ」セレストは手のひらを合わせる。「七歳にしてすでに何年も先の将来を見据えているだなんて……」
シアンとして見ると「勤勉」だが、賢者として見ると「勉強オタク」そして「魔法オタク」である。賢者は新しい知識を身につけることに喜びを見出す。賢者には「器用貧乏」にならないだけの“脳みそ”を持っていると自負していた。おそらく、シアンもそれに負けないの能力を持っているだろう。きっと望んだものを手にすることができるはずだ。
ゼニスが優しくシアンの頭を撫でる。
「お前なら、どの道を選んでも見事に成し遂げるはずだ。お前の将来が楽しみだよ。きっと優秀な補佐になってくれる」
「はい。頑張ります」
期待値は重いだろうが、賢者はそれくらいのほうが本領を発揮できる。その努力に期待をされない虚しさも知っている。期待されているならされただけ結果を出せばいい。賢者とシアンならそれが可能のはずだ。賢者はそう自負している。
日が暮れて、アガットが夕食に呼びに来るまで歓談は続いた。それだけでもシアンは充分に幸福なことだった。自分に微笑みかけてくれる人が、自分が生きていることを喜んでくれる人がこんなにいること、それだけで胸がいっぱいだ。
思い出話やこれからの話は夕食が始まっても尽きない。彼らが笑っているのはいつものことだが、シアンの誕生日だと言うのにシアンより嬉しそうだった。
夕食が終わり、七人が落ち着いた頃、ダイニングの照明が落とされた。アガットがバースデーケーキをシアンの前に運んで来ると、灯された七本の蝋燭が、仄明るく家族の笑顔を映し出している。その光景は、まさに幸福であった。
見たことのない景色に、涙が溢れ出した。思い返せば、誕生日を祝ってもらったこと自体が、生まれて初めてだった。
『そういえば賢者様って、いまおいくつなんですか?』
『次の誕生日まで生きとったら九十九じゃな』
『じゃあ賢者様が百歳になるまでに伝説の騎士になってみせます! 期待して待っていてください!』
『一年延びたのう……。じゃが、楽しみじゃよ』
『はいっ!』
結局、誕生日を迎えることなく賢者は九十八で人生に終止符を打った。そうでなければ、生まれて初めての誕生日を祝ってくれたのはあの弟子だったかもしれない。彼女は無事、伝説の騎士になれただろうか。
スマルトに差し出されたハンカチで乱暴に顔を拭うシアンを、セレストが優しく、そして強く抱き締める。
「シアン。私たちのもとへ生まれて来てくれてありがとう」
(シアン。彼らのもとで生きていてくれてありがとう)
セレストに丁寧に顔を拭われてようやく涙が止まったシアンは、促されてやっと蝋燭の火を吹き消した。惜しみない拍手は、やはり気恥ずかしかった。
何度も何度も転生を繰り返し、幸福を追い求め、そしていつしか諦めていた。この手に届くものではないのだと、そう思っていた。最後の最期の転生も、そうやって終わっていくのだと思っていた。早々に余生を切り上げることも可能だが、この幸福はシアンが死ぬまで全身に浴びるべきだ。それを壊さないようにするのが賢者に課された最後の使命。天寿を全うするのも悪くない、そんなことを思ったのは生まれて初めてだった。
* * *
うふふ、と楽しげに笑う声で目を覚ますと、仄明るいランプに照らされて、シアンとウィローが遊んでいた。小さくなって泣いていたあの頃とは違う、幸福に満ち溢れた笑顔だ。
「おじいさん。僕、生まれて来てよかった。今日はとても幸せな気持ち」
「うむ、うむ。そうじゃな。愛してくれる家族のもとで暮らせるのは素晴らしいことじゃ」
ウィローがのそのそと賢者のもとへ寄って来る。しわくちゃの手で撫でると、その毛並みはより良質に感じられた。
「おじいさん、僕のところに来てくれてありがとう。こんなに幸せな気持ちになったのは初めてだよ」
「わしもそうじゃな。わしにとってお前さんのおかげじゃよ」
この幸福は、シアンは元々持っていたはずだ。それでも、辛い目に遭って来たことで正しく享受することができなかったのだ。悪意によって歪められた意識を、どうやら賢者は治すことができたようだ。それはまさしく、愛情であった。
ウィローがまたシアンのもとへ戻って行く。シアンの体に対してウィローは少々大きいが、彼に抱き締められることをウィローは気に入っているようだ。
「僕、みんなは本当に僕のこと好きなのかなって思ってた。本当にそうだったんだね」
「うむ、うむ。そうじゃな。彼らの愛は本物じゃよ」
「うん……。毎日、辛かったけど、みんなに心配かけたくなかったんだ」
その過酷な運命に立ち向かうだけの力が、シアンにはなかった。それがシアンの幸福を感じ取る針を弱めていた。そうして家族の愛を受け取れないようシアンを操っていたのだ。
「もう生きていたくないって思ってたんだ。生きていなくてもいいかなって、思ってたんだ」
「そうか、そうか。辛かったのう」
「でも、僕がいなくなったら、みんな悲しむよね」
「そうじゃな。みんなはお前さんを心から愛しとるよ」
「うん……」
賢者が訪れる以前と現在でシアンの態度が違うことを家族は承知しているだろうが、それでも受け入れるほどにシアンを愛している。その愛情は、この世界のすべての海を合わせたとしても足りないのではないかと賢者に思わせた。
「おじいさんが来てくれてよかった。もう辛くもないし、悲しくもないよ」
「そうか、そうか。わしもお前さんのもとへ来れたことは幸運じゃ」
「幸せって、こういう気持ちのことを言うんだね」
「うむ、うむ。そうじゃな」
七歳に満たなかった子どもが、注がれる愛情を実感できていなかったことは悲運だ。こうして笑っていると、もちろん年相応の子どもに見える。シアンが微笑みかけることで家族に安堵の色が見えると、たったそれだけのことだが、賢者がシアンのもとへ来たことにも意義を感じられた。
「僕もみんなを幸せにしてあげたいな。どうしたらみんなを幸せにできるかな」
「一番に簡単なことがあるぞい」
シアンが期待を湛えた瞳で賢者を見つめる。与えられた愛情を存分に受け取った紅玉は、星を湛えたように輝いていた。
「お前さんが毎日、元気に笑っていれば、彼らはそれだけで幸せじゃよ」
「そっか……。うん。じゃあ、いっぱい笑うね」
「うむ、うむ。そうじゃな」
ウィローがいつの間にか寝息を立てていると気付くと、うふふ、とまたシアンは笑った。
「お前さんは将来の夢はあるかの?」
「おじいさんにできることならなんでもいいよ。きっとなんでも楽しいよ」
「うむ、そうじゃな。では、わしに任せてもらおうかの。お前さんが楽しい気持ちで過ごせるよう、尽力しよう」
「うん」
これまで何度、転生を繰り返したかはもう憶えていないが、シアン・サルビアたったひとりを健やかに過ごせるようにしてやるくらいの力はまだ残っているはずだ。それをただの自負で終わらせないよう尽力しなければならない。
「僕、おじいさんも大好き。おじいさんも幸せな気持ちにしてあげたいな」
「うむ、うむ。もう充分すぎるほどじゃよ。お前さんのもとへ来たことが、わしにとって最も幸運なことじゃ」
「うん……。一緒に長生きしようね。約束だよ」
シアンが左手の小指を差し出す。賢者は骨張った小指で応え、何度も頷いた。こんな約束をしたのは初めてだった。
「うむ、うむ。そうじゃな」
「破ったら絶交ね」
「うむ、そうじゃな。人生はまだまだ長い。楽しみじゃよ」
「うん」
シアンは明るく笑う。この笑顔が二度と消えないこと。それはサルビア家の願いであり、賢者の決心だ。シアン・サルビアは幸せになるべき少年で、賢者はそのきっかけに過ぎない。この先、何十年とシアンが笑っていることは、家族と賢者にかかっている。骨張った肩にかかる責任感は少々重いが、そのためならこの魂を懸けてもいい。賢者は、少年の微笑みにそう誓った。
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