第22話 戻ってきたeveryday life
この日の目覚めは、これまでの人生の中で最も素晴らしい朝だった。頭の中の靄が晴れ渡るように軽やかで、苦しくもないし、悲しくもない。もう、嫌な夢とは最後のお別れ。辛い過去とはさようなら。そんな詩的な表現をしてもいい。間違いなく泰上級の寝覚めだった。
「シアン様、おはようございます」
最高の時間に火たるシアンに、マゼンタが優しく微笑みかける。無意識にウィローの毛並みを堪能していた。
「おはよう、マゼンタ」
「お加減はいかがですか?」
「もうすっかり良いよ。みんなに心配をかけちゃったかな」
「シアン様がお元気になられたならそれでいいのです」
子どもの回復力というものは素晴らしい、と賢者は思う。昨日はあれほど頭と体が重かったのに、それが嘘だったかのようにもうすっきりしている。九十八のじじいは何もしていないのに足も腰も重かった。少し部屋の中を歩くだけでもひと苦労。軽々と立ち上がれるのは実に総会であった。
マゼンタの手を借りて手早く着替えを済ませ寝室を出ると、ドアのそばでブルーが待ち構えていた。
「シアン! おはよう! 体はもういいの?」
「おはよう、ブルー。もうすっかり治ったよ」
「そう! 昨日は会いたかったのにダメって言われてたから、我慢してたのよ。元気になってよかったわ!」
「うん、ありがと――おっ⁉」
急に後ろから抱き上げられ、予測外の事態に驚き間抜けな声が出てしまった。シアンを抱き締めるのはアズールだった。
「おはよう、シアン。元気になったようでよかったよ」
「おはようございます、アズール兄様。ご心配をおかけしてすみません」
「元気になったならそれでいいんだよ」
「アズール兄様、ズルいわ! あたしだってシアンを抱き締めたいのに!」
「はは、シアンを見たらすぐに抱き締めないと」
「もー! 降ろしてよー!」
いつも通りの日常が戻ってきたようだが、いつも以上に騒がしいように思う。よほどシアンのことが心配だったと見え、元気なシアンを目の前に気分が高揚しているようだ。賑やかなほうがサルビア家らしいとも言える。シアンの胸中に広がるのは、温かな安心感だった。
「もう同じことがないように気を付けます」
「ああ、そうしてくれ。シアンが寝ているあいだ、気が気でなかったよ。もう無理はしないと約束してくれ」
「はい、約束します」
アズールも安堵したように微笑む。
賢者はこれまで、体調を崩すことを許されたことがなかった。そうなれば「役立たず」「貧弱」「怠け者」のレッテルを貼られるからだ。誰も看病なんてしてくれなかった。そばにいてくれなかった。だから、体調が悪くてもいつもと変わらない顔をするのが普通のことになっていた。
ブルーが地団太を踏んでいると、シアンはまた背後から別の手に奪い去られた。それはスマルトの手だった。
「俺たちだって、シアンが無理をしていることに気付いていなかっただろ。シアンが無理をしなくて済むかは、俺たち次第なんじゃないか」
「う、まあ……それはそうだが……」
「大丈夫です」シアンは微笑む。「もう無理はしませんから」
「そうしろ」
最終的にスマルトがシアンを床に下ろし、四人はダイニングに向かう。シアンは昨日はずっと寝ていたし食欲もなかったため、一度も食事を取らなかった。すっかり元気になった胃袋は
ダイニングに入るや否や、またしてもシアンを抱き上げる手があった。今度はネイビーだ。
「シアン、おはよう。元気になったみたいね」
「おはようございます、ネイビー姉様。もう元気です」
「それはよかった」
そこへ歩み寄って来たセレストは、シアンを奪い取ることはしなかった。その姿勢は優雅で、社交界の淑女として相応しい所作で、シアンの頬を優しく撫でる。
「おはよう、シアン。元気になってよかったわ」
「おはようございます、母様。ご心配をおかけしすみません」
「元気になったのなら、それでいいのよ。また可愛い笑顔をたくさん見せてちょうだい」
「はい」
朝の挨拶を終えて六人がテーブルに着くと、少し遅れてゼニスがダイニングに入って来た。いつもの席に着くシアンに気付くと、パッと表情を明るくした。それでも他の六人がすでに着席していたため、抱き締めたい気持ちは抑えたようだ。
「おはよう、シアン。体はもういいのか?」
「おはようございます、父様。もうすっかり元気です」
「そうか。これからは倒れる前に私たちを頼ること。いいな」
「はい。ご心配をおかけしてすみません」
ゼニスは満足げに微笑んで頷く。なんだかんだ一番に心配していたのは父なのではないか、とシアンは思った。
体調を崩しても叱責を受けないのは初めてだ。この愛すべき家族たちは、子どもが熱を出しやすいことを知っている。体調管理が不出来だとは思っていない。情けない、だらしない、なんて言うことはない。それが、賢者には初めてだった。
つつがなく朝食会が始まる。当たり前に目覚める朝、愛すべき家族と過ごす時間、朗らかに微笑みながら言葉を交わすこと。そのすべてが奇跡のように感じられた。
「そうだわ、シアン」セレストが言う。「クロム殿下から、勉強会のご依頼が来ているわ」
「勉強会……ですか」
「ええ。シアンに魔法学を教えてほしいそうよ。魔法に対応する戦術を勉強したいのですって」
「そうですか……」
シャルトルーズ王妃の長男のクロム王太子は、先日のお茶会で少しだけ魔法学の話をした。魔法一族の血筋でありながらその力を持たない生まれながらの騎士は、どうやらシアンの簡素な講義が気に入ったようだ。
「僕でよろしければ、ぜひ」
「ええ。では明日、一緒に王宮に行きましょう。私は王妃とお茶をしているわ」
「はい」
シャルトルーズ王妃は母セレストの姉であり、シアンの伯母である。だが「伯母様」と呼ぶのはあまりに不敬だろう。それでも、姉妹仲が良いことでシアンとクロムも多少なりとも親しみが生まれた。そうやって王家の役に立てるなら、シアンとしても本望だった。
* * *
ゼニスのいつにも増してパワフルなパワフルハグは、なかなか終わりを迎えなかった。昨日はあまりに心配だったようで、そろそろ仕事に行かないと、と言うシアンに、あと五分、と寝坊助のようなことを言う。そうこうしているうちにオペラモーヴ卿がダイニングに入って来て、口裏を合わせたようにスマルトがシアンを奪い取ると、ゼニスの襟首を掴んで引き摺って行った。馬車で待っていたが、ゼニスがなかなか出て来ないので痺れを切らせたのだろう。
スマルトの執務室に入ると、ようやく小さく息をついた。シアンが元気になっただけであんなに喜んでくれるとは思わず、気恥ずかしさと賑やかさの安心で心臓が高鳴っていた。
(ふうむ……愛されるというのは、心臓に悪いことなんじゃのう。この歳にして、新たな発見じゃ)
シアンの分の書類はいつもより少なく、スマルトの書類はいつもより多かった。さっさと終わらせて分けてもらえばいい、と考えながらペンを執る。気力は充分だった。
仕事をしていると時間はあっという間だ。スマルトが休憩を告げる頃には、書類の三分の二が片付いていた。
「明日の夜、この屋敷で夜会が行われる」
思い出したようにスマルトが言う。先日に話していた“定例会のような夜会”のことだ。
「お前についていてやれないが……」
「会場は広間ですよね。僕はブルーと一緒に部屋にいます」
「ああ。アガットは給仕に出るが、マゼンタとピアニーはお前たちについてやれるはずだ」
「はい。でしたら大丈夫です」
微笑んで見せるシアンに、スマルトは安堵したように頷く。
「定例会だから遅くまでかからないと思うが、お前たちはあまり部屋から出られない。ブルーはいつも会場に行きたがるが、あいつは社交界デビューをしていない。極力、部屋から出さないようにしてくれ」
「はい。ウィローがいるから大丈夫です。きっと一緒に遊んでいたら退屈しないですよ」
「ああ、そうだな」
呼んだ、とばかりにウィローがシアンのもとへ擦り寄って来る。ウィローは芸達者で、一緒に遊んでいれば時間など忘れてしまうはずだ。もしくは、一緒に勉強しようと言えば喜ぶかもしれない。引き留める方法はいくらでもあるだろう。
仕事を再開すると、こうしてなんでもない日常を過ごせるのがそれだけで幸福なことのように思えた。大袈裟かもしれないが、最後の最期に幸運を与えてくれたことを神に感謝してもいいかもしれない。幸せすぎて怖い、というのはこういう気持ちのことを言うのだ。いままで考えたこともなかった。
シアンが自分の仕事を終えて書類を分けてくれと言うと、スマルトはほんの数枚だけ分けてくれた。病み上がりに無理をさせないということだろうが、もう万全に働けるのにと思うと少々不服だ。だが、今日は致し方ないのだろう。
彼らはシアンのことを無理やりに聞き出すことはしない。それはシアンのペースを守るためだ。何をどう話すかは慎重になるべきだろう。シアンが被害を受けないために。
コンコンコン、と軽快なノックが響いた。どうぞ、とスマルトが応えるのでドアを開けたのはセレストだった。
「シアン、調子はどうかしら」
「はい。順調です」
「そう、よかったわ。魔法学研究の詳細を記した本を見つけたから、空いた時間に読んでおくといいわ」
セレストが差し出した分厚い本は、魔法学研究の基礎から順を追って書かれたもののようだ。少々埃っぽく、表紙も傷んでいる箇所がある。明日に予定されているクロムとの勉強会の予習のために引っ張り出して来たのだろう。これを読み込んでおけば、つつがなく講義をできそうだ。
「ありがとうございます。明日までに読んでおきます」
「夢中になりすぎないようにするのよ。寝る時間を削るなんてことのないように」
「はい。気を付けます」
セレストは満足げに微笑み、優しくシアンの頭を撫でて去って行った。賢者の中の探求心が疼く。早くこの本を熟読したいが、いまはまだ仕事が残っている。知識欲は一旦、傍(わき)に押し退けて、またペンを手に取った。
「読んでいてもいいぞ」
「うーん……きりのいいところまでやります」
「そうか。それにしても、クロム殿下が人から物を教わりたいと自分から言うのは珍しいな」
「クロム殿下は勉強がお嫌いなんでしょうか」
「魔法学は特にだろうな」
クロムは魔法の力を持たず、剣の道一筋といった様子だった。魔法を使えないことに負い目を感じているようにも見えたが、対魔法戦の剣術での立ち回り方を知ることに意欲を持ったようだ。シアンの講義が気に入ったらしい。
「お前をきっかけに興味を持ったなら、それは良いことだ。カージナルが言っていたように、王宮はお前の能力を知れば欲しがるだろうな」
「誰かのお役に立てるなら本望です」
「お前ならどこでもやっていけるだろうな」
「ありがとうございます」
久々に賢者の知恵を発揮するときが来たのかもしれないと思うと、なんともわくわくとした気分だ。それが次期国王の力になれるなら、足蹴にされてきた自分でも、この世に存在する意義を感じられる。あとは期待に応えるだけだ。
シアンは仕事をきりのいいところまで片付けると、すぐに読書に取り掛かった。新しい知識が身に付く喜びが心を震わせる。こんなにわくわくするのはいつぶりだろう。あまつさえ自分の知恵を人に授けることができるなんて、これほど賢者冥利に尽きることはないだろう。
* * *
セレストの言い付けを忘れて本に熱中し、スマルトに取り上げられることで時計を見ると昼食の時間だった。スマルトが言い付けるようなことはないだろうが、すでに四分の三を読み終えていることはなんとしても秘密にしてもらいたい。
「今度の日曜はついにシアンの誕生日ね!」
昼食の席で、ブルーが楽しげに言った。次の日曜日でシアンは七歳になる。シアンより、祝ってくれる家族のほうが楽しみにしているように見えた。
「いっぱいお祝いしなくちゃ!」
「うん、ありがとう」
「あたしが一番に祝うから! 一番目は譲らないわ!」
「じゃあ、競争ね」と、ネイビー。「毎年恒例の『誰が一番にシアンにおめでとうを言うか』大会の開催だわ」
(競争率が高そうじゃの……)
シアンの寝室で出待ちをしていれば確実に勝てるだろう。だが、彼らがそんな姑息な手を使うとは思えない。あくまで自然に、いかに出し抜くか。そういった勝負なのだろう。
「誰が一番目でも嬉しいです」シアンは微笑んで見せる。「祝ってくれる気持ちだけでも充分すぎるほどですよ」
それは嘘でも大袈裟でもない。誕生日を祝ってもらうなんて、いつぶりだろう。「おめでとう」だなんて言われたことがない。自分の誕生日が楽しみになるなんて思ってもみなかった。彼らと一緒なら、きっと楽しい一日になるだろう。
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