第10話 ホリデーサプライズ
『はは、弱虫がまた泣いてるよ。よく鳴く虫だな~』
『気持ち悪い。こっち見るなよ』
『せめてシルクだったら高く売れたかもな。残念だ』
『お前の父様に口利きしてくれよ。友達だろ?』
『俺に任せておけよ。友達だからな」
『お前ひとりじゃ何もできやしないからな』
「シアン」
穏やかな声に顔を上げる。重苦しい靄が晴れていくのを感じながら、蹲っていた体を起こした。周りには誰もいない。あの嘲笑が遠ざかっていく。
「シアン、こっちへおいで」
声に誘われるままに駆け出した。暗い暗い闇の中、ローブのおじいさんが手招きしている。膝をついて視線を合わせるおじいさんに、飛び込むようにして抱き着いた。
「うむ、うむ。怖い目に遭ったのう。もう大丈夫じゃ。わしのそばにおれば、怖いことなどもう何もない」
おじいさんは知らない人のはずなのに、どうしてこんなに落ち着くのだろう。胸中に広がる安心感が、その言葉が本当であることを証明しているようだった。
瞼の裏が白むので覚醒を自覚し目を開いた途端、シアンは飛び上がるようにして体を起こした。アズールが横寝の状態で隣に寝転んでいたからだ。すでにスーツを身に纏っており、寝惚けて来たというわけでもなさそうだ。
「アズール兄様……⁉」
「おはよう、シアン。なかなか起きて来ないから、心配になって起きるのを待っていたんだ」
「わざわざ添い寝している必要はないのでは……?」
「シアンの寝顔を拝んでいたんだよ」
にこやかに言うアズールに、シアンは大きく息をつく。あまりに驚いたせいで、心臓がばくばくと脈打って痛いくらいだ。
(寝起きドッキリというやつじゃの……)
それを嘲笑して面白がっているのであれば悪趣味だ。アズールに揶揄っている様子は見られないため、本当にただ単に純粋にシアンの寝顔を眺めていただけのようだ。
「心臓に悪いのでやめてください。心臓が止まります」
「え、ごめん……そこまで驚かせるとは……」
その後、マゼンタがシアンの着替えのためにアズールを寝室から追い出した。手早く身支度を整えて寝室を出ると、アズールは律儀にドアのそばで待っている。なかなか起きて来ないから心配した、というのは本当のことだったようだ。
ダイニングではすでに他の家族が揃っているが、父の姿だけなかった。それでもシアンとアズールが席に着くと、侍女たちが食事を運んで来る。
「父様はお待ちしなくていいのですか?」
シアンの問いかけに、セレストは優しく微笑んだ。
「父様は遅くまで仕事をしていたから、まだ寝ているの。しばらく寝かせてあげましょう」
「そうですか……」
週末に仕事を詰め込んで日曜の朝にのんびり寝るのはどこの世界でも同じのようだ。日曜の朝は何度も二度寝をするのが心地良いものであることは賢者も知っている。
食事を取っているあいだ、賢者の心はそわそわしていた。
(……わしも、寝起きドッキリやってみたい……!)
父とは接する機会があまり多くないため、たまにはそういった悪戯を仕掛けるのもいいかもしれない。せっかく親が強い関心を懐く子どもになったのだし、滅多にない好機だろう。賢者のなけなしの悪戯心に火が
家族団欒の朝食を終えたあと、シアンは父の寝室に向かった。他の五人は談話室に向かい、シアンにはマゼンタが同行する。廊下で待ってて、と声をかけると、マゼンタは明るく微笑んだ。
父ゼニスはノックの音にも気付かないほどよく眠っている。こっそり近付いてアズールのように添い寝をしようと思ったが、ゼニスは体が大きいためその隙間がない。ベッドに腕を乗せ、覗き込むように頭を乗せると、その微かな気配にゼニスは敏感に反応した。ふと目を開いたゼニスが、シアンを視認すると同時に飛び上がるように体を起こす。自分とまったく同じ反応に、さすが親子だとくすくすと笑った。
「なんていたずら小僧だ!」
ゼニスが楽しげにシアンを抱き上げる。子どもらしく笑い声を立てるシアンを、ゼニスは折れそうなほど力強く抱き締めた。
「ゆっくりお休みだったのに邪魔してごめんなさい」
「ああ、そんなことはどうだっていい。寝起きにお前を抱き締めることができて素晴らしい朝だ」
六歳の子どもだと一般家庭では親と同じ床についていることもあるだろう。貴族の家はその限りではなく、赤ん坊であっても個別の寝室がある。シアンも例に漏れず、父母と同じベッドで寝た記憶はあまりない。ゼニスがシアンを抱き締めるのは、いつも朝食後のダイニングである。
「人生最大の幸福かもしれんな」
「大袈裟ですよ」
「大袈裟なものか。私の幸せはお前の笑顔にかかっているのだからな。お前が笑っていれば、私はそれだけで幸せだ」
(大袈裟とは言えんようじゃの)
ひと頻り抱き締めたあと、満足した様子のゼニスはシアンを解放してベッドから立ち上がる。
「私は朝食を取って来るから、先に談話室で遊んでいなさい」
「はい」
これまでの人生で、人に悪戯を仕掛けたことはほとんどない。愛されていない子どもの悪戯は罪となる。その先に待つのは罰のみで、自分を追い詰める結果を選択するわけにはいかない。悪戯を仕掛けても笑ってくれる愛情は心地良かった。
談話室では、五人はひとり掛けやふたり掛けのソファについている。それぞれの気に入りの位置があるようだ。
「シアン、いらっしゃい」
セレストがシアンを自分の横に促した。他の四人が何も言わないところを見ると、シアンがセレストの隣に座ることに異論はないようだ。これがいつものことなのだろう。
「今週は忙しかったでしょう」セレストは微笑む。「仕事に加えて、カージナルの授業とピアノのレッスンもあったもの」
「とても楽しいです。ぼうっとしているよりずっといいです」
「ええ、そうね。意欲的で素晴らしいわ」
仕事のことはスマルトに教わりながら順調にこなせているし、カージナルの授業は新しい知識が身に付く。ずっと触れてみたかったピアノも習い、シアンの毎日はいままでの人生とは比べ物にならないほど充実していた。
「頑張っていて偉いわね」
「将来的に父様の補佐にしていただくなら、勉強は大事ですから。そうでなければ通用しません」
「あらまあ」と、ネイビー。「急に大人っぽくなったわね」
「確かに」と、アズール。「でも、前向きなのは良いことだ」
(中身は九十八のじじいじゃからのう)
話の中心はやはり自然とシアンになった。そうしていると、シアンの心もどこか楽しそうだった。いままで圧倒的な悪意に苦しめられ、家族にも素直な気持ちを話すことができずにいたのだとしたら、と考えると、賢者が口を動かすことで楽しい気分になれるなら、それはきっと良いことだろう。
話をしているうちに、ゼニスが朝食を終えて談話室に入って来た。当然のようにシアンを自分の隣に座らせるが、他の五人も異論はないようだ。団欒の場で文句を言っても仕方がない。
アガットがテーブルにティーカップを並べる。ティーポットから丁寧に注がれる液体は薄緑色だ。
(ほう……緑茶じゃ。懐かしい香りじゃのお)
この国が東洋からどの位置にあるのかはわからないが、文化を見ると西洋風に感じられる。東洋も西洋も存在しない世界に生まれ落ちたことも何度もあるが、こうして緑茶が手に入るということは、東洋とさほど離れていないのかもしれない。
ひと口啜ったブルーが、うえ、と顔をしかめた。
「渋い……それに苦い……」
「あらあら」セレストが微笑む。「ブルーには早いみたいね」
「うーん、確かに渋い」と、ネイビー。「砂糖とミルクを入れたら少しは甘くなるのかしら」
「それはやめておいたほうがよさそうです」
抹茶だったら話が別だったかもしれない、と思いつつ苦笑しながらシアンが言うと、ブルーが唇を尖らせる。
「シアンは平気なの?」
「確かに苦味はあるね。もう少し薄めに淹れたらブルーも飲みやすくなるのかもしれないよ」
「そうかしら?」
賢者はかなり濃いめにして淹れていたが、緑茶は茶葉を少なくして味を薄めにすれば苦味と渋みも抑えられる、というのが個人的な見解だ。賢者の淹れた緑茶を「濃すぎ」と言われたことは数知れない。それも好みの問題だと思っている。
(しかし、ティーカップに緑茶……湯呑が欲しいのう)
「そうだ、シアン」ゼニスが言う。「誕生日プレゼントは何がいいか決まったか?」
それなら湯呑、と言いそうになってシアンは慌てて口を噤んだ。緑茶を飲み込むふりをして、ひと呼吸を置いてから応えた。
「魔法書が欲しいです。王立魔道学院の試験で通用するような」
「そうか、わかった。厳選した物を用意しよう」
「ありがとうございます」
「シアン! いつ入学する予定なの?」
ブルーが前のめりで問いかけるので、シアンは首を捻る。
「うーん……まだ特に決めているわけではないけど……」
「でも、のんびりはしないつもりでしょ?」
「そうだね」
「いつ入学するか決めたら言ってよね⁉」
ブルーはどうしてもシアンと一緒に通いたいようだ、と苦笑しつつシアンは頷く。それから、兄姉に視線を遣った。
「兄様たちは何歳の頃に通われたんですか?」
「僕は十歳から六年間」アズールが言う。「スマルトは十歳から五年間。ネイビーは十一歳から四年間だよ。王立魔道学院は卒業の時期を自分で決められる。シアンはもうすぐ七歳だけど、その気になれば来年の入学も不可能ではないと思うよ」
「ダメ! そんなに急がないで!」
ブルーはシアンとともに通うことを望んでいるが、シアンの能力ではアズールの言う通りなのだろう。しかしそれでは、ブルーを待つために何年、通うことになるかわからない。いまからではブルーの勉強が追いつかないだろう。
「大丈夫だよ。自分が納得するまで時間をかけるから」
「ほんと⁉ 約束よ⁉」
「うん」
シアンとしては、兄たちが十歳なら自分もそれくらいが妥当ではないかと思っている。急いで入学したとしても、卒業が早ければ父の補佐にはなれないかもしれない。現在でも父には補佐がいるはずだ。若造に取って替わられることをよしとしないだろう。家族だけでなく外部の者にも認められるには充分な実力が必要だ。いまはそれを養うための時間である。
「そうだ。次の日曜、能力値検査をするぞ。不自然な上がり方をしていたら精密検査になるからな」
父の言葉に、五人きょうだいは揃って頷く。抜き打ち検査でなくてよかった、と賢者はこっそり安堵していた。
それまでに能力値を偽装しておけばいい。前回の鑑定は三ヶ月前。魔法学校で授業をまともに受けることができていなかったと考えると、能力値はさほど向上していないだろう。三ヶ月前の計測結果を参考にすれば充分のはずだ。
それからは、報告会のようなお茶会となった。ネイビーとブルーは父母に話したいことを話し、アズールとスマルトは仕事の進捗を報告した。シアンは特に話すことはなかったが、やはり何かと意見を求められる。そうして和やかな空間でのんびりと過ごし、途中で昼食のサンドイッチが運び込まれつつ、日が暮れるまで歓談は続いた。賢者はこれほど家族とゆったり過ごすことが初めてで、いままでにない穏やかな気持ちになった。
「シアン」
お茶会が解散になったとき、父がシアンを呼び止めた。母と兄妹が出て行くのを見送ると、ゼニスはおもむろに口を開く。
「ここのところ忙しくしているが、無理をしていないか?」
「いえ、まったく……」
首を傾げるシアンに、ゼニスは優しく微笑んだ。
「結果を出すことに焦る必要はない。お前が優秀なのは確かだが、そのまま自分のペースを保つようにな」
「はい。みんなのおかげで好きなようにできています」
「そうか。やりたいことがあれば、なんでも言うように。お前がやりたいと思ったことをやるんだぞ」
「はい」
賢者の魂が宿る前のシアンは随分と我慢をしていたようだ、と賢者は考える。それは自分を抑制していたのではなく、言いたくても言えなかったのだろう。愛する家族に心配をかけないために。そうしてシアンが口を閉ざしていたことを、父はいまでも案じているのだ。賢者にはシアンの心がすぐにわかる。これからは、シアンも我慢をしなくて済むはずだ。体の半分を借りている者として、それを家族にもシアンにも正しく伝えることが課された責任である。
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