【改訂版】転生賢者の麗らか貴族生活〜余生のつもりが過保護な家族に溺愛されて長生き待ったなしのようです〜

瀬那つくてん(加賀谷イコ)

第1話 溺愛モーニング

 ああ、この体ももう限界のようだ。

 随分と長いことってくれたものだ。

 次の転生で最期にしよう。死を見届けるのはもうたくさんだ。新しい体で数年も生きれば、もう充分。

 賢者の称号を冠して何十年になるのかは忘れたが、充分すぎるほど、働いて来た。

 もう私が手出しする必要はないだろう。彼らはきっと、もう大丈夫だ。

 さて、少し眠ろうか。

 ほんの少しだけでも楽しい余生になれば、きっとそれはとても良いことだろう。





   第1話 溺愛モーニング




 瞼の裏が白むので覚醒を自覚し、ゆっくりと目を開く。カーテンの隙間から覗く陽射しが、すっかり夜が明けていることを告げた。

「あら、やっと目が覚めたの」

 冷ややかな声に視線を向けると、長い金髪を側頭部で纏めたドレスの女性が覗き込んでいる。鋭く細められた緑色の瞳が、憎らしさすら感じられた。

「今度こそくたばると思ったわ。随分としぶといのね」

(……これは転生先を誤ったようじゃのう)

 この女性に見覚えはない。いままでの人生で一度も関わったことのない人物のようだ。自分の干渉し得ない部分で憎悪を向けられても困る、と彼は考える。早々に切り上げるのもひとつの手のように思えた。

 女性とは対照的に穏やかな微笑みを浮かべる老医師が、彼に優しく手を差し伸べる。

「起き上がれますかな」

 老医師の手を借りて起き上がると、ちょうど鏡台に自分に自分の姿が映り込んだ。真っ白な頭髪,真っ赤な瞳。これまでの人生で何度か出会ったことがある。アルビノという特性だ。女性の冷酷な態度も頷ける。女性は貴族のように見える。どうやらこの少年――現在の彼――は、その特性のために虐げられているようだ。

 転生早々、憂鬱な目覚めである。実に美少年であるが、過酷な環境に置かれるのはもうたくさんだ。

「バード、もう下がっていいわ」

 女性が老医師に言う。老医師は朗らかに微笑んだ。

「はい。では何か異変があればお呼びください」

「ええ」

 よっこらしょ、と重そうに腰を持ち上げ、老医師は部屋を出て行く。置いて行かないでほしい、と彼は思った。

(体は少年じゃが、精神年齢があの老医師より上であると考えると面白いのう……)

 女性が彼のもとへ歩み寄る。さてはてどんな精神的虐待を受けるものかと彼が身構えていると、女性は彼のそばに寄ってベッドに腰を下ろす。ぐい、と腕を強く引かれて目を丸くしているうちに、女性は彼を力いっぱい抱き締めた。それはもう強く、とても強く。

「ああもう本当に死ぬかと思ったのよ!」

 涙交じりの声が言った。おや、と彼は首を傾げる。彼の頬を手で挟んだ女性の緑色の瞳は、潤んで揺れていた。

「ああ、私の可愛いシアン……。あなたが目を覚まさなかったら、私は生きていけないところだったわ!」

 その瞬間、彼――シアン・サルビアの頭の中に、その女性の情報が流れ込んで来た。セレスト・サルビア侯爵夫人。シアンの母で、シアンを心の髄から溺愛している。先ほどのバード老医師はサルビア家の主治医だが、家の者以外の前では冷たくしているふうを装っているのだろう。バード老医師にはすべてお見通しなのだろうが。

(……これはなんとも、面白い余生になりそうじゃのう)

 そのとき、乱暴にドアが開け放たれた。バード老医師が出て来るのを見計らっている者がいたのだ。ふたりも。

「シアン! もう大丈夫なのか⁉」

「いつまで寝てるのかと思ったわ、この寝坊助さん!」

 ばたばたと寝室に入って来るのは、長兄のアズールと末妹のブルーだ。ふたりとも冷静さを欠いた様子でシアンに駆け寄り、ブルーは正面から、アズールはセレストの反対側からシアンに抱き着いた。

「まったく……僕の息が止まるところだったぞ!」

「あたしがお嫁に行くまで見守るって約束を違えたら、恨んでるところだったわ!」

 申し訳ないがそれについては責任を取れない、とシアンは心の中で呟く。よもや正直に「覚えていない」と言うわけにもいかないだろう。

(……孫がいたらこんな感じだったのかのう)

 サルビア侯爵家は五人きょうだいで、シアンだけアルビノだ。家族の顔と名前は思い浮かぶが、細かい情報は頭の中には入っていないらしい。賢者が転生した反動で欠落してしまったのかもしれない。

「えっと……僕はどうして……」

 口から出た言葉で、賢者は自分の中にシアン・サルビアと前回の魂である賢者がそれぞれ残っていることに気付いた。これまでの転生では、初めのうちは前回の人格が残っていたとしても、次第に前回の人格と現在の人格が混ざり合い、また別の者としての人格が生まれていた。現在の人格は覚醒時から消えることが多く、覚醒前の人格がどちらも残っていることは珍しかった。しかし、これでシアン・サルビアとしても自然に振る舞うことができるだろう。それは、家族にとって良いことのはずだ。

 シアン・サルビアが倒れた理由を彼は知らない。これほどの心配をかけたのだから、せめて原因くらいは把握しておいたほうがいいだろう。

「あなたは学校で倒れたのよ」と、セレスト。「辛い目に遭っていたのね。もう学校になんて行かなくていいわ」

 その理由の察しはつく。シアン・サルビアは学校で迫害されていたのだろう。少年の表情には気の弱そうな雰囲気が感じられた。どこの世界でもアルビノに対する偏見があるのは確かだ。それによる精神的負荷で倒れたのだろう。

「家庭教師を手配したわ。学校になんて行かないで、この屋敷で勉強しましょう」

「父様と母様がそれで構わないのなら、僕も構いません」

「もちろんよ。家業の手伝いをしてくれたら、外に行く必要もなくなるわ。ここでみんなと楽しく暮らしましょう」

 サルビア侯爵家は領地経営に加えて事業を経営している。残念ながら、頭の中に事業に関する情報はなかった。

「あなたは二日間も眠り続けたのよ。二度と目覚めなかったらと思うと、気が気でなかったわ」

 二日間も、とシアンは心の中で呟く。精神的負荷で倒れたとしても、それほど眠り続けるのは尋常ではない。彼の中に残ったシアン・サルビアの微かな記憶によれば、通っていたのは魔法学校。何かしらの魔法の攻撃を受けたか、賢者が転生して来た反動が負荷になった可能性も否めない。ただの少年が有するには、転生を繰り返した賢者の魂は重すぎる。馴染むには時間がかかるだろう。魔法攻撃を受けたのだとすれば、随分と悪質ないじめっ子がいたものだ。

「お腹が空いているんじゃないか?」アズールが優しく言う。「ちょうど朝食の時間だよ」

「着替えたらダイニングにいらっしゃい」セレストが微笑む。「みんな、あなたを待っているわ」

 三人は名残惜しそうにしながらも、揃って寝室を出て行った。入れ替わりで、侍女のマゼンタがシアンの元へ来る。マゼンタもシアンに仕える侍女でなければ抱き着いて来ただろうという表情だった。

「お目覚めになられて本当によかったです。本当に気が気でなかったんですから!」

 安堵したようにそう言いながらも、マゼンタは手際良くシアンの寝間着を脱がせる。口と手が別の生き物という特性の人物のようだ。侍女として優秀と言える。

「シアン様のいない世界なんて考えられません!」

「大袈裟だよ……」

「大袈裟なものですか! 皆様そうお思いですよ!」

 随分と心配していたようだ、とシアンは考える。シアン・サルビアの心身の健康度はわからないし、どういう状況で昏倒したのかも判然としないが、これまでの四人の様子から察するに、とても長い二日間だったことだろう。

(シアンが目覚めなければ、わしの人生は眠っているあいだに終わっていたということじゃな……。ま、そうなっていたとしても致し方あるまい)

 ドアが静かにノックされるので、どうぞ、とシアンは応える。顔を覗かせたのは執事のアガットだった。優しくも厳しい紳士で、若いながらも優秀な執事である。アガットは、シアンの髪を丁寧に整えるマゼンタに目を細める。

「マゼンタ。皆様がシアン様を待ち侘びていらっしゃるのですから、ここぞとばかりに独占しようとするのはおやめなさい。侍女の特権とは言わせませんよ」

「そんなつもりじゃありません! シアン様のおぐしを綺麗にするのは私のこだわりなんです!」

「そういうところを言っているのです。シアン様、たまに叱っていただけますと、マゼンタの仕事がもっと早く、効率的になるはずです」

「うん。わかった」

 マゼンタは不満げな様子だが、シアンとしてはこうして髪を綺麗に整えられるのは貴重な体験だ。いつも伸ばしっぱなしでボサボサな頭だった。鏡を見てみると、ツヤがありサラサラな細い髪が肩の辺りで整えられている。前髪が少し長めなのは、赤い瞳を気にしていたのかもしれない。これが自分の頭であるとはにわかに信じられないものだった。色は似ているが。マゼンタに整えてもらわなければ、いつも通りボサボサになるのだろう。それは少々もったいない気がした。それほど美しい頭髪だ。

(うーむ……実に美少年じゃ。五歳くらいかのう? 将来が楽しみじゃ。それにしても、随分と痩せた手足じゃのう)

「シアン様? どうかなさいましたか?」

「ん。ううん、なんでもないよ」

「そうですか? では、ダイニングに行きましょうか」

「うん」

 自分が立ち上がったときに隣の人間の頭が見上げた先にあるというのは、なんとも不思議な感覚だった。九十何年前はそうだったはずだが、さすがに昔のことすぎてよく覚えていない。老人の記憶は当てにならないものである。


 シアンがダイニングに入って行くと、すでに父母と長兄アズール、次兄のスマルト、長女ネイビー、末妹のブルーが、テーブルに着いてシアンを待っていた。六人の視線が一斉に集まるのは、少々気恥ずかしい気分だった。

「シアン! 目が覚めてよかったわ!」

 表情を明るくした三番目の長女ネイビーが、席を立とうとしたのを寸でのところで堪えたように見えた。シアンを抱き締めたかったと見えるが、もう朝食が始まるということで耐えたのだろう。

「目が覚めて本当によかった」父ゼニスが言う。「心配すぎて仕事が手に付かなくて部下に叱られたよ」

 強面を体現したような顔付きだ、とシアンは考える。朗らかに笑っているので気にならないが、そうでなければまともに目を見られなかったかもしれない。

「ご心配をおかけしてすみません。もう大丈夫です」

「そうか。それならよかった」

 テーブルに歩み寄ったシアンは、父の斜交はすかいの母の左隣に座るブルーの隣の椅子に手をかける。それを見たブルーが、あら、と首を傾げた。

「シアンの席はそっちよ」

「ん?」

 ブルーが指差すのは、上座の父の真正面となるテーブルの端の椅子。社交界であれば給仕が配膳のために立つ場所で、貴族が座る席ではない。しかし、賢者は閃いた。

(……なるほど。全員が平等にシアンの顔を眺められる咳、ということじゃな)

 ブルーの左隣に座れば、母セレストからシアンの顔が見えなくなる。長兄アズールの右隣に座れば、次兄スマルトと長女ネイビーがシアンの顔を見られなくなる。どちらに座っても父ゼニスの席からは見えづらい。その不平等を解消するための席なのだろう。

(……悪い気はせんのう)

 シアンが心の中でそんなことを考えているとは知らない六人は、シアンがその席に着いたことで満足げだった。

 すぐに給仕たちが食事を運んで来て、朝食は和やかに始まる。料理のあまりの美味しさに、シアンは感動していることを悟られないために必死だった。本来のシアン・サルビアには食べ慣れた味であるはずだからだ。

(ふむ……。シアン・サルビアは溺愛されておるが、馬鹿息子ではなかったようじゃな)

 手が自然に動くほどにテーブルマナーはしっかり身に付いているし、食事は他の六人と同じ物で贅沢している様子もない。なんでも美味しく感じられ、偏食でもないようだ。

(溺愛はしとるが、単に甘やかしているというわけでもなさそうじゃな。愛する子どもが偏見に晒されておるというのは、なんとも不憫なことじゃのう)

 貴族社会でなければ、もう少し許容されたかもしれない。彼らの愛情は同情によるものであるとも考えられるが、賢者としての経験上、本物の愛情のように感じられる。彼らの瞳に嘘はない。偽善などではない。

(愛されるのは良いことじゃが……少々重たいのう。うーむ……なんとも贅沢な悩みじゃな)

 愛されたくても愛してもらえない人間は大勢いる。賢者もそのうちのひとりだった。だから今世は、愛されたいと願っていた頃に比べたら天国のようなものだ。きっと、素晴らしい余生になることだろう。

「シアン? ぼうっとしてどうしたの?」

 セレストに問いかけられ、シアンはハッと顔を上げた。つい考えに耽ってしまった。他の五人も、案ずるようにシアンを見つめている。

「美味しくないかしら?」

「いえ、なんでもありません。とても美味しいです」

 シアンがそう言って微笑むと、ダイニングの端に控えていた料理人たちが胸を押さえたり目頭を摘まんだりと、感慨を表していた。

(……もしかしたら、家族どころか、屋敷中から溺愛されておるのかもしれんのう……)

 実に重たい愛だ。この小さな体で受け止めきれるだろうか。そんなことを思いながら、ただ料理に舌鼓を打った。



   *  *  *



 食事を終えると、椅子から降りようとしたシアンはあっという間にゼニスに抱え上げられていた。眉間にしわが寄るほどの強面だが、その笑みからシアンに対する深い愛情が感じられる。力いっぱいにシアンを抱き締める父は、賢者から見ればかなり若いほうだ。

「シアン! 心配させるのも大概にしてくれ。今度こそ心臓が止まるかと思ったぞ!」

「ごめんなさい……」

「父様!」ネイビーが不満げに言う。「高身長を活かして独り占めするなんてズルいです!」

 改めて床を見下ろしたシアンは、あまりの高さに思わずゼニスの肩に添えた手に力を込めた。よもや落とすなどという失態はしないだろうが、さすがに高すぎる。これは多くの経験を積んだ賢者でも未経験だった。

「お前たちこそ、屋敷で仕事をしていつでもシアンに会えるのだからズルいぞ」

 長兄アズール、次兄スマルト、長女ネイビーはそれぞれ事業と領地経営の手伝いをしており、、屋敷で各々の仕事に取り組む。末妹ブルーはまだ子どもで、屋敷に家庭教師を呼んで勉強している。母セレストも屋敷で仕事と魔法学研究をしている。父だけが屋敷の外で仕事をしているのだ。

「旦那様。そろそろご出立されませんと」

 アガットが淡々と言うと、ゼニスはまるで駄々を捏ねるようにシアンを強く抱き締めた。あまりの力強さに、胃に入れたばかりの料理たちが戻って来るかと思うくらいだ。

「まだいいだろう? 仕事で能力を遺憾なく発揮するために、これは必要な――」

 ゼニスの次に長身のスマルトが、呆れた様子でシアンを奪い取る。名残惜しそうなゼニスに、シアンは苦笑した。

「父様、いってらっしゃいませ」

「さっさと仕事を終えて帰って来るからな」

「はい。お待ちしています」

 ゼニスはシアンの頭を優しく撫で、ようやくエントランスに向かって行く。それを見送ると、スマルトが左腕でシアンを抱え直した。

「行くぞ」

「ちょっとー! まだ私が抱き締めてないでしょ!」

 ネイビーがスマルトのジャケットを引っ張るので、スマルトは少々面倒臭そうにしながらシアンを受け渡す。シアンを抱き締めるのは日課のようだ。

(……嘘偽りない愛情を全身に浴びると、こんな気持ちになるんじゃのう……)

 転生を繰り返し、生きた時間は九十八年より長くなったが、いままで味わったことのない気持ちだった。長く生きて来たのも悪いことではなかったのかもしれない。そんなことを思った。



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