第3話 板挟みのITエンジニア
内川祐介(うちかわ ゆうすけ)、四十八歳。
某有名IT企業に勤める課長職の管理職である。
家族は、五歳年下の妻と十八歳になる娘の三人暮らし。
新卒で今の会社に入社して以来、プログラミングやシステムマネジメントの業務に携わってきた。
三年前に課長へ昇進した年は、通常業務に加えて管理職研修にも追われ、目まぐるしい日々だった。
ようやく三年目に入り、少しずつ周囲を落ち着いて見渡せるようになってきたところだ。
課長職になって気づいたのは、「昔は先輩だった人たちが、今は自分の部下になっている」というやりづらさだった。
その中の一人は、納期をたびたび遅らせる上に、仕事を終えていないのにいつの間にか退社していることもある。
かつての上司も彼の扱いには手を焼いており、チームの士気を下げる要因になっていた。
課長に昇進してからの内川は、二つの大きな課題の狭間で喘いでいた。
一つ目は、かつての先輩社員がチーム全体の士気を下げていること。
そしてもう一つは、若手世代のモチベーションの低さだった。
具体的には、与えられた仕事量が残業を前提とする場合、「これ以上はできません」と言ってくる。
理想を言えば、残業などない方がいい。
だが、IT業界はいまだ人海戦術的な側面が強く、残業は“お決まり事”のようなものだ。
それでも月に三十時間程度で済んでいるのだから、内川としては「なんとか頑張ってもらいたい」と思っていた。
とはいえ——お決まりのパターンと言えば、それまでだ。
内川が入社した当時、IT企業といえば技術の最先端にあり、会社の設立自体もどこも新しかった。
徹夜や休日出勤が常態化し、月の残業時間が八十から百二十時間に達することも珍しくなかった時代である。
さらに、当時は「パワハラ」なんて言葉もなく、
上司の怒号が飛んだかと思えば、手にしていたPHSを床に叩きつけて壊す——
そんな光景も、そう珍しいものではなかった。
狂気に満ちたその日々を耐え抜いた内川からすれば、
今の職場環境はまるで別世界。
“ホワイト企業”どころか、真っ白すぎると感じざるを得なかった。
そんな、元先輩の部下と若手社員の間で板挟みになり、
任せているいくつかのプロジェクトは、どれも思うように進まない。
結局、尻拭いばかりが自分の役目になっていく。
――なんでこんなこともできないのか。
心の奥から怒りが込み上げる。
同時に、自分のモチベーションさえ日々削られていくのを感じていた。
ある日の部課長会議で、内川は現状の課題を報告した。
部長もその問題を把握してはいたが、
「他の部署に回すにしても、受け入れ先がないんだ」と言うばかりで、話はそこで止まってしまった。
上司と困った部下たちの間で、板挟みのまま過ぎていく毎日。
気づけば「もう転職したい」と思う気持ちが日増しに強くなっていた。
大手の転職サイトに登録するか、何度も指先がマウスの上で止まる。
だが、現実はそう甘くない。
家と車のローンだけで月十五万円。
転職しても、今の生活水準を保てるのか——不安が頭を離れなかった。
しかも妻は心配性で神経質なところがあり、
「リスクを負うくらいなら、このまま何とか耐えてよ」と言ってくる。
理解を求めても、返ってくるのは“我慢”という言葉だけだった。
耐えろと言われても、限度というものがある。
――そろそろ、俺のメンタルがポッキリ折れそうだ。
それが、いわゆる“メンタルヘルス”というやつなのだろう。
十八歳の娘は、国立大学に自宅から通っている。
アルバイトで少しずつ貯金をして、卒業と同時に家を出るつもりらしい。
あの母親のもとで育ったにしては、なんとも堅実な性格だ。
――自慢の娘だ。
親バカと思われようと、子育ては順調だった。
頭痛の種たちのせいもあって、仕事に集中できずにいた内川は、
「……はぁ」と深いため息をつき、
休憩がてら会社の自販機でブラックコーヒーを買った。
一口含んでみる。
「……うーん、旨い珈琲が飲みたい」
内川は無類の珈琲好きだ。
自宅では電動ミルで豆を挽き、細口のケトルでゆっくりと湯を回す。
ドリッパーを通して落ちてくる一滴一滴に、
心を静めるような時間が流れる。
香りを存分に味わうため、もちろんブラックで飲むのが好きだった。
土日の朝はマキネッタでエスプレッソを淹れる。
疲れている時はスプーン山盛り二杯の砂糖を加え、
芳しい香りと甘みが、張り詰めた心をほどいてくれる。
最近は本格的なミルクフォーマーも欲しいと思いながら、
小さなカップに注がれたエスプレッソを一口すする。
――ああ、この瞬間だけは、確かに生きていると感じられる。
その週末、内川はジョギングに出かけた。
仕事のストレスを振り払うように、いつもより長い距離を走る。
川沿いを渡る風が頬を撫で、どこまでも走れそうな気がした。
帰り道、ふと見慣れない路地が目に入る。
目を凝らすと、その奥に小さくも趣のある店があった。
普段のコースでは通らない場所だ。
足を止めると、蔦の這う壁に『とまりぎ』と書かれた小さな看板が見えた。
その瞬間、内川の鼻をくすぐったのは、たまらなく好みの珈琲の香りだった。
胸の奥で何かが弾けたように、テンションが一気に上がる。
急いで元来た道を引き返し、家に戻るとシャワーを浴び、
今度は自転車でその喫茶店へ向かった。
期待に心が踊る。
――カランコロン。
扉を開けると、小さなベルの音が心地よく響いた。
「こんにちは。初めてなんですけど、お席、空いていますか」
扉を開けながら内川が声をかける。
カウンターの奥にいたマスターが、穏やかに顔を上げた。
「いらっしゃいませ。おひとりでしたら、カウンターへどうぞ」
その声には、初対面でもどこか安心できる柔らかさがあった。
内川は促されるまま、カウンターの真ん中に腰を下ろす。
コーヒー好きの血が騒いでいた。
――どんなブレンドなのか、まずは確かめてみよう。
「オリジナルブレンドをお願いします」
それは店の“顔”とも言える一杯だ。
どの豆を、どんな割合で合わせるかで、その店の個性が決まる。
「かしこまりました。少々お時間をいただきますね」
マスター――徳田は、穏やかに一礼すると、
棚からブレンド用の豆が入った瓶を取り出し、静かにミルへと移す。
ガリガリ、と豆が挽かれる音が心地よく響いた。
その一連の動作を、内川は無意識のうちに食い入るように見つめていた。
自分がいつもやっている手順と重ねながら。
「……ケトルはやっぱり銅製がいいのか」
「おや、熱湯をグラスとケトルで行ったり来たりさせてる。なんのために?
なるほど、温度を落としているのか……勉強になりますね」
小さくつぶやきながら、自然と頬がゆるむ。
会社で荒んでいた心が、知らず知らずのうちに解れていくのを感じた。
やがて徳田がドリッパーにお湯を注ぎ始める。
ふわりと立ちのぼる香りが、店内をやさしく包み込んだ。
焙煎された豆の甘い薫りが、内川の鼻孔をくすぐる。
「……いい香りだ……」
その瞬間、胸の奥に溜まっていた疲れが、
ゆっくりと消えていくような気がした。
少し待つと、徳田が「お待たせしました。ブレンドコーヒーになります」と、
丁寧にカウンター越しにカップを差し出した。
この一見なんの変哲もない、リーズナブルな価格のブレンドが美味しければ——
この店は内川の中で“合格”だ。
そんなふうにやや偉そうなことを考える内川を、
徳田は穏やかな笑みの奥で、静かに観察していた。
四十年磨かれた眼は、客の気持ちを表情や仕草の端々から読み取っていた。
内川はカップの取っ手を軽くつまむ。
器の良し悪し程度ならわかるが、そこまでこだわりはない。
口に含んだ瞬間、ワインのように珈琲を少し転がす。
ちょうどいい温度、芳醇な香り、わずかな苦み。
その全てが絶妙なバランスで喉をすっと通っていく。
「……かなり美味しい」
独りごちたあと、内川は徳田に声を掛けた。
「マスター、とても美味しい珈琲ですね。秘訣は何かあるんですか」
徳田は手にしていたクロスを静かに置き、微笑んだ。
「ほほほっ。特別なことはしておりませんよ。
しいて言うなら——“美味しくなりますように”と願って淹れている、
それくらいです」
「そんなぁ。僕も珈琲好きで、自分でも淹れるんですが、
こんな味は出せません。ぜひ、秘訣を!」
徳田は「そうでしたか」と軽く頷き、
「申し遅れましたが、私、マスターの徳田と申します」と自己紹介した。
「あ、僕は内川です。珈琲が趣味で、自分でもよく淹れてます」
「それは素晴らしい。けれど、ご覧の通り、特別なことはしておりませんよ」
それでも内川は引き下がらない。
「うーん、何かあると思うんだけどな……」
理屈っぽい理系気質が顔を出す。
徳田はそんな内川を諭すように言った。
「では、内川さん。あなたのお話をお聞かせください。
こうして暇を持て余す老いぼれには、お客様の話が何よりの楽しみでして。
私が満足したら、秘訣をお教えしましょう」
――なんだこの人。変わったマスターだな。
でも、話せば秘訣が聞けるっていうなら、まあ悪くないか。
他人のほうが話しやすいこともあるし、
この際、鬱憤のひとつでも晴らさせてもらうか。
内川は口の滑りを良くするように、温かい珈琲をひと口飲んだ。
内川は静かに、徳田に愚痴をこぼし始めた。
会社での部下たちと上司の狭間で板挟みになっていること。
転職を考えているが、妻の理解が得られないこと。
普段は口に出せない悩みを、自然と吐き出していた。
徳田は目を細め、穏やかな声で応じる。
「なるほど……内川さんは会社と家庭、両方で悩まれているのですね」
――なるほど、なるほど……
何かを考え込むように、独り言をブツブツと漏らす。
数分後、徳田は柔らかな語り口で話し始めた。
「これは、じいの独り言としてお聞きください。
人には向き不向きというものがあります。その元先輩部下の方は、
プレッシャーに弱いか、納期に対する捉え方が他の人とは少し異なるようですね」
「また、モチベーションが低い若手の方は、自分なりのやり方で
気持ちの持ち方が変わることもあります。
どちらも一度、じっくり話し合い、解決策を模索するのが良いでしょう」
内川は目を大きく見開いた。
――まさか珈琲店のマスターから、こんなに的確なアドバイスをもらえるとは……
寝耳に水とはこのことだ。
自分の経験と比較しすぎていたことに、ふと気づく。
もっと、人それぞれの個性に合わせて柔軟に考えるべきだったのだ。
「上司にも、強気で提案を上げてみよう。
自分だけではどうにもならないときは、周りを巻き込むのも手だ」
自己啓発本に書かれていた言葉を、すっかり忘れていたことを思い出す。
胸の奥がすっと軽くなった。
「マスターの仰る通りです。正直驚きました。
心を見透かされたような気分です。
それで、妻とはどう接するのがいいのでしょう。もうお手上げで」
徳田は静かに頷き、内川の目を見据える。
「内川さん、自分の心に素直になってください。
あなたの人生は、奥さまのものでも、誰のものでもありません。
あなた自身が決めていいのです。
奥さまは漠然とした不安を抱き、それを不満として感じているのかもしれません。
でも、あなたが本音を話し、生活の安定を約束すれば、
奥さまは安心して、サポート役に徹してくれるでしょう」
内川は軽く息をつき、珈琲を口に含んだ。
「マスター、目から鱗とはこのことですね。
僕は理系出身だからか、人の機微を読むのが苦手で。
コミュニケーション能力は低くないと思うんですが、相手の考えていることが見えないことがあります。
きっと答えはそこにあるんですね」
温かい珈琲が喉を通るたび、胸の奥の詰まりがゆるんでいくのを感じた。
妻とは今夜にでも話してみよう。
部下たちとも、それぞれ面談して本音を聞かせてもらおうと思う。
「今日は本当にありがとうございました。
美味しい珈琲を飲みにきただけなのに、悩みまで聞いていただいて。
また、珈琲をご馳走になりに来ますので、結果をご報告させてください」
内川は来たときよりもずっと柔らかい笑顔になっていた。
残りのコーヒーを飲み干し、ふわりと香る豆の香りを胸いっぱいに吸い込む。
その香りと温かさが、疲れた心をゆっくり溶かしていく。
帰宅すると、妻の洋子に「今夜、話がある」とだけ伝え、二階の自室に戻った。
洋子は驚いた表情を見せる。
祐介はパソコンに向かうも、特に作業するわけではなく、
これから妻に相談する内容を頭の中で丁寧に整理していた。
しばらくして思いをまとめ、テキストに書き出す。
仕事の人間関係で悩んでいること
そのせいで転職を考えていること
ローン支払いに影響のない範囲で転職先を選ぶこと
洋子にサポートしてほしいこと
書き出すと、頭の中が珈琲の温かさのようにすっと落ち着く。
プリントアウトして、一瞥する。冷静さが少し戻ってきたのを感じる。
夕食は洋子と二人だけ。娘の麻実(まみ)はサークルの友達と外で食事を済ませるらしい。
交わす言葉は少なく、二人とも淡々と食事をした。
食後、洋子がコーヒーを淹れて持ってくる。
「…まだまだ、俺の方が上手に淹れられるな」
思わず笑ってしまう。張り合う自分が少し恥ずかしい。
でもその香りと味は、心をほんのりと温めてくれる。
祐介は先ほどのプリントを手渡した。
じっくり目を通す洋子の表情に驚きと切なさが混ざる。
「…祐介さんがこんなに思い詰めていたなんて。
どうしてもっと早く話してくれなかったの」
祐介は優しく諭すように言った。
「何度か話していたよ。ローンのこともあって、洋子の心配も分かっていた。
でも、これが俺の本音だ。できれば転職したい。
年齢的に簡単ではないかもしれないけど、
まずは会社の人間関係を整理してみる。
それでもうまくいかなければ、転職させてほしい。
そして、俺のためにサポートしてほしいんだ。
具体的に何かしてほしいわけじゃない。
優しい言葉や励まし、労いの言葉――応援してほしい」
肩の力が抜け、ふと視線を落とすと、A4の紙に洋子の涙が一滴落ちる。
その光景は、先ほど味わった温かい珈琲の一滴のように心を揺らす。
洋子の中で、昔の自分がよみがえる。
ー一緒にいるだけが夫婦じゃない。
お互いを尊重し、信頼して支え合うことができて初めて夫婦と言えるのだー
婚姻届けを出したときの誓いが、静かによみがえる。
祐介も、仕事に没頭し家庭を顧みなかった日々を思い出す。
深夜まで働き、寝静まった家族をよそに、ビールと簡単なつまみで済ませていた日々。
稼いでいるから多少の自由はいいだろう――
そんな傲りが、いつしか日常になっていた。
祐介はティッシュを渡す。
洋子はそれを受け取り、涙を拭いながら彼の手を握る。
二人の手の温もりが、コーヒーの温かさと同じように心に沁みる。
「祐介さん、応援したい。これまでごめんなさい」
「分かってるよ。俺も好き勝手して悪かった。
これからは一緒に人生を歩んでくれるか」
まるで二度目のプロポーズのように見つめ合う。
「えぇ、ぜひ隣に居させてください」
洋子の涙は止まらない。祐介も目が赤くなる。
長い沈黙が、二人を優しく包む。
手を握ったまま、互いの心が通い合うのを感じながら、祐介はそっと言う。
「洋子、大変だけど、一緒に頑張ろう」
洋子は決意に満ちた声で答える。
「はい。一緒に。そして祐介さんを支えます」
二人は微笑み合い、手を重ねる感触が温かく、
胸の奥からじんわりと広がる幸福感は、あの珈琲の香りのように静かに心を満たしていた。
週明けの朝、内川は決心して会社に出社した。
「おはようございます」とあちこちから挨拶が聞こえる。
内川も課長らしく落ち着いた声で「おはよう」と返し、自席に着いた。
胸の中で小さく、今日こそは前向きにやろうと自分に言い聞かせる。
朝のチームミーティングの後、年上部下と若手二人に面談を申し入れた。
まずは年上部下との面談だ。小さめの会議室に入る。
「忙しい中来てくれてありがとうございます。今日はチームの雰囲気を良くするために、
先輩の知恵を拝借したくて面談をお願いしました」
下から柔らかく接することで、本音を引き出す作戦。これは、『とまりぎ』のマスターから学んだ技だ。
話は意外とスムーズに進んだ。
結局、彼はタイムマネジメントが苦手だという。エンジニアとしては致命的な弱点かもしれない。
品質部門への異動を打診したら、彼は驚くほど前向きな反応を示した。
そのときの表情や言葉から、本来の熱意と意欲を感じ取ることができた。
内川は心の中で、少し安堵した。部長に報告し、品質部署への移動を進言しよう。
次に新人二人と面談する。一人ずつ、落ち着いた声で話を聞いた。
今年入社した新人はまだ学生気分が抜けきれていない。
内川は会社の理念や経営方針を説明し、チームの課題も理解してもらった。
残業の必要性についても都度確認し、納得してもらえた。
内川は少し肩の力を入れながらも、これで社会人としての自覚とチームワークが身につくだろうと安心する。
「まだ時間はかかるけど、信頼して見守ろう」と自分に言い聞かせた。
三年目の社員は、仕事量の増加に不満を抱えていた。
内川は自分の経験をもとに、プロジェクトリーダーと仕事量を調整して解決することにした。
こうして一人一人と向き合うことで、問題は整理され、少しずつ前に進む手ごたえを感じた。
理系だからコミュニケーションはあまり必要ない、と思っている人もいる。
でもそれは、ちょっとした勘違いかもしれない。
正確な情報をリアルタイムで共有するには、高度なコミュニケーション能力が必要だ。
役職が上に行けば行くほど、このスキルの重要性は増す。
内川は深く息を吐き、今日の面談で得た小さな学びを心に刻んだ。
「日々の積み重ねでしか身につかない」と、頭の片隅で自己啓発本の言葉を思い出す。
部長には年上部下の希望と素質を伝え、
開発から離れてもらうよう人事と他部署に調整してもらった。
肩の荷が下りた内川は、少し余裕のある気持ちで自動販売機に立ち寄った。
どこか味気ない缶コーヒーも、今日はほんのり旨く感じられる。
胸の中に、穏やかな達成感がじんわり広がるのを感じた。
「帰ったら、妻にこの報告をしよう。きっと喜んでくれるはずだ」
転職はもう少し先に伸ばし、部下たちの成長を信頼することに決めた。
エンジニアであっても、人との信頼関係が良い商品づくりにつながる。
いや、人との信頼こそが仕事の土台だ、と改めて実感した。
これからは、妻との時間も大切にしよう。
小さな決意が、内川の胸を温かく満たしていた。
次の休日、内川は『とまりぎ』に足を運び、カウンター越しに事の顛末を徳田に報告した。
今日も、飲みやすい温度まで丁寧に淹れられた珈琲が、一段と美味しい。
心の澱もなくなった今、内川は仕事と趣味のバランスを心から楽しめそうだ。
徳田はにこやかに言った。
「本当によかったですね。これも内川さんの頑張りが良い結果を生み出したと思います」
内川は少し照れ臭そうに顎に手を添えながら、声を弾ませた。
「マスターのアドバイス、効きましたよ。脳天に響きました。
おかげで目先の問題が解決に向かっていきました。マスター様様です。
ということで、珈琲を美味しく淹れるコツも、ぜひ教えてください」
徳田は変わらぬ笑顔で応える。
「この暇なじいを楽しませてくれて、ありがとうございます。
コツは特別なことはありません。お湯を糸のようにして、中心から少し外側に注ぐことです。
外周から回し入れるものと思っている方も多いですが、
珈琲粉に少しでも多くのお湯を掛けてあげるのがポイントです。そして、愛情ですね」
最後をキッパリ言い切る徳田の言葉に、内川は息を吹き出した。
「そうだったんですね。いつも外周から注いでいました。
愛情は…足りなかったかもしれません」
徳田は目じりを下げ、柔らかい笑みを浮かべる。
「そう言っていただけるのは、これ以上ないお言葉です。
接客業の私からすれば、”マスター冥利に尽きる”というところでしょうか。
…語呂は少し悪いですが。ほほほっ」
―ははは―と、内川も笑う。今日も、コーヒーと温かい雰囲気が心地よく店内に満ちていた。
しかし、この温かい雰囲気も、次にやってくる迷子人によって乱されるかもしれない…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます