第2話 年増のキャバクラ嬢
早川 幸代(はやかわ さちよ)、三十五歳。
職業は場末のキャバクラ嬢。
源氏名は栞(しおり)。
父親は結婚当初から酒ぐせが悪く、暴力は振るわなかったものの、
母親と幸代にはきつく当たることがしばしばあった。
幸代が四歳の時、両親は協議離婚。
母親に引き取られたが、父親が養育費の月十万円を入れたことは一度もなかった。
結局、築年数二十五年の古びた木造アパート、六畳二間に住むことになる。
トラックが通ると部屋はガタガタと震えた。
小学低学年まではそれも面白かったが、やがてクラスメイトとの生活レベルの違いを
痛感するようになる。
母はパートを掛け持ちし、高校まで行かせてくれた。
昼間はスーパーのレジ打ち、夜はキャバクラで働く生活。
疲れていた母とは会話もほとんどなく、家事は自然と幸代の担当になった。
高校を卒業するころには料理も上手になり、自分なりに自信を持っていた。
高校時代、幸代はコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。
そこでためたお金で、高校を卒業すると同時に一人暮らしを始めた。
いくつもの会社の面接を受けるものの、契約社員としても雇ってもらえず、
東京下町の小さなキャバクラで働くことになる。
母親と同じような道を歩んでいる自分を、どこか嘲笑う気持ちで
毎日をやり過ごしていた。
見た目の器量には恵まれていて、二十代前半までは人気キャバ嬢として羽振りもよかった。
常連客も何人もつき、ちょっとしたマンションに住めるほどの稼ぎがあった。
だが、二十代後半になると、目に見えて指名が減りはじめる。
同伴出勤も月に二、三回ほどまで落ち込み、
かつての勢いはすっかり影を潜めていった。
そして三十五歳になった今、同伴などまったくなく、指名もほとんど入らない。
若い子のサポート役として、ただテーブルにつくだけの日々。
月給はぐんと減り、木造二階建てのアパートの二階に細々と部屋を借りて暮らしている。
三十五歳ともなれば、普通はもう引退して自分の店を構えるものだ。
けれど、過去の経歴が足を引っぱり、銀行からの融資は通らなかった。
軍資金も心許なく、結局のところ、彼女はキャバ嬢を続けるしかなかった。
薄暗いネオン、安っぽい香水、アルコールの混ざった夜の匂い——
そんな世界にもすっかり慣れ、いまは希望もなく、ただ出勤を重ねるだけの日々。
寂しさを紛らわせるように酒を飲んだこともある。
けれど、どれほど飲んでも、心の穴がふさがることはなかった。
だから、無茶な飲み方はもうやめた。
いまは少しでも健康的に過ごそうと、休みの日は料理をして気を晴らしている。
誰かと食卓を囲むわけでもなく、自分ひとりで箸を動かす。
それでも、肉じゃがのじゃがいもはほくほくとして、甘辛い味が心に染みた。
そんな些細なことに、かすかな満足を覚える。
——誰かと一緒に食べたら、もっと楽しいのだろう。
そう思うたび、結局は何もできないまま、溜息だけがこぼれた。
ある休みの日、いつものスーパーへ買い出しに向かった。
けれど、その日は気分を変えて、いつもとは違う道を歩いてみた。
すると、これまで存在すら知らなかった、小さなカフェが目にとまった。
ツタが茂る塀のあいだから突き出した木の看板には、
控えめに「とまりぎ」とだけ書かれている。
幸代は、その看板に導かれるように扉を開けた。
——カラン、コロン。
小気味よいベルの音が、静かな空気にやさしく響く。
店内には、カウンターに常連らしき客が一人、
テーブル席に二人の客が座っていた。
妙に落ち着く空間で、幸代はいつのまにか
現実から少し離れた、別世界へ迷い込んだような感覚に包まれた。
マスターの徳田が、穏やかな声で言った。
「いらっしゃいませ。おひとりでしたら、カウンター席へどうぞ。」
幸代は案内されるまま、カウンターの左から二番目の席に腰を下ろした。
常連と思われる客とは、二つほど席を空けて座る。
テーブルの上に置かれたメニューには、
喫茶店らしい軽食と飲み物のほか、
甘味としてプリン・ア・ラ・モードとアイスクリームの文字が並んでいた。
「たまにはいいか」と思いながら、幸代はキリマンジャロとプリン・ア・ラ・モードを注文した。
店内をぐるりと見回すと、他に店員の姿はなく、
どうやら徳田一人で店を切り盛りしているらしい。
常連客は「いつものね」と軽く声を掛け、
その後は持参した文庫本を静かに開いた。
マスターは慣れた手つきで豆を挽き、ドリップの準備を整える。
細口のケトルから、糸のように細い湯がゆっくりと落ちていく。
たちまち店内には、深く香ばしいコーヒーの香りが広がった。
幸代は思わず鼻先をくすぐるその香りを深く吸い込み、
胸の奥がほんのりと温かくなるのを感じた。
十分ほどして、コーヒーと昔ながらの少しかためのプリン、
そしてホイップとアイスが添えられたプリン・ア・ラ・モードが
カウンターにそっと置かれた。
幸代の前に出されたのは、ウェッジウッドと思われる
苺柄のカップ&ソーサー。
彼女はそれを両手でそっと持ち上げ、
カップの縁を見つめながら「かわいい茶器だな」と微笑んだ。
——きっと、マスターは客ごとに器を選んでいるのだろう。
プリンも一緒にサーブされたので、幸代はカップをそっと下ろした。
心の中で「いただきます」と呟き、コーヒーをひと口啜る。
——美味しい。
キリマンジャロ特有の鋭い酸味を残しながらも、どこかまろやかで優しい。
尖りすぎず、舌の上で静かに広がる味わいだった。
幸代はその香りと温かさを、口と鼻でゆっくり確かめるように味わった。
すると、カウンターの向こうからマスターの徳田が穏やかに声をかけた。
「お口に合いましたでしょうか?」
幸代は少し驚きながらも、笑みを浮かべてうなずく。
「ええ、こんなに美味しいコーヒーは初めてです。
何か秘訣があるのですか?」
「それは企業秘密です。ほほほっ。」
冗談めかした笑いに、幸代も思わず頬をゆるめた。
「そうですよね。」
そう言って、いつもの“お店で見せる営業スマイル”を浮かべる。
けれど、その笑顔の奥には、久しぶりに感じた小さな温もりが灯っていた。
徳田は、その笑顔を見逃さなかった。
この女性は、長年接客業に携わってきた人だろう。
仕事の笑みを、いつでも自然に作れるタイプだと感じた。
幸代は、プリンの上にアイスをそっと乗せて、美味しそうに口へ運ぶ。
次にホイップクリームも添えて、一口。
そして小さくうなずく。その様子は、何かを比べて確かめているようにも見えた。
満足そうに微笑む姿からは、心の底から「美味しい」と感じているのが伝わってくる。
徳田は、甘味に浸っている幸代に穏やかに声をかけた。
「お客様は本日が初めてのご来店ですよね。
わたくし、ここのマスターの徳田と申します。」
無邪気にプリンを味わっていた幸代は、少し驚いたように顔を上げ、反射的に答えた。
「はい、初めてです。近くに住んでいるのですが、このお店の存在を今日初めて知りました。
栞と申します。」
幸代は、このマスターから悪意のようなものは感じなかった。
ただ、長年の接客の癖で、思わず源氏名を名乗ってしまった自分に気づく。
気まずさを覚え、誤魔化すように温かいコーヒーをそっと一口啜った。
「栞さん、ですか。お名前、素敵ですね。
もしよろしければ、この話し好きのじいに少し付き合ってはくれませんか。
もちろん、お食事の邪魔はいたしません。」
幸代は心の中でつぶやく。
“はぁ……突然なんだろう。この徳田というマスター、いつもこんな感じなのかな。
まあ、今日は暇だし、少しくらいならいいか。”
そう思いながら、口を開いた。
「えぇ、構いませんよ。徳田さんは、お一人でこのお店を経営されているのですか?」
言ってから、“あっ、やっちゃった……” と内心で舌を出す。
つい、仕事の癖で自分から話を振ってしまったのだった。
「栞さんのご想像のとおり、一人で営んでおります。
歳のせいか、性格なのかはわかりませんが……どうも一人のほうが落ち着くようでして。
その分、お店はこじんまりとやらせていただいております。
ところで、栞さんはお仕事もこのあたりで?」
徳田は、静かにカップを置きながら、相手の目を見た。
その瞳には、さりげない観察の光が宿っている。
彼の鋭い洞察力は、長年の接客で磨かれたものだった。
“栞”こと幸代が夜の水商売に携わっていることなど、店に入ってきた瞬間に察していた。
そんなことは露知らず、幸代はいつもの調子で穏やかに答える。
「いえ、電車で五駅くらい行ったところです。」
彼女の言葉は嘘ではない。
ただ、仕事を終えて帰るころには、すでに電車は動いていない。
閉店後の片付けを終えると、店のボーイたちが車で自宅まで送ってくれる。
もっとも、彼らは売上上位のキャストを優先するため、
最近は送迎サービスの会社を利用することも多くなっていた。
「そうですか。」
徳田は一拍置いてから、静かに微笑んだ。
「夜は冷えますからね。お気をつけてお帰りください。」
その一言に、押しつけがましさも、詮索もなかった。
ただ、相手を思いやる温度だけが、店内にふんわりと広がっていった。
徳田は、静かに言葉を紡ぐ
「今日はわざわざお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
これも何かのご縁でしょう。もし差し支えなければ、
面白い話でも、愚痴でも結構です。
他愛のないお話を、少し聞かせていただけませんか?」
“この徳田とかいうおじいさん、ぐいぐい来るわね。
なんだか面倒くさいわ……。軽くいなして、食べたらさっさと帰ろうかしら。”
そう思いながらも、幸代は仕事で鍛えた笑顔を浮かべて言った。
「そうですね……最近は、ちょっと仕事の売り上げが伸び悩んでまして。」
徳田は、その言葉に心の中でふっと微笑む。
“これは、少し面白い話ができそうだ。”
「どこもかしこも、“数字”ばかりの時代になってしまいましたね。」
徳田はカウンター越しに、静かに語り出した。
幸代の仕事に気付いていると悟られないように
あえて営業の売り上げについては触れないようにした。
「テレビの視聴率も、YouTubeの登録者数も、
何かと“目に見える成果”に人は縛られてしまう。
でもね、本当に大切なのは、その先にいる“誰か”に
どれだけ心を寄せられるか──私はそう思うんです。
年を重ねてみると、なおさらそう感じます。」
幸代はスプーンを持つ手を止め、しばし黙って徳田の顔を見つめた。
その目は優しく、けれどどこか寂しげで、
“説教”というより“人生のつぶやき”のように響いていた。
「……なんだか、変わったことを言う人ですね。」
幸代は小さく笑った。
「私の周りには、そんなことを言う人、いませんから。」
徳田は静かにうなずく。
「そうでしょうね。でも、誰か一人くらい、そう言う人がいてもいいと思うんです。
がむしゃらに頑張る人ほど、どこかで立ち止まる時間が必要ですから。」
その言葉に、幸代はふっと息を吐いた。
カウンターの上のコーヒーから、湯気がゆらゆらと立ちのぼる。
その香りに包まれているうちに、
いつのまにか心の中の“仕事の顔”が、少しだけ緩んでいくのを感じた。
「……そうかもしれませんね。」
そう言って微笑む幸代の顔には、先ほどまでの営業スマイルではない、
ごく自然な表情が浮かんでいた。
徳田はそれを見逃さなかった。
「いい笑顔ですね。」
穏やかな声でそう言うと、カウンターの奥で新しいコーヒーを淹れ始めた。
その手つきは、まるで古い友人に一杯を振る舞うように、丁寧で、優しかった。
アイスを食べ終えた幸代は、今度はホイップクリームをプリンに乗せ、
ひと口ゆっくりと味わった。
キリマンジャロコーヒーを啜ると、口の中で甘さと苦味が溶け合い、
心地よいハーモニーを奏でる。
「徳田さんの仰る通りです。
でも、世の中ってそんなに甘くないですよね。
どんなに真心を込めても、結局は若さや見た目に勝てないときもあります。
……最近では、営業スマイルばかりで、
心からの笑顔を忘れてしまいそうなんです。」
徳田は特に驚くこともなく、
静かに大きくうなずきながら、淹れたコーヒーを常連客の前に置く。
「それでも、栞さんの笑顔は素敵ですよ。
たとえそれが“営業用”だとしても、
見る人の心を温かくする何かがある──私はそう感じました。」
幸代は、まるで心を覗かれたような気がして、思わず目を逸らす。
“この徳田さん、妙に観察眼が鋭いのね。
……まあ、私だって負けてないけど。
でも、張り合っても仕方ないか。
どうせなら、ちょっと愚痴でも聞いてもらってスッキリしようかな。”
そう思いながら、両手でカップを包み込む。
まだ温もりの残るコーヒーを一口啜ると、
その香りに背中を押されるように、言葉がこぼれた。
「マスター、私──今年で三十五になるんです。
キャバクラでキャストとして働いていて……いわゆる“キャバ嬢”なんです。
普通、この歳になるとお店を構えて“ママ”になっている人が多いんですけど、
私、昔からどうも不器用で。
お店を持つこともできず、今ではすっかり“店で一番の年長さん”なんですよ。」
徳田は、その言葉を遮ることなく、静かに聞き続けた。
その表情には驚きも同情もなく、ただ温かな眼差しがあった。
──この方は、心の根がまっすぐな人だ。
テーブル席の二人組が会計を済ませにやってきた。
二人とも、美味しいコーヒーに感謝の言葉を残しながら店を後にする。
ーカランコロンー。
どこか温かみのある音が店内に響いた。
幸代は ーなんて落ち着くお店なんだろうーと、心の底から改めて感じていた。
少し冷め始めたコーヒーを口に運ぶ。それでも、香りはまだ十分に楽しめる。
徳田は二人組を丁寧に見送り、幸代の方へ向き直る。
「栞さんは、年齢に関係なくとてもお美しい方ですよ。
お店は経営の都合で若い子を優先しているのかもしれませんが、
栞さんのように美しい笑顔と所作を持つ方をぞんざいに扱うのは、間違いだと思います。
――ところで、お話は変わりますが。
何か特技といいますか、ご趣味のようなものはお持ちですか?」
幸代は、手にしていたカップを静かな所作でソーサーに戻し、微笑んだ。
「そうですね……。趣味で料理をよく作ります。昔から料理だけは自信があって。
休みの日になると、あれこれ作っては一人で食べているんですけどね。
味だけは、美味しいんですよ」
徳田はうなずきながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「栞さん、その趣味を活かしてみる気はありませんか?」
幸代は「急に何を言っているんだろう」と、あっけにとられた。
少し間をおいてから、首をかしげながら尋ねる。
「どういう意味でしょう?」
徳田は穏やかな口調のまま、しかし真剣な眼差しで言葉を続けた。
「そのままの意味ですよ。
実は、この近くに小料理屋がありましてね。
そこの女将がもう八十歳になられるのですが、
そろそろ店を任せられる方を探しておられるんです。
――そのお店を、栞さんに引き継いでいただけないでしょうか。
悪いお話ではないと思いますが……いかがです?」
「……えっ?」
幸代は思わず聞き返した。
まるで冗談を言われたような気がしたが、徳田の目は真剣そのものだった。
「わ、私が……お店を?」
「ええ。栞さんのように心のこもった料理を作れる方なら、
きっとお客さんもまた足を運んでくださいます。
料理には“人柄”が出ますからね。」
徳田はカウンターの奥から、手ぬぐいでそっとグラスの水滴を拭いながら微笑んだ。
その笑みは営業でも同情でもなく、まっすぐに幸代の“生き方”を見ているようだった。
幸代はしばらく黙ったまま、冷めかけたコーヒーを見つめた。
ほんのりとした苦味と、鼻に抜ける香ばしい香り。
この場所と同じように、穏やかで優しい。
――小料理屋の女将。
まるで別の人生の話のように感じるけれど、
心のどこかで何かが小さく灯るのを幸代は感じていた。
「……少し、考えさせてもらってもいいですか?」
「もちろんです。」
徳田はにこやかに答え、コーヒーのカップをそっと差し出した。
「冷めても、香りは残ります。人生も同じですよ。
時間が経っても、良い香りを放てる人になれる。私はそう思っています。」
幸代は思わず笑みをこぼした。
「……ほんと、マスターは詩人みたいですね。」
「いえ、ただの珈琲屋ですよ。」
徳田は肩をすくめ、また静かに笑った。
マスターの申し出に飛びつきたいと正直思った。
幸代は少し考えると、困ったような表情を浮かべ、
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干す。
それでも香りは芳醇で、心を静かに落ち着かせてくれる。
まだ迷いの中にいた幸代は、ゆっくりと口を開いた。
「徳田さん……願ってもいないお話ですが、少し考えるお時間をください。
三日後にまた伺います。その時にお返事をさせてください。」
徳田は満面の笑みでうなずいた。
「ええ。栞さんの人生に関わることですから、ゆっくり考えてください。」
その言葉に幸代は少し肩の力を抜き、
ほっとした気持ちで会計を済ませて外へ出た。
途中、買い物をしながらも、頭の中はぼんやりとしたままだった。
“小料理屋の女将”――それは願ってもない話。
けれど、お店を買い取るようなお金なんて持ち合わせていない。
キャバクラのキャストも決して恥じるような気持ちはなかった。
だた、年齢という壁があることをまざまざと思い知らされ、
希望が見いだせなくなっていた。
考えれば考えるほど女将になった自分は
もう一度、輝きを取り戻せるのではないかと思ってしまう。
「どうしたらいいのかしら……」
心の中で小さくつぶやく。
その夜は、ぼんやりとしながらも、
小料理屋の女将になった自分を想像しては、頬を少し赤らめていた。
一方で、徳田には正直にお金のことを話して、
お断りしようと心に決めていた。
三日後。
重い足取りで、幸代は再び『とまりぎ』を訪れた。
カウンターの真ん中に腰を下ろし、
マスターである徳田に静かに声をかける。
「コロンビアブレンドをお願いします」
その声は、どこか沈んで聞こえた。
徳田は、幸代がこの話を受け入れてくれるものと思っていた。
しかし、彼女の表情を見て、少しだけ胸に不安がよぎる。
それでもプロとして、顔には出さず、
手際よくコーヒーの準備を始めた。
ケトルからお湯を注ぐと、深入りしたブレンドの香りが
店内いっぱいに広がり、幸代の心をやさしく包み込む。
徳田は淹れ終えたコーヒーを丁寧にカウンターへ置いた。
幸代は小さく礼を言い、カップをそっと受け取る。
今日の器は“マイセン”の白磁。
繊細で、今にも壊れてしまいそうなその雰囲気は、
どこか幸代自身を映しているようだった。
そして――幸代は決心したように顔を上げ、きっぱりと言った。
「徳田さん、先日のお話……やっぱりお断りさせていただきます」
徳田は、初めて驚いた表情を見せた。
こんなに彼女にぴったりな話はないと思っていたからだ。
「どうしてでしょうか? 理由を聞いても構いませんか」
幸代は、熱すぎないコーヒーを一口含んでから答える。
「小料理屋の女将さん、ぜひやってみたい気持ちはあります。
自分の料理を誰かに食べてもらえるなんて、
これ以上の幸せはありませんから。
でも、その……」
言葉が途切れる。
意を決して、幸代は続けた。
「実は、お店を買い取るほどのお金がないんです。
ですから、もったいないくらいのお話ですが……
辞退させていただくしかないんです」
徳田は一瞬目を見開き――次の瞬間、ぱっと表情を和らげた。
「そうでしたか、心配はお金のことでしたか。
それなら、どうか気にしないでください。
今のお店は女将さんが権利を持っています。
ローンを組むような形で、少しずつ返していけば大丈夫。
しかも、お店が軌道に乗るまでは待ってもらえるそうですよ。
そしてなにより――無利子です」
徳田は、穏やかな笑みを浮かべて続けた。
「私が言うのもなんですが、こんな好条件、そうそうありません」
幸代はその言葉を聞くと、
胸の中で何かがぱっと灯ったような気がした。
お金の不安が消えると同時に、
小料理屋の女将という未来に、
心が大きく動き出すのを感じた。
満面の笑みを浮かべながら、幸代は言った。
「徳田さん……そこまでしていただけるなら、ぜひ女将をやらせてください!」
徳田も変わらぬ笑みでうなずく。
「そうですか。それは本当に良かった。
では、今度その女将さんも交えて一度お話ししましょう。
細かいことはその時に――構いませんね」
幸代は、願ってもない申し出に胸が高鳴った。
思わず頬がゆるみ、笑みを絶やさないまま言葉を返す。
「ぜひ……こちらこそ、よろしくお願いします」
その声には、迷いのかけらもなく、
新しい人生への期待が力強く込められていた。
徳田は他の常連客と話しながらそばを離れ、
幸代はそのコク深いコーヒーをゆっくりゆっくりと味わっていた。
しばらくして、幸代は席を立つ。
お会計を済ませると、徳田に向かって言った。
「よろしくお願いします。私の本名は、幸代と申します」
徳田も柔らかく応える。
「はい、かしこまりました。引き受けてくださって、本当に助かりました、幸代さん」
その丁寧な物腰は、まるで女将の珠子さんが話しているかのようで、
徳田と珠子さんの長い信頼関係が想像できた。
幸代はお店を後にし、人生で感じたことのない軽やかな足取りで家路についた。
キャバクラ店には、その日の夜のシフトで辞めることを伝えた。
今月分の給料は、後日振り込まれる予定だ。
新しい人生に胸をときめかせながら、幸代は思った。
「これからどんな料理を出そうかしら。
肉じゃがは定番にしようかしら……」
今から料理の腕を振るうことを想像するだけで、心が躍る。
こうして、幸代の人生の第2章が静かに始まろうとしていた。
夜空の星が瞬くように、心の中で小さな音がキラキラと奏でられるようだった。
後日、徳田と女将の珠子たまこ、そして幸代の三人で、
簡単な会食が開かれた。
珠子は、幸代が想像していたとおり――
和服がよく似合い、上品なグレーヘアが落ち着いた気品を添えていた。
背筋はまっすぐに伸び、所作のひとつひとつが美しい。
その姿は、まるでお店そのものの品格を映しているようだった。
幸代は、自然と珠子に好意を抱いていた。
「この方のお店を受け継ぐことができるなんて……」
そう思うと、胸がいっぱいになった。
三人で懐石料理をいただきながら、話し合いは驚くほどスムーズに進んだ。
土地の権利書は幸代の名義に変更されることとなり、
お店の借用書を新たに作成。
月々の返済額や、無利子であることが明記された書類に、
幸代はサインと印を丁寧に押していった。
朱肉の赤が紙にじんわりと広がるのを見つめながら、
幸代の胸の内には静かな決意が芽生えていた。
幸代は、「あぁ、やっと私の幸せがやってくるかもしれない」と、
胸の奥で静かにその喜びを噛みしめていた。
後日、店の外観を見てみようと思い立ち、
明るい時間帯に珠子の店を訪ねた。
『紗夜』と書かれた小さな木の看板が入口についている。
午前十一時。
煮物を作っているのだろう、芳しい香りが通りまで漂ってくる。
思わず、幸代のお腹が小さく鳴った。
店はこぢんまりとしているが、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
引き戸の横には、木で作られた札に「—準備中—」の文字。
木の温もりと、静かな街並みがよく似合っている。
幸代がしばらく外から眺めていると、
ふいに引き戸が開いた。
「あっ、幸代さん。どうかされましたか」
「いいえ。珠子さんがあまりにも素敵な方でしたので、
お店を一度拝見したくなって……。
でも、外から見させていただくだけのつもりでした」
珠子は柔らかい笑みを浮かべた。
「今、里芋の煮物を作っているの。味見してくださらないかしら」
その上品な物言いに、この店の品格の理由を見た気がして、
幸代は思わず胸が熱くなった。
少し小腹が空いていた幸代は、
どこか遠慮しながらも香りに誘われ、店の中へ足を踏み入れた。
中はとても暖かく、立派な梁が頭上を走り、
田舎の祖母の家に来たような懐かしさを覚える。
小さいながらも、丁寧に手入れされた心地よい空間だった。
カウンターの奥には、
さまざまな料理の下ごしらえが並び、珠子の几帳面さがうかがえる。
やがて、珠子は里芋を菜箸で丁寧に器に盛りつけ、
幸代の前へそっと置いた。
土の香りをわずかに残す里芋と、
甘辛い煮汁の匂いが鼻をくすぐる。
再び、幸代のお腹が鳴った。
「いただきます」
幸代は微笑みながら一口食べる。
その瞬間、珠子の優しさが口いっぱいに広がった。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「ごめんなさい……」
ハンカチで目を押さえる幸代。
あまりの温かさに胸がいっぱいになり、
これまでの苦労が一気にこみ上げてきたのだった。
珠子は静かに言った。
「大丈夫ですか? 大体のお話は徳田さんから伺っています。
どうぞお気になさらず、ゆっくり召し上がってくださいね」
その言葉に、幸代はさらに心を打たれた。
食べ終えると、深々と頭を下げて「ごちそうさまでした」と伝える。
珠子は少し腫らした目の幸代を見つめ、
「こちらこそ、大したものをお出しできなくてごめんなさいね」と微笑んだ。
恥ずかしさと感動が入り混じったまま、
幸代はもう一度深く頭を下げた。
店を後にすると、心も体もぽかぽかと温かく、
帰宅後もその余韻がふわりと残った。
幸代は台所に立ち、珠子の煮物を思い出しながら、
そっと包丁を握った。
※一カ月後※
幸代はお昼前から小料理屋『紗夜』に入り、
夕方の開店に備えて料理の下ごしらえを始めた。
ふわりと立ち上る出汁の香りが店内を包む。
今日の突き出しは「ひじき煮」。
体に優しい料理を出すことを、幸代は何より大切に考えていた。
その顔には、事前の準備をする今も、
心からの幸せをにじませる笑顔が浮かんでいる。
定番メニューは、「肉じゃが」「ポテトサラダ」「こんにゃくのピリ辛炒め」。
ほかにも、お刺身や焼き魚、から揚げなどの揚げ物もそろう。
どれもいつ食べても飽きず、
常連になってくれるお客さんも少しずつ増えてきた。
店が終わると、翌日の仕入れの準備を済ませて帰宅する。
翌日、幸代は『とまりぎ』に立ち寄り、カウンター席で
ここ一カ月の出来事を徳田に話した。
メニューについてのアドバイスももらいたくて、
作り置きを持参して食べてもらうようにと手渡しした。
徳田は嬉しさと照れを隠すように、両手で丁寧に受け取った。
やがて徳田は自分の仕事に戻っていく。
幸代は温かいコーヒーをゆっくりと味わい、
芳醇な香りと、今この瞬間の幸せをかみしめていた。
夕日が差し込み、ドアに嵌め込まれたステンドグラスが
光をさまざまな色に変え、店内を美しく染め上げる。
“カランコロン”。
今日も新しい物語が、ここで静かに始まろうとしていた。
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