第19章 怒り

額から、頬を伝う何かが落ちていく。

それが汗なのか、涙なのか、赤い雨のしずくなのか、もうわからない。




「……」




赤い雨は、室内に降り続けていた。

目を閉じれば、さっきの声が響く。




——『パパだぁ』




あの笑顔と声は幻だったのか?



いや、違う。

触れようとしたあの瞬間、確かに“ぬくもり”があった。




記憶ではない。

夢でもない。



「……リナ……っ……!」




呻くように声が漏れる。

シュンはゆっくりと顔を上げた。




病室はもう、かつての姿を失っていた。

ベッドも機材も消え、壁は波打ち、天井が赤い光を漏らしている。




そして、その中央に——


ぽつんと、小さなキューブが浮かんでいた。




半透明の赤。

その中心で、“娘の笑顔”が静かに揺れている。




シュンはキューブに駆け寄った。

「頼む……もう一度……リナに……ユイに……」




その時、ふいに胸の奥がざわめいた。

(……なぜ、ユイには会わせなかった?)




先ほどから、リナだけが現れて、ユイがいない。

まるで、誰かが見せたい部分だけを切り取って、差し出しているように感じた。




そう考えた瞬間、背筋を冷たいものが走った。

これはただの自然現象ではなく、誰かの意志が介入したものなのか?




となると、懐古病にも何かルールがあるのではないだろうか。




シュンの中に、怒りがこみあげてきた。

(リナを……ユイを……出し惜しみして、俺をいたぶっている?

 人の記憶を……道具みたいに弄んで……!)




キューブの中にある光を見つめる。




光に、リナが映っていた。


(…!く、くそ!!)




見れば見るほど、笑顔は鮮明になっていく。








一気に愛情が膨れ上がる感覚がする。


利用されているのではという怒りと、思い出に浸りたい愛情が


シュンの心をさらにかき乱す。




「パパ、あのね、このね、まるいお月さんってね。どうしてついてくるの?」

運転席のシュンに聞く幼い声。

「ふふっ、“なぜなぜ期”かしら」

「全く…勘弁してくれよ」




記憶が——




「パパこれあげる。丸いの。お石。」




浮かんでは消え、消えては蘇る。




「また来てね」——寂しそうな声が、耳の奥でこだまする。


「もうやめてくれ!!」




叫ぶと、キューブの中の映像がぶれた。

同時に、壁の“肉のような赤”がざわりと蠢く。


シュンはキューブへ、震える手を伸ばす。


「俺を……俺の思い出を……弄びやがって!」

「——リナは俺の中で生きてる!

 お前の作った“偽物の記憶”なんかに、渡してたまるか!!」




その声は、怒号というより祈りに近かった。

誰にも触れさせないために。

誰にも奪われないように。




そして——手のひらで、それを掴み、地面に叩きつけた。




——パリィイイイン!




破裂音と同時に、赤い光が四方に弾ける。

一瞬で、空間が反転した。




赤い草原。

赤い雨。

ただ、それだけが残っている。



呼吸が荒い。

心臓が破裂しそうだった。




その時——


すぐ近くから声がした。


「……消したのか。よくできたね。」

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