第5章 兄ちゃん
コウタのヘルメットの中で、荒い息遣いだけが響く。
「はぁ……はぁ……」
呼吸の音が、壁に吸い込まれて返ってこない。
この廊下も——
さっきまで無秩序に生まれていた“物たち”も——
すべて、自分の記憶の中にあるものだった。
廊下に備え付けられたリュック用の棚。
その一角に、見覚えのある白いシール。
「山岸 浩太」
右端がわずかに剥がれ、めくれ上がっている。
(本当に……あの時のまま……)
懐かしさと同時に、胃の奥が痛む。
胸の中で、過去の時間がねじれる音がした。
「……兄ちゃん」
耳の奥で、また声がした。
振り返る。
だが、誰もいない。
赤色空間の奥はもう、河川敷が完全に消えていた。
窓から見える景色こそ河川敷のようだが、ここは完全にコウタの母校を再現している。
(……)
コウタは棚に指を触れた。
指先に伝わる感触が、現実よりも温かい。
「——コウタ!!」
遠くで、シュンの声がした。
振り向けば、廊下の奥から彼がこちらへ走ってくる。
コウタはもう一度、前を向いた。
廊下の先。
かつて弟・ソウタが使っていた教室が、赤い光に包まれていた。
(兄ちゃん、こっちだよ)
幻聴のような、けれど確かに知っている声。
コウタはヘルメットとガスマスクを投げ捨てると
その声に導かれるように——
廊下の奥へと、駆け出していった。
一方、シュンはその背中を見失うまいと走った。
「コウタ! 待て!」
呼びかけても、返事はない。
声が届いていないのか、それとも——
届いているのに、聞こうとしていないのか。
どちらにせよ、様子がおかしい。正気ではないのかもしれない。
廊下の奥、コウタの姿が小さな教室の扉に吸い込まれていく。
「ソウタ! ソウタぁ!!」
その叫びが、異様な反響を伴って廊下まで響いてくる。
まるで名前そのものが、空間を揺らしているようだった。
(ソウタ……?誰だ……?)
シュンは息を切らせながら追いすがり、
教室の扉を激しく押し開けた。
「コウタ! 逃げるぞ! ここは危険だ!!」
——その瞬間。
教室の中で、時間が止まった。
教室の窓。
そこに張りつくように漂う、細かな赤い光。
空気が液体のように粘り、赤い雨粒が空中で制止している。
そして、教室の中央に“それ”はあった。
宙に浮かぶ、赤いキューブ。
一辺二十センチほど。
何かを封じたような、光を内側から漏らしている。
その光が、コウタの顔を赤く照らし出していた。
彼は立ちすくんだまま、その光を見つめている。
肩が小刻みに動いていた。
(……コウタ?)
一歩、踏み出した。
足音は聞こえない。
教室全体が——静止している。
埃も、雨粒も、すべてが止まった世界。
唯一、赤いキューブだけが、ゆっくりと脈打っていた。
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