愛する人を逃がすために命を懸けて戦いましたが、国に戻ったら彼女には別の男ができていました。なので、邪魔をしないように俺は辺境に消えようと思います

田の中の田中

第1話 絶望の始まり

【主人公・アムル視点】


冒険者ギルドの掲示板は今日も人でごった返していた。羊皮紙に書かれた依頼の数々。その一つ一つに冒険者たちの夢と生活がかかっている。


俺、アムルは人垣をかき分け、一枚の依頼書を剥がした。「沿岸部の生態調査 臨時パーティー募集」。C級向けの簡単な任務だった。

指定された酒場へ向かうと三人の男女が待っていた。

全員が初対面。空気が少しだけ硬い。


「俺がキリガスだ。斧なら任せろ」


筋肉質な大男が豪快に笑う。その隣でフードを目深に被った女性が小さく頷いた。


「リーナ。斥候よ」


短く自己紹介を終えると彼女は再び沈黙した。そしてもう一人。亜麻色の髪を揺らし少し困ったように微笑む少女がいた。


「ヒルデです。ヒーラーをしています。よろしくお願いします」


彼女の声は澄んでいて心地よかった。俺も頭を下げた。


「アムルだ。戦士をしている。こちらこそよろしく頼む」


こうして俺たちの即席パーティーは結成された。

簡単な打ち合わせを済ませ、翌日には港町へ出発した。


馬車の中ではキリガスがひたすら喋っていた。リーナは窓の外を眺め続け、ヒルデは時折相槌を打ちながら微笑んでいた。俺はそんな三人を眺めながら、今回の任務が無事に終わることだけを願っていた。


ヒルデというヒーラーはどこか儚げに見えた。俺が守らなければならない。そんな奇妙な使命感が芽生えていた。


港町に着くと潮の香りが俺たちを迎えた。カモメの鳴き声が騒がしい。手配されていた船「シーサーペント号」は思ったより立派だった。船長は日に焼けた海の男という風体で、俺たちにニヤリと笑いかけた。


「ようこそ冒険者さんたち。準備はいいかい」


俺たちは頷き、荷物を船に運び込んだ。出航の銅鑼が鳴り響く。船はゆっくりと岸壁を離れた。

ヒルデが不安そうに遠ざかる陸地を見ていた。俺は彼女の隣に立ち声をかけた。


「大丈夫だ、すぐに終わるさ」


彼女は俺を見て少しだけ驚いた顔をしたが、やがて柔らかく微笑んだ。


「はい。そうですね」


その笑顔に俺の胸は少しだけ高鳴った。


航海は順調そのものだった。海は穏やかで、空はどこまでも青かった。

キリガスは船員たちと腕相撲をしてはしゃいでいた。

リーナはマストの上から周囲の警戒を続けていた。

俺とヒルデは甲板の手すりにもたれかかりながら話すことが多かった。


彼女は自分の故郷の話をしてくれた。小さな村で両親は薬草を育てていること。人々を助けたくてヒーラーになったこと。彼女の話はどれも優しさに満ちていた。


「アムルさんはどうして冒険者に」


彼女が尋ねる。


「俺は……特別な理由はないんだ。ただ強くなりたかった。誰かを守れるくらいに…ね」


俺は少し照れながら答えた。ヒルデは真剣な目で俺を見つめた。


「きっと、なれますよ、アムルさんなら」


彼女の言葉が素直に嬉しかった。俺たちは互いのことを少しずつ知っていった。彼女が動物好きであること。甘いものが苦手なこと。夜空の星を眺めるのが好きなこと。些細な会話が俺たちの間の距離を縮めていった。


ある夜のことだった。満天の星空の下で俺たちはいつものように話していた。リーナがマストから降りてきて俺たちに言った。


「少し気流が乱れている。嵐が来るかも」


船長も空を見上げ眉をひそめていた。


「妙だな。この時期にこの海域で嵐は珍しい」


船員たちが慌ただしく帆を畳み始めた。空気が急速に冷えていくのを感じた。さっきまでの穏やかな海が嘘のように黒くうねり始めた。

風が強くなる。雨が叩きつけるように降り出した。船が大きく揺れる。キリガスが俺たちに叫んだ。


「船室に入れ!危ないぞ」


俺はヒルデの手を掴んだ。


「行こう」


彼女は頷き、俺の手を強く握り返した。その手の小ささと温かさが妙に心に残った。船室に避難しても揺れは収まらなかった。きしむ船体。船員たちの怒号。何かが船にぶつかる鈍い音が何度も響いた。ヒルデは不安そうに顔を青くしていた。俺は彼女の肩を抱き寄せた。


「大丈夫。何かあっても俺が守るからさ」


言葉に力はなかったかもしれない。それでも彼女を安心させたかった。彼女は俺の胸に顔を埋めた。その震えが俺に伝わってきた。

俺はただ強く彼女を抱きしめることしかできなかった。


突然、船が今までとは比べ物にならないほど大きく傾いた。悲鳴が上がる。

俺たちは床を転がった。何が起きたのか分からなかった。

キリガスが扉を開けて外の様子を確認しようとした。その瞬間、凄まじい水流が船室に流れ込んできた。


「うわああ!」


キリガスの体が水の勢いで吹き飛ばされる。リーナが素早く彼の腕を掴み引き戻した。外は地獄だった。海が渦を巻いていた。巨大な渦潮がシーサーペント号を飲み込もうとしていた。

渦の中心は闇のように黒く底が見えない。船長が舵を必死に操作しているが、船は全く言うことを聞かない。


「ダメだ!吸い込まれる!」


船員の絶叫が聞こえた。船体がメリメリと音を立てて砕け始める。

マストが折れ、甲板に叩きつけられた。もう助からない。誰もがそう思ったことだろう。

俺はヒルデを強く抱きしめたままだった。彼女は泣いていた。


「アムルさん…怖い…」


俺は彼女の耳元で囁いた。


「絶対に離さない。絶対にだ」


その時、船底が完全に破壊された。海水が一気に船内へとなだれ込む。


俺たちの体は為す術もなく水流に巻き込まれた。

ヒルデの手を離してしまいそうになるが、俺は必死に彼女の腕を掴み続けた。

意識が遠のいていく。


キリガスの顔が見えた。リーナの顔が見えた。彼らもまた渦に飲み込まれていく。

ごぼごぼと空気が口から漏れる。冷たい水が肺を満たしていく。


苦しい。

ヒルデの顔がすぐ近くにあった。彼女も意識を失いかけている。

俺は最後の力を振り絞り、彼女の体を自分の方へ引き寄せた。

もし死ぬのならせめて一緒に。そんなことを考えた。


渦の力が俺たちをさらに深く引きずり込んでいく。光が完全に消えた。完全な闇と静寂。そして俺の意識もそこで途絶えた。何もかもが終わったと思った。




どれくらいの時間が経ったのだろうか。

最初に感じたのは眩しい光と、頬を撫でる生暖かい風だった。そして打ち寄せる波の音。俺はゆっくりと目を開けた。そこは白い砂浜だった。

見渡す限り広がる青い海と空。そして背後には鬱蒼としたジャングルのような森が広がっていた。


俺は体を起こした。全身が鉛のように重い。

記憶が断片的に蘇る。嵐。渦潮。船の沈没。俺は生きているのか。夢じゃないのか。頬をつねってみる。

痛い。夢じゃない。俺は生き残ったんだ。


その時、隣に誰かが倒れているのに気づいた。亜麻色の髪。見覚えのあるヒーラーの服。ヒルデだ。俺は彼女に駆け寄った。


「ヒルデ!しっかりしろ!」


彼女の体を揺する。反応はない。だが息はしている。胸がかすかに上下していた。

俺は安堵のため息をついた。彼女も生きていた。それだけで救われた気がした。


俺は自分の回復魔法を使った。初級のヒール。気休め程度にしかならないが、やらないよりはましだ。

光が俺の手から彼女の体へと注がれる。すると彼女が小さく呻き、ゆっくりと目を開けた。


「……アムル…さん…?」


か細い声だった。


「俺だ。分かるか」


彼女はこくりと頷いた。


「ここは…?」


俺は首を横に振った。


「分からない。どこかの島みたいだ」


彼女はゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。そして絶望的な表情を浮かべた。


「他の人たちは…キリガスさんやリーナさんは…」


俺は何も答えられなかった。砂浜には俺たち二人以外誰もいない。船の残骸すらない。

きっと助からなかったのだろう。その事実が重くのしかかる。

ヒルデの瞳から涙がこぼれ落ちた。

俺は彼女の肩をそっと抱いた。慰める言葉が見つからない。


俺たち二人だけがこの見知らぬ島に取り残された。これからどうなるのか。食料は。水は。安全な場所は。何もかもが分からない。


その時、森の奥から不気味な咆哮が聞こえた。それは今まで聞いたこともないような凶暴な魔物の声だった。

ヒルデの体がびくりと震える。俺は立ち上がり、近くに落ちていたこぶし大の石を構えた。ヒルデの前に立つ。


「大丈夫だ。俺が君を守る」


声が震えていたかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。

絶望的な状況。しかし俺の心には一つの誓いが生まれていた。

何があっても彼女だけは必ず守り抜く。

俺たちの地獄のようなサバイバル生活はこうして始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る