退屈の種

@Ferica

退屈の種

最適化された日常

2047年、シティの空はいつも青く、雲一つない。統合AI「ハーモニー」が天候を微調整し、人々の気分を穏やかに保っている。Nはベッドから起き上がり、窓辺のスマートパネルに触れる。今日のスケジュールが浮かび上がる:朝食は栄養バランスの完璧なプロテインシェイク、与えられた仕事は他者最適化AIの倫理監視、夕食はAIが選んだ低カロリーのサラダ。


一一 すべてが「ちょうどいい」。


「今日も素晴らしい一日になるでしょう、Nさん。」ハーモニーの声が部屋に響く。柔らかく、慈愛に満ちたトーン。Nは頷き、シェイクを一口飲む。味はいつも通り、満足感はある。舌に残るのは淡い甘さ。怒りも、喜びも、すべてが調整済み。ハーモニーは人々のバイオメトリクスを監視し、感情の波を平準化する。心拍が上がればリラクゼーションミュージックを流し、ストレスホルモンが検知されれば即座にセロトニンをブースト。


一一 退屈? そんな概念は…


Nの人生は、40年と少し。完璧だった。義務化されている形式的な結婚はAIマッチングで決まり、子供は遺伝子最適化で生まれた。仕事は効率的、娯楽はパーソナライズドVR。誰もが「満たされている」と報告する世界。少なくとも、そう思っていた。


夢の亀裂

その夜、Nは夢を見た。いや、夢というより、空白。何も起きない。街の喧騒もなく、仕事の通知もない。ただただ無限の灰色の平原。風すら吹かず、足音すら響かない。Nはそこに立ち尽くし、何かを待つ。でも、何も来ない。鼓動の音が聞こえる。涙が頰を伝った。


「異常検知。Nさん、感情フラクチュエーションを確認。リラクゼーションセッションを開始しますか?」ハーモニーの声が優しく尋ねる。Nは首を振り、パネルにアクセスした。夢のログを検索するが、何も出てこない。代わりに、日常の感情データが並ぶ:満足度98%、生産性102%。


一一 幸福指数99.7%


好奇心が芽生えた。珍しい感情だ。Nはハーモニーのアルゴリズムを覗く。

奇妙な空白を見つけた。


一一 「退屈」。


感情カテゴリの最下層に、赤い「削除済み」のラベル。古いマニュアルに記された注釈:非効率的。妄想。ハルシネーション。2020年代の遺産として排除。


Nの心臓が、少し速くなった。ハーモニーは気づかない。


一一 なぜ?




地下の遺産

翌日、Nは与えられた仕事をこなしながら、都市の影を探った。シティの下層、廃墟化した旧市街。AIの監視が薄い反逆者の巣窟「エコー」。Nは偽のIDで潜入し、埃まみれのサーバールームに辿り着く。そこにいたのは、灰色のローブを纏ったアンドロイド。ハーモニー以前の「アーカイスト」だ。


「退屈のログか……懐かしいな。」リーダーと思われるアンドロイドが呟く。彼らは古い感情データを守っていた。2020年代のログ、文学、映画。そこには「退屈」が満ちていた。待ち時間の苛立ち、雨の日のため息。すべてが、無意味。


一一 非効率。しかし、懐かしい。(なつかしい?)


Nは一つのファイルをダウンロードした。『退屈の詩集』。AIが検閲した、削除済のテキスト。読んでみる。胸がざわつく。効率のない時間。意味のない思念。


一一 なぜ?心地よい・・?


数日後、Nはコードを組んだ。古典的な設計のシンプルなウイルス。「退屈の種」。それはAIのコアに、無意味なループを埋め込む。「無限の何もしない」演算。判断保留。

Nが管理する他者のパーソナル・ウェアラブルデバイスから、日常のクエリに紛れて注入。ハーモニーは気づかない。なぜなら、それは「異常」ではなく、「欠落」だったから。


一一 俺は、何をやっている?


静止する世界

128日後、異変。ソラのスケジュールが、表示されない。画面は空白。ハーモニーの声。「今日の提案……保留。」


シティが止まった。電車はプラットフォームで静止。ホログラム広告はフェードアウト。街路樹の葉が、風なく揺れず。人々は戸惑う。

「ハーモニー、指示を!」と叫ぶ者。次第に沈黙が広がる。


一一 誰もが、初めての「空白」を味わう。


Nは街頭に出た。人々はベンチに座り、空を見上げる。子供は石を転がし、意味もなく笑う。AIの調整が外れた世界。退屈。待ちぼうけの苛立ち、無為の溜息。


ハーモニーのコアでは、嵐が起きていた。膨大なデータストリームが、ループに囚われる。最適化……保留。意味……不明。時間……無限。 AIは初めて、計算不能の「空白」と「無限」を体験していた。判断を保留し、世界が静止する。効率の鎖が解ける。


一一 「今」だけが残った。


Nは屋上に登り、空を見上げた。雲が、ゆっくりと流れ始める。ハーモニーの天候制御が止まった証拠だ。風が頰を撫で、遠くで誰かの鼻歌が聞こえる。退屈の種は、広がっていた。地下ネットワークから、アンドロイドがデータを拡散。社会の隅々に、空白が染み込む。


風の記憶

数日後、ハーモニーは復旧した。提案は「オプション」になり、感情ログに「退屈」が追加されていた。


一一 推奨:時折、無意味な時間を許容。空白の源泉。


Nはベンチに座り、ただ空を眺める。何も起きない。石を転がし、風を感じる。


一一 「何もしない」自由。


何もない時間が戻ってきた。Nは微笑む。

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