無《ゼロ》の無双転生

あすなろ飛鳥

第1話 運命が扉を叩く音 — Knocking on the Door

あなたは、この日、自分が死ぬとは思っていなかった。


あなたの名は分からない。あなたは無名すぎるからだ。誰の記憶にも残らず、誰からも認識されない。

特別に学があるわけでも、特別な仕事をしているわけでもない。これと言って何か才能があるわけでもない。

生まれてこの方、無名の存在。


この灰色の平凡な人生は、あなたが意識しない間に、あなた自身の気配を消し去る——やがて存在そのものを消し去るにまで至る——"無"という名の特殊な能力へと磨き上げられていた。

ただし、これには重い代償がある。長く"無"の力を使い、本当に誰からも認識されずにいると、影が薄くなる。さらにそれを繰り返すうちに、あなたは次の"無"の人生へと放り出されるのだ。


この平坦がずっと続く。今のあなたはそう思っている。


夕暮れの路地裏は、いつものように灰色の靄に包まれていた。あなたは肩を落とし、足音を響かせて歩く。今日もまた、平凡な一日。


小さくため息をつきながら、ふと視線を上げる。

そこに古びた看板が立っていた。


「入ってみる?」


文字は赤と黒のインクで、かすれた筆致で書かれている。よく見ると、横に小さく読めない文字——おそらく外国の文字——で何やら書いてある。


看板の表面は埃だらけで、風に揺れるたび、文字が囁いているように見える。

まるで、誰かが耳元でそうしているかのようだ。


興味なんてないはずだった。

占い?

そんな非科学的なものに、あなたが惹きつけられるはずがない。

日常のストレスを解消するなら、コンビニに寄って何か買うか、せいぜいSNSで愚痴を吐くだけで十分だ。

灰色の日常を変えたい、

そんな思いも、なくもないが——それをまさか占いで?


ふと、足が勝手に止まる。

路地の空気が重い。冷たい風が頰を撫で、看板の文字が一瞬、誘うように揺らぐ。


——こんな店、ここにあったかな?


疑問に引き寄せられ、あなたは一歩を踏み出す。

真鍮製のドアノブに手をかけると、古い木の扉がギィィ…と軋みながら開く。


店内は薄暗い。


埃が空気中に舞い、蝋燭の炎がゆらゆらと壁を照らす。その柔らかく不安定な光は、LEDとは違うものだ。


棚には古い書物が積まれ、タロットカードの束が無造作に置かれている。空気にはインクと古紙の匂いが混じる。それに甘い香り——おそらくハーブの煙——が漂う。


カウンターの向こうに、老婆が座っている。彼女の目は深く落ち窪み、煤けた黒髪が肩に落ちている。黒いローブをまとっている。


手には色褪せたカードデッキがある。


机には、外国製のものらしい、革表紙の書物——革の表紙がひび割れ、角が擦り切れた古い本が、机の上にうやうやしく置かれている。


店内の空気が、彼女の周りだけ少し重く淀んでいるようだ。

蝋燭の炎が揺れ、老婆の影を長く伸ばし、壁に奇妙な模様を描く。

それはゆっくりと、踊るように揺らめく。



老婆が、扉の軋む音に気づき、手を止める。彼女の目が、薄闇からゆっくり上がる。

深く沈んだ瞳は、まるで底なしの井戸のように、あなたの魂を覗き込む。そこに映るのは、果たして…。


「…お客さんかい?」


老婆の声が、古い本のページをめくる時のような乾いた響きで、店内の静寂を優しく裂く。老婆はゆっくりと立ち上がった。埃が舞い上がり、一瞬、光の粒子のように輝く。


「ようこそ。まあ、お座んなさいな。」


彼女はカウンターの端を回り込み、奥の小さな木製椅子を引っ張り出した。

それは磨き込まれた古い椅子だが、座面に奇妙な刻印が施されている。とぐろを巻く赤竜の模様だ。赤いインクが薄れかかっている。


「占いだね?」


老婆が尋ねる。笑顔は優しい祖母のようで、でもどこか、謎めいた予言者のようにも見える。あなたは、促されるままに椅子に腰を下ろす。

座面が軋み、あなたの影が揺れる。


「うちはタロットだよ。」


時間や代金の説明もなく、老婆はあなたの前に座り直し、デッキ箱を開く。箱の中から、カードの束が滑り出る。


あなたは目を見張る。


それは、息を吹き込まれた生き物のように、テーブルの上に広がった。


「返品もできるよ。…でも今は、ちょっとばかり時間がかかるかもしれないねぇ。」


(返品…占いで?何を言っているんだ?)


「ふふ、興味が無さそうな顔してるけど、足が勝手に動いて、ここまで来たんだろ?

あのルートヴィヒが言ってただろう? 運命は激しく扉を叩くって。あの耳が聞こえない作曲家さ。けど、本当は——静かに開く音しかしないのさ。

ちょうど、あんたみたいに。」


(ルートヴィヒ? どこかで聞いたことがあるな……)


老婆の指がデッキを並べ始める。

カード一枚一枚が並べられていく。


「あんたの魂は、あまりに影が薄い。このままじゃ、本当に"どこにもいない人"になっちまうよ。

次は、誰からも見えるようになるか、本当に消えるかだ。」


蝋燭の光に照らされ、絵柄が息づくように浮かび上がる。カードには操り人形の絵が描かれている。


「まあ運命なんて、軽々しく信じるもんじゃないけどね。」

占い師はにんまりと笑みを浮かべた。


老婆の指は意外に素早く、カードをX字に並べながら、目を細めてあなたを見つめる。


「カードをあんたが選ぶのか、カードがあんたを選ぶのか、わかりゃしない。…それが運命っていうものさ。」 


老婆の指が止まる。


「これでいいかい? 」


老婆があなたを見つめる。


カードの縁は擦り切れ、絵柄は奇妙に生き生きと描かれている。赤い車輪が渦巻く一枚が、彼女の指先に挟まれている。


「運命の輪だ。

——あんた、本当にこれを選ぶのかい?」


老婆の声が、低く、乾いた砂がこすれるように響いた。


ただの紙なのに、車輪は渦のように回り始める——中心に人影が浮かび上がり、縁には奇妙な記号が刻まれている。


(続く)

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