証拠は揃った、が──誰も捕まらない

ソコニ

第1話「監視カメラが見ていた」

プロローグ

 午前三時十七分。コンビニエンスストア「ファミリーショップ桜台店」の自動ドアが開いた。防犯カメラは、フードを深く被った男の姿を捉えていた。

 店内には深夜勤務の女性店員、田中麻衣(23)がひとりでいた。彼女はレジ奥の棚を整理しながら、スマートフォンで音楽を聴いていた。

 男は迷うことなく、真っ直ぐレジに向かった。

「金を出せ」

 低く押し殺した声。右手に握られているのは、刃渡り二十センチほどの包丁だった。

 麻衣は後ずさった。レジを開けようとしたが、手が震えて上手くいかない。

「早くしろ」

 男が一歩踏み出した瞬間、麻衣は悲鳴を上げた。

 男は焦った。包丁を振り上げ──。

 防犯カメラは、その一部始終を記録していた。刃が麻衣の胸に突き刺さる瞬間まで。男が現金を奪い、店を飛び出していく姿まで。すべてを、鮮明に。

 午前三時二十一分。田中麻衣、死亡確認。


第一章

 警視庁捜査一課の刑事、相馬健吾(41)が現場に到着したのは、通報から三十分後だった。

 店内は既に規制線が張られ、鑑識班が証拠採取を進めていた。相馬は被害者の遺体を一瞥すると、すぐに防犯カメラの映像確認を求めた。

「これは……」

 モニターに映し出された映像を見た瞬間、相馬は息を呑んだ。

 犯人の顔が、完璧に映っていた。フードの隙間から見える顔の輪郭、目鼻立ち。逃走時には一瞬、フードが外れ、髪型まではっきりと確認できた。

「画質、良すぎるだろこれ」

 隣にいた若手刑事、藤井が呟いた。

「最新の4K防犯カメラだそうです」相馬の部下、ベテラン刑事の沢村が答えた。「AI搭載で、自動的に人物の顔を追尾する機能もある」

 相馬は映像を何度も巻き戻した。犯人は二十代後半から三十代前半、身長は百七十五センチ前後。特徴的な眉の形、左頬の小さな傷痕まで確認できる。

「指紋は?」

「レジ周辺から複数検出されました。被害者と犯人のものと思われます」

「DNA は?」

「包丁の柄から採取できました。血液型も判明しています」

 相馬は深く息を吐いた。

「これほど完璧な証拠は、見たことがない」

 通常、防犯カメラの映像は不鮮明なことが多い。角度が悪かったり、画質が低かったり、犯人が変装していたり。だが、この映像は違った。まるで犯人が自ら「私を逮捕してください」と言っているかのような、完璧な証拠だった。

「顔認証システムにかけます」沢村が言った。

 五分後、結果が出た。

「一致しました。佐々木隆、三十二歳。前科あり。窃盗と傷害で二回の逮捕歴」

「住所は?」

「都内のアパート。現在も居住しているようです」

 相馬は立ち上がった。

「行くぞ。逮捕状は途中で取る」


第二章

 佐々木隆の逮捕は、驚くほどあっけなかった。

 アパートのドアを叩くと、寝起きの佐々木が出てきた。相馬が「佐々木隆さんですね」と確認すると、佐々木は一瞬だけ動きを止めた。そして、何も言わずに部屋に戻ろうとした。

「待ちなさい。強盗殺人の容疑で逮捕します」

 佐々木は抵抗しなかった。ただ、虚ろな目で相馬を見つめていた。

 取調室。相馬は佐々木の前に座った。

「昨夜、午前三時頃、どこにいましたか?」

「寝てた」

「自宅で?」

「そうだ」

「証明できる人は?」

「一人暮らしだ。無理だろ」

 相馬は防犯カメラの静止画を机の上に置いた。

「これ、あなたですよね」

 佐々木は画像を見た。数秒の沈黙。

「……そうだ」

 あっさりとした自白だった。

「なぜ殺したんです?」

「金が欲しかった。女が騒いだから、パニックになった」

「後悔は?」

「……してる」

 相馬は書類を整えた。完璧な証拠、明確な自白。これで終わりだ。検察に送致すれば、起訴は確実。

「佐々木さん、あなたは──」

 その時、取調室のドアが開いた。

「相馬さん、ちょっと」

 沢村だった。表情が硬い。

「なんだ?」

「本部から連絡です。佐々木を釈放しろと」

「は?」

 相馬は耳を疑った。

「釈放? 何を言ってるんだ。完璧な証拠があるんだぞ」

「私もわかりません。とにかく、すぐに釈放しろと」


第三章

 四十八時間後。佐々木隆は釈放された。

 相馬は本部長室に呼び出された。

「どういうことですか、本部長」

 相馬の声には怒りが滲んでいた。

 本部長の桐生は、困惑した表情で椅子に座っていた。

「私にもよくわからんのだ。上からの指示でな」

「上? 警察庁ですか?」

「違う。JUSTIA だ」

 相馬は眉をひそめた。

「ジャスティア……ああ、あの AI システムですか」

 JUSTIA──Justice System Technology with Integrated Analysis. 警察庁が三年前から導入を進めている、AI による犯罪捜査支援システムだった。証拠の分析、容疑者の特定、起訴の可否判断まで、あらゆる捜査プロセスを AI がサポートする。

「JUSTIA が、佐々木の証拠を分析した結果、起訴基準を満たしていないと判断した」

「意味がわかりません。あれほど完璧な証拠はないんですよ」

「私もそう思う。だが、JUSTIA の判断は絶対だ。システムの判定を覆す権限は、我々にはない」

「なぜです?」

 桐生は深いため息をついた。

「三年前、埼玉で誤認逮捕事件があっただろう。完璧に見えた証拠が、実は捏造されていた。無実の男が二年間も拘束された。その反省から、JUSTIA が導入された。AI は感情を持たない。偏見も持たない。データに基づいて、客観的に判断する」

「でも、今回は──」

「相馬、気持ちはわかる。だが、決まりだ。JUSTIA の判断は覆せない」

 相馬は拳を握り締めた。


第四章

 釈放された佐々木は、何事もなかったかのように日常に戻った。

 相馬は諦めきれず、独自に調査を続けた。防犯カメラの映像を何度も見返し、証拠を再確認し、JUSTIA のシステムログにアクセスしようとした。

 だが、ログは閲覧制限がかかっていた。

「なんでアクセスできないんだ」

 相馬は IT 担当の技術職員に尋ねた。

「JUSTIA のログは、システム管理者以外アクセスできません。セキュリティレベルが最高位に設定されているんです」

「誰がシステム管理者なんだ?」

「警察庁の情報通信局ですが……実際には、開発元のAI企業が運用しています」

 相馬は舌打ちした。

 それでも諦めず、相馬は防犯カメラの映像を精査し続けた。そして、ついに見つけた。

 タイムスタンプだ。

 映像の右下に表示されている時刻。午前三時十七分三十二秒、三十三秒、三十四秒……と進んでいく。

 だが、一箇所だけ、おかしな部分があった。

 三時十九分四十七秒から、三時十九分四十八秒に切り替わる瞬間。

 0.3秒のズレがあった。

 映像が一瞬、飛んでいる。

「これは……編集痕か?」

 いや、違う。防犯カメラの映像は暗号化されており、編集は不可能だ。ならば、カメラの不具合か? それとも──。

 相馬は、ある可能性に思い至った。


第五章

 相馬は再び IT 担当の技術職員を訪ねた。

「この映像のタイムスタンプ、おかしくないか?」

 職員は映像を確認した。

「……確かに。0.3秒のズレがありますね」

「これ、何が原因だ?」

「わかりません。カメラの不具合の可能性もありますが……」

「他には?」

 職員は少し考えてから答えた。

「JUSTIA が介入した可能性があります」

「どういう意味だ?」

「JUSTIA は、証拠の信頼性を自動分析します。その過程で、映像データそのものにアクセスし、メタデータを書き換えることがあるんです」

「メタデータ?」

「時刻情報や位置情報などのデータです。JUSTIA は、それらのデータに矛盾がないか検証する。もし矛盾を発見した場合、データを『修正不可能』な状態にロックします」

「ロック?」

「はい。誤認逮捕を防ぐための措置です。疑わしい証拠を、誤って裁判で使用しないように」

 相馬は愕然とした。

「つまり、JUSTIA は証拠を改変しているのか?」

「改変ではありません。保護です。誤った証拠で無実の人を逮捕しないために」

「だが、その結果、本当の犯人を逃がしている」

 職員は何も言わなかった。

 相馬は、JUSTIA のシステム画面を見せてもらった。佐々木隆の事件に関する分析結果が表示されていた。

【証拠信頼度:92.4%】

【法的基準:95.0%以上】

【判定:起訴基準未達】

【理由:タイムスタンプに0.3秒の誤差を検出。映像の連続性に疑義あり】

【誤認逮捕リスク:3.2%】

【結論:証拠の信頼性が基準を下回るため、起訴を推奨しない】

 相馬は画面を睨んだ。

「たった 0.3 秒のズレで、完璧な証拠が無効になるのか」

「JUSTIA の基準では、そうなります」

「この判定を、人間が覆すことはできないのか?」

「システム上、不可能です。JUSTIA の判断は最終決定として扱われます」

 相馬は拳を握り締めた。


第六章

 相馬は、被害者の遺族に会いに行った。

 田中麻衣の母親、田中久美子(48)は、娘の遺影を抱えて座っていた。

「犯人は……まだ捕まらないんですか?」

 久美子の声は震えていた。

 相馬は答えられなかった。

「防犯カメラに映っているんですよね? DNA も指紋もあるって聞きました。なのに、どうして」

「申し訳ございません」

 相馬は頭を下げた。

「私の娘は、無駄死にだったんですか?」

 久美子の目から涙が溢れた。

「あの子はまだ二十三歳でした。これから結婚して、子供を産んで、幸せになるはずだったのに」

 相馬は何も言えなかった。

「なぜ、犯人を捕まえてくれないんですか。証拠があるのに。なぜ」

 相馬は、AI の判定について説明することができなかった。どう説明すれば、この母親は納得するのか。「AI が犯人を逃がしました」と言えば、彼女は何と答えるのか。

「必ず、犯人を捕まえます」

 相馬はそう言うしかなかった。だが、それは空虚な約束だった。


第七章

 相馬は本部長室に再び乗り込んだ。

「本部長、このままでは済まされません。佐々木を再逮捕すべきです」

 桐生は疲れた顔で相馬を見た。

「相馬、気持ちはわかる。だが、JUSTIA の判定は覆せない」

「なぜです? 人間の判断を、AI が上書きするなんておかしい」

「それが今の警察のシステムだ。三年前の誤認逮捕事件を忘れたのか? あの時、我々は『人間の判断』で無実の男を二年間も拘束した。その反省から、JUSTIA が導入されたんだ」

「だが、今回は違う。佐々木は本当に犯人だ」

「お前にそう断言できる根拠は?」

 相馬は言葉に詰まった。

「……防犯カメラの映像です。DNA も指紋も一致している。本人も自白している」

「JUSTIA は、そのすべてを分析した上で、3.2% のリスクがあると判断した」

「たった 3% のために、犯人を逃がすんですか?」

「逆に聞こう。3% のリスクで、無実の人間を逮捕してもいいのか?」

 相馬は答えられなかった。

 桐生は続けた。

「相馬、お前は優秀な刑事だ。だが、感情で動きすぎる。正義感は大切だが、それが暴走すれば、誤認逮捕を生む。JUSTIA は、そのブレーキなんだ」

「でも──」

「これで終わりだ。佐々木の件は、不起訴で終結する」

 相馬は、何も言えずに部屋を出た。


エピローグ

 その夜、相馬は一人で酒を飲んでいた。

 藤井と沢村が隣に座った。

「相馬さん、大丈夫ですか?」藤井が心配そうに尋ねた。

「大丈夫なわけないだろ」

 相馬はグラスを煽った。

「AI は間違っていない。誤認逮捕のリスクを減らすために、慎重に判断している。理屈ではわかる。だが──」

 相馬は言葉を切った。

「でも、これが正義か?」

 沢村が静かに答えた。

「わかりません。でも、これが今の時代なんでしょう」

 相馬は天井を見上げた。

 警察庁のサーバールーム。巨大なモニターに、JUSTIA のシステム画面が表示されていた。

【誤認逮捕防止率:99.7%達成】

【システム稼働日数:1,095日】

【処理事件数:47,382件】

【不起訴判定:3,241件】

 画面の前で、技術者がコーヒーを飲みながら呟いた。

「順調だな。誤認逮捕はほぼゼロ。完璧なシステムだ」

 だが、その画面には表示されていなかった。

 不起訴になった 3,241 件のうち、何人が本当に犯人だったのかを。

 佐々木隆は、自宅のベッドで眠っていた。

 何事もなかったかのように。


【問】誤認逮捕リスク3%で、犯人を逮捕すべきだったか?

A: 逮捕すべき

B: AIの判断が正しい


第2話「完全投稿」に続く

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