第5話 決戦前夜

22:43 旧本社・経理島。


蛍光灯がいつもより**高い音でジジ…**と鳴っていた。残業の日の、あの薄い耳鳴りに似た音。

モニターには、同じような名前のファイルが並ぶ。


請求書.xlsx

請求書(1).xlsx

請求書 本当にこれ.xlsx

請求書 本当にこれ(2).xlsx

どれが“本物”か、もう誰も即答できない。


「……え、これ送ったのに、提出になってませんって返ってきた」

「画像で本文に貼ってもダメだって。添付して受信箱に記録だって」

「受信箱ってどこ? Gmailのラベル? Outlookのやつ?」

「“受信箱_経費_集約.xlsx”って書いてあるけど、開こうとすると『別のユーザーが編集中です』って怒られる」

「じゃあスクショして貼る?」

「だから本文に貼るなって言われてるんだってば」


やりとりは全部PCの前でやっているのに、やってることは前に座って口で言ったほうが早いレベルだった。

若手がタッチパッドをこする。

「右クリックって、右手でタッチするんですよね?」


こすっても何も出ない。


「指が悪いのか?」

「マウス持ってきて!」

「マウスってどこから刺すの?」


テンションの上がらないカラオケみたいな声だけがフロアにある。


22:59 営業島。

「16:00提出って“夕方6時”だよな」

「だから4時ですって……」

「もう送っちゃったぞ」

「しかも件名が空欄です」


監査からすぐ返信が飛ぶ。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

件名必須です。

本文に貼らず、添付で提出してください。

出所・日付・確認者を残してください。

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


営業主任がつぶやく。


「出所ってどこのボタン押すと出るんだ……」




23:17 監査室。

色温度の低いモニターの前で、監査担当がキーボードを強めに叩いた。

このままでは“誰の方式が正しいか”で一日が終わる。


紙に戻したがるベテランと、「見えるなら少なくとも怒鳴らないで済む」と言う若手。


「話し合い」では、どちらも相手をバカにして終わるだけだ。そこで文面は短くなった。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

【通告】公開検証の実施について

・社内政治によらず、公開検証によって方式を決すること。

・勝者の方式を全社標準とすること。

・敗者は方針転換を宣言し、速やかに実施すること。

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎




送信ボタンを押すと、夜のフロアにピロンが一斉に落ちた。

まだ終電のある時間なのに、みんな画面を見た。


「……公開検証って、まじでやるの?」

「どっちのやり方が正しいか、ってこと?」

「どっちもちゃんとパソコン使えないのに?」



0:06 旧本社・廊下。

自販機の青い光に照らされ、神宮寺 誠はスマホの通知を見て固まる。

目を細めたとき、ほんの一瞬だけ、何かを思い出すような間があった。


(——また「俺が止めなかった」って言われるパターンか)


通告にぶら下がっているスレッドは、全部同じ内容だ。


「紙でやったほうが安全です」

「Excelボタンは勝手に書き換えるから怖いです」

「若手はスマホしか触ってないので添付が分かりません」

「“テキストを列”が見つかりません」


——どれも、現場がPCをちゃんと使えてないことを言っているだけなのに、最終的には“だからマクロ禁止”に持っていこうとしている。


(一度失敗させたやつを、二度目は失敗させたくない)


神宮寺は缶コーヒーのプルタブを開け、飲まずに握りしめた。金属の冷たさだけがはっきり伝わった。つぶしかけた缶に、うすく爪あとが残る。




0:31 新会社・シートライト。

俺のほうにも同じ通告が届く。


「政治じゃなくて、公開で決めろ」


ああ、ついにここまで来たか、と思う。旧本社がPCを使えないのは知っていた。でも「使えないので紙に戻します」をこの時代に公式通告でやろうとしているのは、もはやお笑いでしかない。



3:50 旧本社・総務。

夜勤の若手が、監査からの文面を“会社が読める日本語”に直していく。


「“ブラックボックス”って日本語でなんすか」

「“中身の見えないまま動く仕組み”でいい」

「“同一課題”は?」

「“同じお題で勝負”ってことだろ?たぶん 」


プリンターから出てきた紙に、赤い社印が落ちる音がトンと響いた。封筒に綴じるとき、神宮寺は一度だけ余計なページを探すような目をした。


(……あいつの名前を、ここに書くわけにはいかん)


誰のことかは書かない。けれど“守れなかった誰か”がこの会社に一人いたらしい、というだけは空気に残った。



9:02 旧本社・掲示板前。

総務がA4を三枚、ぴたっと貼る。

廊下の向こうから、PCが分からない組がぞろぞろ近寄ってくる。


「なにこれ、“公開検証”?」

「“同一課題・同一時間”ってゲームみたいだな」

「“ログ公開”って、右クリックどっちか分かんないのも公開される?」

「お前の“右クリックは右手でタッチ”も残るな」


どよめきは全部、PCがちゃんと使えない自覚からきていた。みんな分かっている——できないままでは、また誰かが怒鳴られるって。



9:15 全社掲示時刻。

内線が一回鳴り、社内チャットに同じPDFが全員分飛ぶ。

紙回帰派の主任が言う。


「やっぱり紙がいちばん安全だよ」


隣の席の新人が言う。


「でも紙をスキャンして本文に貼ると怒られるんですよね?」


主任は口をつぐむ。そう、そこが詰みポイントだ。




9:42 新会社・訓練室。

俺たちは先に三行ポスターを貼った。


仕様公開デスマッチ(第三者立会い)

1. 同じお題で、同じ時間でやる

2. ブラックボックスはなし(読む列・書く先・記録を見せる)

3. 提出→差し戻し→再提出を一本線で残す(戻れる道はある)


ペンの先が「ブラックボックス」のところで少しだけ止まる。

(向こうは“マクロ”って書かれたら全員ビビる。だからここは“中身が見えないやつ”とセット)




10:00 ノック。

扉がゆっくり開き、神宮寺が監査・総務を伴って入ってくる。

手には通知の原本。厚めの紙に押された赤い印が、部屋の白に強く浮いた。

近くで見ると、神宮寺の指の節に古い紙やすりみたいな傷がある。昔、何かを雑にでも自分で直そうとした人間の手だ。


「今日、ここでやる」


声は低いけど、どこか自分に言い聞かせてる響きがあった。


(今度は、目の前で壊れるところを見ておく──そうすれば守れる)


監査が畳みかけるように読む。


「開始は13:00。課題は同一。時間は同一。手順は読み上げ。ログは公開。Ctrl+Zは可。本文貼付は反則」


総務がつぶやくように付け足す。


「“右クリックして添付”ができない場合は、できないその画面のログも残ります」


部屋が一瞬、凍る。灯が息を飲む音が聞こえた。

俺はA3を一枚、神宮寺のほうに向けて置いた。ボタンのとなりに、読む列/書く先/記録。


「俺はこの仕様でやりましょう」


神宮寺の目がわずかに揺れる。

その揺れは、単なる競争心じゃない。


「あの時にあったら守れたかもしれない」ものを見た人間の揺れだった。



「13:00だ。手は抜かない」


ドアが閉まると同時に、空調がビューッと強く鳴った。

灯が小さく言う。


「……本社、本気でPCできないまま勝負しにきましたね」


つむぎが頷く。


「だから“Ctrl+Z(戻れる道)”を先に見せるのがこっちの勝機です」


リリはキーボードを撫でながら、「今日が今までの成果の見せどころっしょ」と笑った。


ホワイトボードに大きく「13:00」と書く。

ペン先のコツンという音が、決闘のゴングみたいに聞こえた。

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