第3話 提出テンプレと、やさしい差し戻し

朝会。ホワイトボードに今日の目標を三つ。


1. 提出テンプレを作る(提出名・手順・“受信箱”の受け皿)

2. やさしい差し戻しの文面を決める(理由・場所・時刻を一行ずつ)

3. 本文に貼らない運動を社内告知(“添付 → 受信箱で記録”の徹底)


「まず、提出テンプレから」俺はフォルダを開く。中に空の“受け皿”と提出用の雛形。


・提出用_経費_部署名_YYYYMM.xlsx(各部署が複製して使う)

・受信箱_経費_集約.xlsx(受け皿。ここに提出者/時刻が書き込まれる)


「集めるのをやめて、集まってくる側にします」

「“受け皿”って名前、安心する」灯(茶髪ボブ)が微笑む。


1. 提出テンプレの中身(見えるボタン/読める手順)


提出用には小さなボタンを一つ。押すと受信箱の該当シートが更新され、提出ファイルは自動で“提出済み”へ退避(ロック)される。

ボタンの横に説明シートを置き、どの列を読み、どこに書くかを三行で明記。


・読む列:A「日付」B「部門」C「金額」

・書く先:受信箱の同列(末尾に追記)

・記録:右端に提出者/提出時刻


「ボタンは手段。中身が読めることが大事です」


つむぎがうなずく。


「“押すのが怖い”が薄れますね」


リリ「提出後は直せない方が安心?」

「“提出済み”はロックしよう。直す時は差し戻しで、理由・担当・時刻を自動記録」




2. やさしい差し戻し(罰ではなく、道案内)


A4にテンプレを作る。件名と本文は短く、最初の一行は必ず“ありがとう”から。

・件名:【差し戻し】提出用_経費_部署名_YYYYMM.xlsx(修正2点)


・本文:

1. 受領しました(提出時刻:◯◯:◯◯)。ありがとうございます。

2. 直し方が分かるよう、場所と理由を書きます。

   ・B列「部門」:選択式からお選びください(現在は自由記入)

・C列「金額」:桁固定です(「1,2000」は誤り)

3. 直ったら再提出を押してください(自動で記録されます)


灯がほっと息をつく。


「“ありがとうございます”から始まるの、怖くない」

「怖くないは速いに変わる」俺は笑う。




3. メールに貼らない運動(掲示は三行)


入口の壁に貼る紙は三枚だけ。全部三行。


提出ファイルの名前

1. 提出用_経費_部署名_YYYYMM.xlsx

2. 部署名は正式表記

3. 〆毎週金曜16:00


提出の手順

1. 入力ルールを守る(選択式/桁固定)

2. 提出 → “提出済み”へ退避(ロック)

3. 直す時は差し戻し


メールは本文に貼らない

1. 添付で提出(本文は「何を添付したか」だけ)

2. 提出は受信箱に記録

3. 既読≠提出


「三行だと覚えられる」つむぎがスマホで撮影する。

リリが付箋を貼る。「合言葉は“本文に貼らない”」


4. 実地:提出→集約→差し戻し(やさしい一往復)


灯がテスト用の経費を提出。受信箱の末尾に提出者/提出時刻が並び、“提出済み”タブに同じ内容がロックされる。

つむぎがわざと部門名を未登録で出す。受信箱のエラーログに赤で出る。


「その場で直さず差し戻し」


テンプレの一行目を読み、送る。語尾は丁寧に、命令しない。

五分後、緑になる。理由・担当・時刻がそろって戻ってきた。


人力タイムメーターが短く鳴る。

人力タイム(本日):1時間23分(前話 1:55)


「30分以上減った!」


リリが小さくガッツポーズ。


「“直す場所が見える”が速さになる」


俺は白いキーボードを叩く。



「提出用_経費_部署名_YYYYMM.xlsxって、堅すぎない?もっといい名前あるかな?」

「提出ちゃん.xlsx」

「受信箱くん.xlsx」

「最終禁止.xlsx」


最終案は、やっぱり堅い名前に戻った。読むだけで中身が分かるのが目的だから。



〈章末——旧本社〉


ブラインドの隙間から細い橙が机を横切り、埃がそこだけ金色に見える。

蛍光灯のジ…という音が、天井の染みで反響していた。

プリンターはぬるい風を吐き、用紙トレイにはコーヒーの輪染みが一つ。


「合計が出ない。=SUM(C2:C10)って打った」

「全角と半角で間違ってないか?」

「半角ってどっち」

キーボードの半角/全角ランプが、頼りなく点いたり消えたり。



「見出しがスクロールで消えた。どこが“部門”で“金額”か迷子」

「ウィンドウ枠の固定を——」

「固定ってホチキス?」

画面の上で、列名は今日も歩いて逃げる。


空調の吹き出し口が白く曇り、紙の角がふやけてくるんと反る。


「横向き印刷にしたら、蟻の行列になった!」

「余白ゼロで大きくしたら?」

「ゼロは怖い……」

印刷物は右端でことごとく脱落し、回収箱が白い抜け殻で埋まっていく。


一瞬、フロア全体のPCファンが同期したみたいに唸り、すぐ静かになった。


「罫線が消えた! 太くしたいだけなのに!」

「罫線どこにある?」

「ホーム?」→見当たらない

「挿入?」→図形が現れ、斜め線でセルを真っ二つ

「コピーで増やす?」→二重線が三重になり、点線と実線が市松模様

「スクショして貼る?」→解像度が足りず、印刷で毛糸みたいに潰れる

表はいつの間にか白黒の網にほつれて、セルの境目がポロポロ崩れ落ちた。


夕焼けは薄紫に変わり、室内の橙は弱くなる。


経理の若手が青い顔で戻る。


「数式を下までコピーしたら金額が0になりました」

ベテラン「$を付けろ」

若手「ドル? 為替?」

ベテラン「絶対参照だ」

若手「絶対って……、それって強制ですか?パワハラですよ?」


セルの途中に’(アポストロフィ)が混ざって文字列になり、合計は黙ったまま。


——会議席の端。神宮寺 誠はノートPCを閉じ、紙のノートを開いた。

一行目に、勢いよく書く。「対策:フォーマット統一」

二行目、ペン先が鈍る。「謝罪文(案)」

三行目で止まる。インクの点が黒いしみになった。


彼はメール作成を開く。宛先“社内一斉”。件名を打っては消す。


【至急】提出方法について

【お願い】更新前保存・更新後比較を確認する

数行で心が折れ、下書き保存へ逃げ込む。送信にマウスが触れるたび、胸の奥が逆流した。


スマホの連絡先で灰原を探す。今度は名前で止まらない。指は検索窓へ滑り、何も打てずに戻る。

窓の外、駐車場の白線が夕闇に溶けた。


立ち上がって喫煙所の扉を半分開け、閉める。深呼吸を三度。ポケットの付箋を丸め、開く。


「16:00=16:00(四時)」/「添付で出す」/「出所・日付・確認者」

——昨日の自分が嫌になった言葉だ。


悔しさは怒鳴り声にならず、静かな熱になって耳の後ろにこもる。


(負けたわけじゃない。だが、このままでは勝てない)


声は出ず、唇だけが動いた。


席に戻ると、罫線が斜めに割れた表が待っている。神宮寺は線を直そうとして、またどこで変えるのか分からない画面に立ち尽くす。


モニター端で自動保存の小さなチェックが一度だけ光り、消えた。彼はゆっくり腰を下ろし、何も押さなかった。指先が、ほんの少し震えていた。


白いキーボードは、静かにカチッと鳴った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る